傭兵と官吏の湯 (後)

「御苦労」


 メイガスは濡れた猫のように身体を震わせた後、振り返る。


 目の前に傭兵団長の身体を改めて、なめるように眺めた。

 防具の上からでは分からなかったが肉づきも意外にしっかりしている。

 所々に刀傷などが目立っているが肌そのものは滑らかで、美しい。

 なかなか洗いがいがある身体つきだ。


「では次は君の番だ」

「私を……洗うのか?」

「無論だ。身体をしっかり洗わないと疫病になるからな」


 傭兵団長は、疫病という言葉に眉尻を動かした。


 嘘ではない。

 彼女やその部下に貸与していた仮面も、防疫服も完璧ではない。

 故に隅々まで念入りに洗う必要があるのだ。


「蚤はどんなところからも忍び込んでくるぞ。そし汗で湿った場所や、垢を好むのだ」


 そう告げると、傭兵団長は観念したように溜息をついた。

 それから椅子に腰かけ、背中をこちらに向けてくる。 



 傭兵団長――ガゼルは、陶器のような椅子に座り頭を抱えていた。


 飲み込めない事ばかりだ。


 村を三度も焼いて回り、元凶である黒い霧と遭遇した。

 見知らぬ銭湯なる場所に連れて行かれ、疫病の正体が蚤だと聞かされたり、世界が終わる事と言われた。


 挙句、他人に身体を洗われる始末。

 本当に飲み込めない事ばかりだ。


「ハア、ゴクラクゴクラク」

「……」

「いい湯だ。いやはや実に素晴らしい湯だ」


 雇い主はいつの間にか湯に浸かっていた。

 彼女はなみなみと湯に入った囲いのなかで、黄色い家鴨のような玩具を浮かべて遊んでいる。

 まるでこの世の終わりを告げてきた当事者とは、とても思えない体たらくだ。


「おい」

「何だね?」

「さっき教会がどうとか言っていたのはどういう意味だ」

「知りたいかね?」


 依頼主が面白がるな視線を向けてくる。

 ろくな話ではないのだと分かった。だがここまで知ってしまった以上、何を聞いても一緒だ。


「教えろ」

「いいだろう。教会には二つの問題がある」


 依頼主は人差し指を立ててみせる。


「まず『清貧』の教えだ」

「『身嗜みよりも、清貧さを守るべし』『濫りに身体を洗うと健康を損なう』『皮膚を厚くすることで、邪悪なものが入ってくるのを防げ』『贅沢をする者、罪深き者から、疫病の餌食になる』」

「それだ。司教どもは間違った教えを説き、あまつさえ疫病対策に免罪符を配る始末だ」


『清貧』の教え。

 これは敬虔な教会信徒でなくとも、身に着けている知識だ。

 教えを守り、親は子供に水浴びを極力避けるように注意するし、身体を拭くこともめったにしない。貴族のように金があれば、香水で匂いを誤魔化すのが美徳とされている。


「だが蚤を避けるには、清潔でいなければいけない」


 蚤が人間の垢を好む、と雇い主は言った。

 健康不健康の真偽はともかく、確かにより不潔でいる者ほど蚤に集られ、噛まれ易い。

 これは誰でも理解できる常識だ。


「ふたつ目は巡礼者」


 雇い主は更に中指を加える。


「行商人や吟遊詩人などには検疫の義務が課せられているが、巡業者にはそれがない。故に、彼らは制約なく移動ができる」


 雇い主はそれ以上の説明はしてこなかった。

 どういう意味かを、ガゼルは考える。


 巡礼者になる程の信者は、無論、教会の教えに忠実だろう。

 ならば清潔な身形ではないはず。

 蚤の格好の餌食だ。そんな彼らが自由に都市から都市へと移動した結果、どうなるのかは、容易に想像がついた。


「規制できないのか」

「異端者と罵られ火炙りにされるのが落ちだろうな」


 依頼主はのんきな顔で玩具と戯れながら、恐ろしい言葉をさらっと吐いた。


 だが教会は大陸全土に広がっている神の教え。

 都市や国がそれを否定することは非常に大きな危険を伴うだろう。大体、病気になるから体を清潔にしろ、と説いたところでどれだけの人々が信じるだろうか。


「……ところで君は入浴しないのかい?」

「ニュウヨークとは何だ?」


 聞きなれない言葉だ。


「湯に浸かるという意味だよ」

「だが浸かった事は……ない」


 ガゼルは信仰心がない。

 十の時に家族を失い、神を信じるのを止めた。傭兵になったのもその時だ。

 だがそれでも『濫りに身体を洗わない』という教会の教えは、自分にも根付いていた。身体を洗ったのですら実に久しぶりの事なのだ。


「悲劇だね。人生における楽しみの半分を理解していないのと同義だ」

「そんなにも気持ちいいのか」

「愚問だよ。例え、疫病のせいで死のうとする人間が目の前にいたとしても私は、湯に浸かるのを止めない」


 彼女はきっぱりとそう断言する。

 顔を見る限り本気のようだ。


 官吏というのは、国務にたずさわり国家に対して忠実な役人だ。

 厳しい試験を潜り抜けた、何万人に一人という人材が就くものだと聞いていたが、彼女に限っては例外なのかもしれない。


「残りの半分は何だ?」

「湯上りの麦酒に決まっている」

「……」


 傭兵団長は意を決し、椅子から立ち上がった。

 この女にこうまで言わせる湯がどんなものかを知りたくなったのもある。

 だが何よりもじっと動かずに苦悶している事に耐えられなくなったのだ。


 他の客がしているように手拭いを頭に乗せると、湯船に向かう。

 まずは片足から。

 爪先を入れると軽く痺れる感じがした。

 思ったより熱いようだ。

 このままゆっくり入るのは難しいと考え、勢い良くに体を沈める。

 全身がぴりぴりと居たかったが、すぐに慣れ心地よさに変わってきた。


「……ふう」


 堪らず息がこぼれた。

 身体が熱くなり、首周りから汗が吹きこぼれてくる。

 まるで強烈な鍛錬を終えた後のような感覚だ。


「悪くない」

「そうだろうそうだろう」


 依頼主は嬉しそうな顔で何度も頷いた。


 どういうわけか気持ちが軽い。

 先程まで抱えていたはずの重苦しい絶望が、汗と共にどこかへ消えている。

 代わりに内側から湧き上がってくるものがあるのを感じた。

 大げさに表現するならば、それは喜び。生きようとする活力だ。


「これがニュウヨーク」

「その通りだ」


 依頼人は壁に寄りかかり、瞼を閉じて頷いている。

 ガゼルもそれに倣い壁に身を預けると、瞼を閉じた。


 ふいに何処からか歌が聞こえてくる。

 聞き覚えのある声。

 壁を隔てた向こう側から、傭兵団の連中が故郷の歌を歌っている。

 実に楽しそうだ。


 確かにこれは人生の半分に値するものかもしれない。

 少なくとも、今この瞬間、何よりも自分が求めていたものはこれだった。


「余計なことは忘れて、今はしっかり休養をとりたまえ」

「……」

「元気になったらまた扱き使ってやるさ」


 隣からはそんな声が聞こえてきた。

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