セーラー服忍者

長野峻也

一章 抜け忍

「母さん、見て。お月様が、あんなに赤いよ」

 森の樹々の隙間から夜空を見上げた篠が、傍らを疾走しているお仙に呼びかけた。

「篠。余計なことは考えるんじゃないよ。すぐに追っ手が来る。そうしたら戦わなきゃならないんだ。覚悟しておきな」

(まったく、この娘は忍びには向いてないね~。こんな時に呑気に夜空を見上げてるなんて・・・)

 お仙の緊張した顔が一瞬、緩んで、母親の顔になった。が、すぐに忍びの顔を取り戻すと、併走している娘の視線の先にある夜空を、ちらりと見上げた。

 そこには毒々しいくらい赤く染まった満月が浮かんでいた。

(あ~、あの時も、こんな月の出ている晩だった・・・)


 お仙は、子供の頃に山中で見た月を思い出した。

 その夜、五つ年上の兄に忍法体術を教わっていて、崖から足を滑らせた。

「仙、じっとしておれよ」

 葛に掴まって落下を免れた妹を助けようとした兄が、誤って崖に落ちた。

「兄様っ!」

 落下する兄を追った視線の先で、確かに兄の姿が消えた。

「兄様ーっ!」

 幼いお仙が、いくら叫んでも兄の応えはなかった。

 そのまま夜が明けるまで葛に掴まったまま泣いて過ごし、明け方に兄妹を探しに来た両親に救助されたが、兄の死骸は崖下から発見されなかった。

 山の忍びの言い伝えに、異界に通じる穴に人が迷い込み、遥かに遠くの国に出たり、何十年も経って昔の姿のまま現れることがあるそうだ。

 神隠しと里の者は呼んでいるが、山の民は、異界に通じる穴が開くことがたまにあることを知っている。

 そして、決まって、妖しい兆しが現れるのだと言い伝えられていた。

「血のように赤く染まった大きな満月は、異境への道が開く知らせ」だと・・・。


 一六世紀末、戦国の世も終わろうかという頃である。

 全国の諸大名のほとんどに、お抱えの忍者集団があった。

 伊賀、甲賀、根来、雑賀、風魔、鉢屋、黒ハバキ、引甲、真田、村雲・・・。

 九州肥後之國人吉の相良家には知られざる凄腕の忍び集団、通称、相良忍軍が居た。

 山深い人吉は平家の落ち武者伝説の土地であり、タタラ者(採鉄民)や、土地に定住せずに山間を巡って暮らす山の民の拠点だった。また、人吉から八代を経由して有明海の対岸に位置する天草諸島に至っては海賊の拠点でもあった。

 相良忍軍は、山深い土地にありながら、山と海を使ったネットワークで他国の忍び集団に優る諜報網を持っていたのである。

 そればかりではない。特に忍法武術にも秀でていた。

 忍軍の頭領は、丸目蔵人佐徹斎。

 九州一円に広まったタイ捨流兵法の創始者で、剣聖と名高い上泉伊勢守信綱の高弟であり、俗に言う四天王(疋田豊五郎、神後伊豆、柳生宗厳、丸目蔵人佐)の一人で、伊勢守から新陰流を継承した柳生石舟斎に比肩する実力者として、「東の柳生に西の丸目」と畏怖された当代屈指の大剣豪である。

 世に知られた剣豪が表の顔なら、忍び集団の頭領は裏の顔であった。

 上泉伊勢守の興した新陰流兵法には極秘伝として忍法が伝えられており、伝承したのは数多いる門弟の中でも柳生と丸目だけだったと伝えられる。

 柳生が忍法を駆使するというのは数々の時代小説でも描かれたことで信憑性もあるのだが、丸目蔵人佐については一門の伝承でしか知られておらず、一切の文献資料が遺っていない。

 もともと、丸目は天草伊豆守に剣術(中条流、あるいは神道流)を学んでいたと伝わるが、これが天草諸島を根城とする海賊集団との繋がりとなり、後々の相良忍軍の組織化の促進に繋がった。

 台湾を拠点とした海賊出身の伝林坊頼慶は中国武術の達人であり、丸目の片腕としてタイ捨流の技にも影響を与えたとされる。よって、タイ捨流には剣のみならず、杖術や手裏剣術、中国伝来の拳法も組み込まれているのである。

 丸目が時の幕府や薩摩の隠密を十七人も暗殺したと伝わるのも、忍びの技と中国武術とが合体した独自の剣術であったことも関係があったろう。

 剣対剣同士であれば、相当な実力差がなければ、そうそう簡単に勝負がつかない。

 しかし、戦闘法の違う技を組み込めば、相手の裏をかくことが容易となる。忍法体術と中国武術を採り入れたタイ捨流は、まさに暗殺のための剣術であったからだ。


 つい先日、相良家の国家老を暗殺する指令が下った。薩摩と通じているという情報が入ったからである。

 丸目の作戦では、女中奉公で潜り込む役目を篠がやることになったのだが、暗殺に成功しても失敗しても新入りの女中がくノ一と疑われるのは必定であり、身元が露見しないためには捨て石にならざるを得ない。

