彼と雲 3

正義と悪。そんなものは誰かが生み出した体制側の秩序。少し考えれば、そこに価値はない。正義と悪に関しては誰もが幾数の時間をかけて考えているはず。人を殺せば悪、人を守れば正義。正義の相手は正義という考えも世にはある。意味も意義も主義も何もかもが、薄っぺらい空想のものだと知っている。


 考えるものによって、正義と悪は異なる。生きるために殺すのが悪と断じるものが全てではなく、遊びのために生かすのが正義というわけでもない。



 そういう考えを一人一人が描いて、そして思うだけで人生を終える。



 人生を負えるほどの思いを込め形に刻んで進んだのが法律であり、国家の最初の線引きだ。人類が構築した同胞を民衆を平穏に暮らさせる箱庭の戒め。


 ルールとは戒めに他ならない。


 戒めを壊すのは、誰にとっても悪であるべきだ。いわれなき暴言や暴行を働く輩は誰であっても正義ではない。


 幾つも考えを構築し、行き当たる無意味の物であっても誰もが最終的に理解することだろう。


 確かに正義と悪は存在する。




 ここにも存在する。


 悪が。全てを破壊する巨悪が。毒をまき散らし、影のように薄い。歪で空虚な変わり者の人形が、今ここにいる。


 冒険者ギルド。ベルク支点において、その巨悪は受け付けから見て壁際の席で腰をかけている。テーブルに置かれたのは、金貨が詰まった皮袋。そして巨悪の両肘がついており、指を組みあわせている。その視界は受付や掲示板、全てを視界におさめる一点のみだ。



 背後に控えるのは、槍を装備したオーク、剣を装備したリザードマン。足元にアラクネが無邪気に笑みを浮かべて立っているのみ。


 入り口は開かれ、その目の先にはトゥグストラなるベルク最大の敵が立ちふだかっている。黒き巨躯の闘牛もどきと外側の入り口両脇にゴブリンとコボルトが警戒のために立っていた。






 壁際は入り口近くのところだ。壁の外側から攻撃されないように、トゥグストラの近くを陣取るかのようなテーブルの位置にて巨悪は待っていた。


 普段の死んだ魚の眼は、呪詛をまき散らすかのような眼圧をもって、この場を汚す。破滅をもたらす害悪を誰もが巨悪に抱き、絶望を表情に張り付ける。


 その日、冒険者ギルドは平穏だった。



 何もない一日を過ごせるはずだった。




 突然やってきた巨悪、彼は受付に来るやいなや宿を焼いた犯人が誰か特定しろと依頼をかけた。拒否することも許さないように、冒険者がやったという情報を周囲にまき散らした。被害者は宿屋であり、そして自身。


 巨悪たる彼を巻き込む騒動に発展させたのが、冒険者。


 その情報がもたらされた瞬間、悲鳴がもたらされた。慌てふためく冒険者や受付嬢を無視し、一方的に要求を突きつけ壁際の席まで移動した。


 魔物相手にならばパニックになることはないであろう、冒険者たちも理性を失っていた。入り口に殺到し、冒険者も受付嬢ももみくちゃになりながら一つの出口を目指す。巨悪が入りし入り口と、冒険者が入る入り口。殺到した誰もが一つしかない入り口をめがけて出ようと挑む。



「・・・逃がさないように」


 小声だ。もみくちゃになりながら発狂する声に掻き消されることがない。独特の間をあけた言葉は、野蛮な手段をもって答えとなした。




 入り口から出ようとした栄光の一人を、トゥグストラが威圧をもって歓迎した。後は出ようとしていた集団と建物内に戻ろうとする勢力が入り混じっての大乱闘。



 受付嬢は自慢の美貌を、冒険者に台無しにされた。冒険者の利き腕は誰かわからない奴にへし折られた。倒れた奴はそのまま誰かが足をのせて踏み台にした。そこに暴行の意図は一切ない。ただ生きようとしただけで混乱しただけだ。




