第七日:03【中田姫子】

第七日:03【中田姫子】


 ……友人らとともに唖然とした顔で、ただそれを見つめていた。

 一分近く続けられたあたりでようやく皆が我に返り、二人を慌てて引き剥がす。「きゅぽん」と音がしそうな勢いで、御堂小夜子と長野恵梨香の唇が糸を引きつつ離れていた。


「そ、そこまで本格的にやらなくてもいいよ」


 と、慌てる友人。あれは誰だっただろう。姫子は思い出せない。


 そう、あれは当時流行っていた「結婚式ごっこ」。

 次は姫子が、花嫁役を務める順番であった。姫子は花婿を指名するために、その後すぐ恵梨香に話しかけたのだ。恵梨香は「いいよ」と微笑み、すぐに新郎役を引き受けてくれた。

 そんな彼女へ、頬を染めつつ姫子がおずおずと申し出る。


「わ、私らもさっきの、やってみない?」


 だがそれに対する恵梨香の返答は、


「えー、やだ」


 という拒絶。


「何で!? 小夜子ちゃんとはしてたじゃない!」


 興奮した声で問う姫子。そんな彼女に、恵梨香は微笑んだまま短く返してきたのだ。


「さっちゃんなら、別にいいもの」



「……嫌なコト思い出した」


 鼻をハンカチで押さえながら、姫子が小さく呟く。

 鼻血はもう止まりかけていた。骨も、折れた気配はない。腹の痛みも落ち着いており、大事には至っていないだろう。


「何なの、あのサイコ女!」


 佐藤が、声を荒らげている。


「これは立派な暴力事件よ。先生に言って、アイツ退学にしてやろうよ。少なくとも、停学は免れないわ」


 自らの腹をさすりながら本田が報復を提案し、


「ね、中田」


 と姫子に同調を求めた。


「……そうね」


 問われた姫子は心ここに在らず、という面持ちで応じている。二人が小夜子への報復作戦を練っている間も、彼女はずっと黙ったままであった。


 だが結局佐藤と本田の議論が決着を見ぬうちに三人は校舎へ辿り着いてしまい、教室へ戻るためとぼとぼと階段を上り始める。その途中で、彼女らは一人の生徒と遭遇したのだ。

 長野恵梨香である。


「あ、姫子ちゃん」


 恵梨香は姫子を見つけると、にこやかに声をかけてきた。


「さっちゃん何処にいるか知らない? あの子スマホを教室に置きっぱなしにしてて、連絡取れないの。それで他の子に聞いたらね、姫子ちゃんたちと一緒に歩いてくのを見た、って教えてもらったんだけど」

「……ごめん。知らない」


 恵梨香から顔を背けながら、小さく答える姫子。だがそこに、佐藤が割り込む。


「長野さん、見てよ、中田の顔。この血のついたハンカチ! これ、ミド……御堂の奴にやられたんだよ!?」


 姫子が手で制止するのを振り払い、佐藤がまくし立てる。

 恵梨香は姫子の様子を数秒観察していたが、「ふーん」と遅れて相槌を打つと、


「姫子ちゃん。さっちゃんに、また何かしたの?」


 ゆっくりと尋ねたのだ。その声を耳にした姫子が、びくりと体を震わせる。

 一方それに気付かぬ佐藤は、さらに言葉を続けていく。


「長野さん、何言ってんの!? 中田がやったんじゃなくて、御堂にやられたんだよ!?」

「ふうん」


 佐藤を一瞥する恵梨香。

 普段の彼女からは想像できない、暗く、重く、圧を備えた眼差しであった。視線を受けた直後に佐藤は思わず呻き、後ずさる。

 恵梨香は数瞬おいて姫子に向き直ると、


「姫子ちゃん。私、中学の時にちゃんと言ったよね? 次に何かしたら、許さないって」


 そう語りかけたのだ。先程と同じ、静かな優しい声で。

 姫子は返事をしない。目を逸らし、俯いたままである。

 そこに今度は、本田が割り込んでいく。


「中田だけじゃない、私や佐藤も暴力を振るわれたのよ!? 私ら今から職員室に行って、先生に言ってやるんだから!」

「へえ」


 片側の唇を釣り上げる恵梨香。


「じゃあ私は、『貴方たち三人がよってたかって御堂さんに暴力を振るおうとしていた、それに対して御堂さんは懸命に抵抗しただけです』って先生に証言するね。『私はこの目で見たんです』って」

「はあ!? 何で? 何言ってるの!? 長野さんはいなかったじゃない」


 本田が噛み付く。だが恵梨香は笑みを浮かべたまま、彼女に言い返した。


「ええ、いなかったわ。でも生徒会も務めていて覚えも良い私の証言と、貴方たちの証言と。先生方は、どちらの言うことを信じると思う? いいえ、どちらの証言を信じたがると思う? 学年の皆は? 先輩方は? 後輩たちは? 私と貴方。どっちの言うことを信じると思うの?」

「なっ……」

「貴方たちがそれでもやるっていうなら、私も徹底的にやらせてもらうけど」


 恵梨香の言葉と圧力に、完全に飲まれる本田。


「な、そんな、長野さん」

「私がやらないと思うの? だとしたら、認識不足も甚だしいと思うけど」

「だって」

「分かったら、大人しくしててね? 私、今の時点でもかなり怒っているから」

「う」


 佐藤に続き本田も気圧され、萎縮し……姫子を盾にするように、後退した。


「何で……」


 ここに来て、ようやく姫子が口を開く。


「恵梨香は何でそこまでして御堂を庇おうとするの? おかしくない?」


 意を決して、恵梨香の瞳を見つめる。


「何でって……決まってるでしょ、姫子ちゃん」


 表情は、一見ではいつもと変わらない。端正な顔に、穏やかに浮かぶ微笑み。

 だが目の光は、今まで姫子らが見たこともないほど冷え切っている。


「さっちゃんは、私の一番大切な友達だもの」


 恵梨香はその瞳で見据えたまま。


「貴方なんかとは違うの」


 姫子の心を引き裂いた。


「じゃあね。さようなら『中田さん』」


 そしてそのまま恵梨香は、三人の前から立ち去っていく。おそらく、小夜子を探しに向かったのだろう。


 三人はしばらく動かなかった。いや、動くことができなかった。

 しかしやがて人形の糸が切れるように、姫子が膝から床へ崩れ落ちる。

 慌てて佐藤と本田が支えに入ったが、彼女は立たない。立ち上がれない。

 心を裂いた恵梨香の言葉は、姫子が自らの足で立つ力すら奪ったのだ。


「な、中田」

「しっかりしてよ」


 二人が強引に肩を貸し動かすまで……姫子は床に座り込んだまま、虚ろな目でただ床を見つめ続けていた。


 ……こうして。


 中田姫子の十年越しの初恋は、この日、終わったのである。

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