 つまり、暗に自決せよというに等しかった。

 これに憤ったのが、篠の母親の霞のお仙であった。

 霞のお仙は、丸目配下の相良忍軍中でも一、二を争う手練の女忍び、くノ一である。

 篠はお仙の血を引いているだけに忍びの才能に秀でており、将来はお仙を超える女忍びになるだろうと仲間の間でも言われていた。

 そんな優秀な配下を捨て石にしてしまう丸目の冷血を憎悪し、お仙は篠と共に抜け忍になる道を選んだのだった。

 後世、抜け忍は徹底的に追跡され始末されると伝えられているが、伊賀や甲賀を代表とする多くの忍者の里は特殊技能を持つ傭兵の供給場所とされていた。

 飛び加藤と呼ばれた加藤段蔵のように、優秀な忍者が戦国大名に自分から売り込むことも珍しくはなかった。

 霞のお仙には、それだけの忍びの技能が備わっており、相良忍軍を抜けても雇い主を探す当てはあった。

 徳川家康の懐刀になっている伊賀の服部半蔵を頼るつもりであった。

「豊臣の天下は長く続かぬ。朝鮮出兵で太閤に不満を持つ大名が増えている。先の世を読んでおられるのは、我が主の外にはおらぬ。お仙殿、わしの片腕になってくれぬか?」

 半年ほど前、相良家に隠密として入ってきていた半蔵を暗殺しかかったお仙は、半蔵と戦ううちに、実力と人柄、そして清明な志しに惹かれた。

 初めて、尊敬できる男に会った。この男に、ずっと付き従って生きたいと思った。

 三十も半ばを越え、生まれて初めて、女の感情に目覚めたのだった。

 お仙は半蔵を逃がした。

 幸い、他の者には誰一人、気づかれなかった・・・と、思っている。


「ちっ・・・」

 お仙が走りながら小さく舌打ちした。疾駆しながら左手で腰の忍び刀の鍔元を握る。

「母さん」

「篠、追いつかれた。あたしが食い止めてる間に、できるだけ遠くに逃げな!」

「いやだ! あたしも戦う!」

「しょうがないね~。油断するんじゃないよ?」

 二人が同時に足を止め、背後を振り向くと共に忍び刀を抜いて構えた。

 お仙の刀は刀身一尺六寸(約四十八センチメートル)。無反りで黒染め。夜戦向きに刀身は黒染めにしてある。

 一方、篠の刀は刀身一尺(約三十センチメートル)の寸延び短刀で、切っ先の横手筋が刀身の半分程もある「おそらく造り」である。身幅も広く、重ねも厚い。短刀とはいえ戦闘的な造り込みであった。

 樹木の間から十字手裏剣が曲線を描きながら飛んでくる。お仙が身を低くしてやり過ごすと、篠も半身を切って躱した。

 下手に刀で打ち落とせば、金属音や火花で居場所が知れる。

 刀身が刃毀れするかもしれないし、十字手裏剣は刀身に巻き付くように軌道を変えてくる場合もある。躱すのが最良なのだ。

 お仙は、体勢を低くしたまま横の草むらに潜った。

 篠は、近くの太い樹の枝に手をかけて、猿のように身軽に登った。

 龍遁の術、もしくは昇天の術と呼ばれる、樹木に駆け登る術である。

 普通は手鉤と足鉤を装着していないとできない術だが、篠は難無くこなせた。軽量小柄な体格と柔軟な筋肉がなせる術だった。

 手裏剣が狙いを外したことから、お仙と篠の居場所を見失った追っ手の者が、用心しながら現れた。

 三人居る。

「ぐぅっ」

 一人がくぐもった悲鳴を挙げて、片足を挙げた。足裏に鉄菱が突き刺さっている。

 お仙が草むらに潜りながら撒いていたものだった。

「ぐえっ」

 もう一人が呻き声を漏らすと、腹から刀が突き抜けていた。背後からお仙が深々と忍び刀で突き貫いていた。

 残った一人がお仙に斬りかかろうとすると、頭上から落ちてきた篠の刀に脳天を貫かれ、声も出せずに崩れ倒れた。

 鉄菱が足裏に刺さった忍びが、慌てて刀を構えるが、お仙と篠の連携斬撃に前後から首を斬られ、自重でゴロリと素っ首が落ちた。夜目にも赤い血が噴出する首無しの身体が、ゆっくりと横倒しに倒れた。