「・・・皆さん少し落ち着いて」



 巨悪は語る。


「・・・僕はただ知りたいんです。誰が、僕の住むところを焼いたのか。」


 混乱は止まらない。



 暴走は止まらない。平穏を甘受するのは巨悪のみ。



 破滅をもたらす巨悪、怪物は怒りを静かに込めて口を開く。




「・・・落ち着いてください。その方が皆さんにはふさわしい」



 されど怪物の手腕によって暴徒と化した輩たちは止まらない。暴言、暴力。出るか、戻るか。勢力の取っ組み合いは未だ起きている。



 それすらも気にせず、形ばかりの制止を怪物はかけている。




「・・・混乱している理由がわからない。何も起きていないのに、自分たちで何かを起こすなんて・・・」




 そう怪物は、カタカタと口が小さく動く。誰もが聞いていなくても、誰もが耳を怪物に向けている。向けていて、なお止まれないだけなのだ。



「・・・無意味じゃありませんか。・・・少しばかり落ち着いてください・・・勿体ないです・・・」



 町を一つ滅ぼした。


 人の破壊をもたらした。


 怪物に秘めたる左目の悲鳴。名もない誰かの悪意が怪物に閉じ込められ、周囲にばらまかれている。魔力の高いもの、精神力の高いもの、平均的なもの、誰もが理解している。



 これは人の悪意を集めている。魂を集め、謂れなき生贄を探しているのだと。



 だからこそ、その言葉の続きは誰もが想像した。




「・・・体力は残しておかないと・・・今後に差し支えます」



 怪物の言動には含みがあった。そこに違和感があったものたちは、暴走から理性を取り戻していく。



 生きようとするものは、顔もしらない誰かに殴りかかる手を止めた。武器を引き抜こうとした者は、巨悪の言葉によって恐怖を鎮圧された。



 この場にいる冒険者たちや、顔を腫らした受付嬢、非戦闘員たちは怪物の言葉に対してそろって顔をむけた。


 無表情、されど呪縛のごとく左目が全てを見つめている。誰もを見つめ、背筋の震えを増幅させる。怪物の組まれていた手は、拍手の形となって音をならす。


 ぱち。


 小さな拍手。



「・・・ほら、元気は残してください。・・・皆さんには、まだやるべきことがあるのだから」


 怪物には思惑がある。理由がある。使えるものは生かし、邪魔になる者は破壊する。今はまだこの場にいるものに使い道がある。そう含ませたかのような言葉だった。



 恐怖による鎮圧。



 それを落ち着いたと思ったのか、怪物は少しばかり気をよくしたようだ。無表情なものに、若干の頬の歪み。嘲笑なのか、苦笑なのか。されど吐き出す言葉と、まき散らす左目の悪意。もたらす影のような薄い気配が不安を煽っていく。



「・・・ところで皆さん、僕の依頼を受けませんか?」



 怪物はテーブルの上の皮袋を掴みあげ、軽くゆらす。その袋につまった金銭がじゃりじゃりと音を立てた。



 反応はない。



「・・・依頼は何度も言いましたが、もう一度言います。・・・宿をやいたものの特定。及び懲罰」



 怪物は再び、小さく拍手をならす。


 ぱちり。



「・・・好きにどうぞ。受けたくなければ、受けなくて結構。依頼額が足りなければもう少し出せます。・・・成功報酬に関しても、あと少しだけなら出します。」



 怪物は、そうして皮袋のヒモをほどいた。緩んだ皮袋を反対にするように底面を持ち上げた。小さく持ち上げたことにより、金銭がじゃらりじゃらりと勢いをたてテーブルへとぶちまけられていく。されど一枚たりとも金銭は落ちたりしない。テーブルの端から端までいきわたった金銭たち。



「・・・その場で見れる方は見てください。その場で見れない方は近づいてください。・・・・ただ、とったりするのは駄目です。・・・・その場合対処が面倒です」



 誰も怪物に近づくことはない。依頼を受けさせたいのか、対処という言葉で脅しをかけたいのか。両方の天秤を押し付けて怪物は依頼を引き受けるものを待つ。



 テーブルに上に散乱した金銭は、およそ相場以上ではある。されど異常に高いというわけでもない。適正価格より色を若干つけた程度のものだった。




「・・・受けてくれた方には感謝とこのお金ぐらいしか渡せませんが・・・誰か受けてくれると助かります。・・・ただ特定してくれるだけでもいいです・・・・」




 一人、手があがった。


 二人、手が上がった。



 いくつかの手が上がった。




「受けなかったらどうなる?」


 集団に塗れ、怪物の眼には移らない点からの声。



「・・・あきらめます、潔く」


 小さなため息をもって、その返答を返す。


「受けたらどうなる?」


「・・・成功しなくても、多少ですがお金は出します」


「そうじゃない、金はどうでもいい。・・・あんたは俺たちをどうする?受けて成功しなかった場合は?成功した場合は?受けなかった場合は?教えてくれ、頼む。あんたがどう動くかで依頼を受けるかどうかが決定するんだ」



 怪物は首を傾げた。足元にたつアラクネも首を傾げた。前者は疑問から、後者は真似するようにして、意図を理解したことによる嫌がらせ。無表情の怪物と無邪気な笑みのアラクネ。対照的な独りと一匹の合わせコンボは、この場においての演出となる。



 わからないから言葉にしろという当たり前のもののはずが、恐怖を煽るかのようなしぐさとなって答えを出す。


 聞くまでもないだろう?


 それが怪物の答えであろう。



「・・・しいていうならば、受けても損はさせません。・・・受けなくても損はしません・・・」



 怪物は虚ろのない眼光をもって、威圧する。質問者の姿は見えない。見たくもない。されど視線だけは声の方へ向けている。



「受けたら、成功しなくても助けてくれ」



「・・・言っている意味がわかりませんが、何かあれば手助けしましょう」



 命の懇願を、怪物の慈悲によって掌握していく。



「・・・受けてくれたら感謝します。・・・もしかしたら出来る範囲であれば、悪いようにはならない程度に助けましょう・・・・僕程度の力でよければ、ですが」



 その言葉以降、全ての者が手を挙げた。冒険者だけではない、非戦闘員も受付嬢も全てが恐怖と命の懇願による行動で手を挙げている。




 ぱちり。



 怪物は再び拍手した。


 それは連続行動の拍手だ。何度も手を叩く。



「・・・悪いようにはしません・・・・微小ながら良い意味のお礼は必ずします」




 怪物はここで初めて笑う。



 蛇のごとく、嫌われ者の嘲笑を。





 その日、すぐに冒険者たちは行動を開始した。怪物の退出後、全ての人員は特定へと挑む。かつてない速度と連携。顔を腫らそうが、腕が折れていようが、自身の命の前では耐えられる。


 破壊される恐怖に比べれば、安いもの。



 行動を開始し、半刻。


 犯人は特定された。

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