「流石は霞のお仙・・・」

 闇の中から訛りのある低い声が響いた。

「その声は、伝林坊か?」

 伝林坊頼慶。

 海賊上がりの明国人で、丸目蔵人佐の懐刀。相良忍軍の実質司令官である。

「お仙。篠を連れて抜けるつもりか?」

 現れた伝林坊は鎖を編んだ忍び頭巾を被り、眉尖刀を持っている。

 眉尖刀は長巻や薙刀に似た中国の武器である。身の丈六尺五寸(約一メートル九十七センチ)もある巨漢の伝林坊は、武蔵坊弁慶を彷彿させた。

 返事をしないお仙に対して、見かけに似合わぬ優しげな声で呼びかけた。

「今、組に帰れば、わしがお頭にとりなしてくれよう。さっ、篠を連れて帰るのだ」

 近寄ってくる伝林坊に油断なく忍び刀を向けたまま、お仙が後じさる。篠も母に倣う。

 既に三人の相良忍びを屠っている。無事に済む道理がなかった。

「伝林坊、お前の後ろには誰がいるんだい?」

 お仙が問うと、伝林坊が立ち止まった。忍び頭巾の中の顔がくくくっと、笑っている。

 巨体の背後から影が飛び上がった。一つ、二つ!

 手甲鉤を嵌めた手がお仙の顔面を襲うが、一瞬、海老反りに反ったお仙がそのまま身軽に宙返りして躱し、さらに二回転、三回転して間合を開く。

 ザザッと、地に伏した手甲鉤の忍びが、地面を蹴って飛び掛かろうとするが、空中で腹を裂かれ、夜気に血の花を咲かして落ちた。

 篠が跳躍して、母を追う忍びを死角から斬撃して仕留めたのだった。

「篠! 構うな! 自分の身だけ守れ!」

 お仙の指示は的確だった。

 着地した篠の足首に何かが巻き付いた。鎖竜陀。三本の鎖分銅を円環で繋いだ武器で、獲物に投げ付けて絡め捕る。

 分銅にトゲが付いていてふくら脛に食い込んだようだ。鈍い痛みで足が動かない。

 竹の柄の短い槍を振り上げた忍びが飛び掛かってきた。咄嗟に転がって避ける。鎖が絡まった方の脚が重い。

 連続して槍を突いてくるのをゴロゴロと転がって間一髪で避けながら、篠は反撃の瞬間を狙った。

 忍びの槍が一瞬、動きを止めて大きく振りかぶった刹那、篠が鎖竜陀の絡まった方の脚を大きく振り回した。蹴りは届かなかったが、遠心力で解けた鎖分銅がブンッと唸りをあげて忍びの側頭を打ち抜いた。

 忍びは槍を構えたままバタリと横倒しになった。ちょうど、コメカミに分銅がめり込んでいた。コメカミは、頭蓋骨のかみ合う部分で薄くなっている。鋼の分銅の直撃が骨を砕いて脳髄に致命傷を与えていた。

 腹心の忍び二人を篠が倒したことに驚きと憤怒の入り混じった視線を向けた伝林坊が、篠に眉尖刀の切っ先を向けた。

 と、眉尖刀の前にお仙が立ち塞がる。

「あんたの相手は、あたしだよ」

 左手に忍び刀を逆手に構え、右手で手裏剣三枚同時に下打ちに放った。

 二枚同時打ちなら篠もできるが、三枚はできない。お仙の得意技である。

 しかも、投げ打つ瞬間、指の操作で三枚の手裏剣が微妙に軌道を変えて飛来し、すべて躱すのは不可能に近い。

 もちろん、得物で打ち落とすのも危険だ。

 お仙の腕なら一瞬の隙に付け入られるだろう。隙は見せられない。

 伝林坊は、打ち落としも躱しもしなかった。三枚共、二の腕、胸、太ももに突き刺さったが、伝林坊は怯まず眉尖刀をお仙に向かって振り下ろしてきた。

 並の忍びなら動けなくなるだろうが、伝林坊は中国武術特有の硬功夫(インゴンフー)で鍛えた筋肉で、手裏剣の刃の侵入を浅く阻んでいた。

 しかし、わずかに動きが鈍って、眉尖刀の斬撃に緩みが生じていた。

 お仙は、慌てず、刃を見切って地面を蹴り、大きく背後に跳躍すると、傍らの巨樹に駆け登った。

 篠の龍遁の術も見事だったが、お仙のそれは神業と呼ぶべきだった。山猫が幹を駆け上がるように登ると、枝葉に隠れてしまう。

 霞のお仙と呼ばれるのは、雲か霞と姿を隠してしまう術の見事さに対する仲間の畏敬の呼び名だった。

 中国武術の達人である伝林坊も、忍びの術に関してはお仙に一歩譲るしかなかった。

 憤怒の顔の伝林坊が、お仙の駆け上がった巨木の幹に眉尖刀を思い切り切りつけた。

 が、流石に斬り倒すことはできない。怪力で深々と幹にめり込んだ眉尖刀の刃を引き抜こうとしたが、接着されたように抜けない。

 慌てた伝林坊が膂力を込めて抜こうとした時、その両肩にお仙がひらりと飛び乗った。

 忍び刀の刃を頭巾に差し込み、喉首に突き付ける。

「伝林坊。武術では、あんたに敵わないが、忍びの術なら、あたしが上だったね? 場所が味方してくれたよ。さあ、どうする?」

「お仙。わしを殺しても、お頭から逃れることはできんぞ」

「あんたがいなくちゃ相良忍びは統制を失う。だから、殺したくはない。どうだい? 取引しないかい?」

「取引?」

「あたし達を殺したとお頭に報告してくれないかい?」

「屍を見せねば、お頭は納得すまい」

「殺したが谷に落ちて川に流れたとでもいえばいい」

 伝林坊が思案するように沈黙した。

 と、突然、お仙が体勢を崩して地面に落ちた。肩に銀色の針型手裏剣が刺さっていた。

「お頭・・・?」

 月光に照らされて黒笠を被った侍が五間(約九メートル)ほど離れて立っていた。

「お仙、取引は成立せぬ。うぬら母娘は相良忍びを抜けた者。掟通り、ここで逝ね!」

 丸目蔵人佐。

 相良忍軍の頭領であった。

 篠がお仙を庇って丸目の前に立ち塞がった。が、明らかに怯んでいる。

「篠・・・うぬのその細腕で、相良家兵法指南役のわしが斬れるか?」

 蔵人佐が、左手に下げていた包みを放り投げた。

「うっ?」

 地面に転がった包みが解けて生首が覗いた。白髪頭の侍の首であった。

「うぬが始末する手筈だった国家老、井上内膳の首じゃ。今し方、わしが討ち取ってきた。これで主命も果たした。後は、うぬら母娘の裏切りの始末をつけねばならぬ・・・」

 異様な殺気が蔵人佐から放射されている。篠は毒気に襲われたように身動きできない。

 ヒュッと空気を裂いて銀色の光が蔵人佐に飛んだ。

 蔵人佐が笠を傾げると、笠の縁に針型手裏剣がつき立った。

 お仙が肩に刺さった手裏剣を抜いて打ち返したのである。眼を狙ったが、笠で防がれたのだ。

「篠、お頭の相手はお前には無理だ。あたしがくい止めてる間に逃げな!」

「ほう、逃げきれると思うか?」

「篠! 逃げろ! お前は生きるんだっ!」

 お仙が絶叫して蔵人佐に斬りかかっていった。

 忍び刀の切っ先が袈裟に斬り込むのを、蔵人佐が逆手抜きにした刀で打ち飛ばす。鋼の撃ち合う火花が散った。次の瞬間、斬り上げた刀が反転して袈裟に斬り下がる、と、刀をビュンビュンと振りながら蔵人佐が飛び下がり、納刀した。

 お仙が、ゆっくりと倒れる。

 タイ捨流の秘技、逆握。逆手抜きに斬り上げ、斬り下げる秘剣であり、蔵人佐の最も得意とする暗殺剣であった。

「母さんっ!」

 篠が叫んで、倒れた母に駆け寄ろうとした。が、その前に蔵人佐が立ち塞がった。

「篠、覚悟せい・・・」

 今度は、威圧するように、ゆっくりと刀を抜く。

「むっ?」

 蔵人佐の動きが止まった。背後を見ると、お仙がしがみついている。

「篠っ! 何をしている。早く逃げるんだっ! 早くっ!」

 逡巡していた篠が、決意した顔をお仙に向けて、駆け出した。

「お仙。うぬは・・・」

「お頭・・・篠は、あなたの・・・」

 蔵人佐がお仙の腕を振りほどくと、刀を突き立て、篠を追う。

 篠が夜の闇の中を疾駆する。背後から追ってくる蔵人佐は絶対の死をもたらす死神に等しい。

「あっ・・・?」

 急に足元の感触がなくなった。落下していく感覚。

(谷に落ちたのか・・・?)

 篠の視界に天空に浮かぶ赤い満月だけが映っていた。

「篠、お前は生きるんだ・・・」

 お仙の声が聞こえた。

「母さん、ごめん。あたしも・・・」

 どこまでもどこまでも、落下の感覚は続いていき、やがて意識は遠くなった・・・。

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