Ⅰ
ビル・クリストファー と言えば、少なくともロンドンでその名を知らない者はいない。
中年齢に中肉中背、多少焼け過ぎの肌に天然パーマのロンゲ。ぱっと見はどこにでも居そうなおっさんなのだが……
「なあ、仕事終わり何時なんだい?雰囲気の良いバーがあるんだ。なんなら、貸し切りにしようか?」
と言う年齢にそぐわないチャラい発言と、前歯に光る3本の金歯、両手首に光るブランド不明の金色の時計。首には金のネックレス。靴はフェラガモだろうか……
多分、この男の身に着けている物の総額は、エマの年収を遥かに超えているだろう。
つまり、この男はとても金持ちなのである。
「いえ、そう言うのはちょっと……」
「5時あがり?だったらちょっと早いから、バーの前に食事だな。うーん。気分は船上ディナーなんだけど、それは昨日行ったからなあ。5☆レストランでいっか。いいよね?」
「いえいえそんな」
ダメだ。これはダメなやつだ……人の話を聞かないダメダメなやつだ……早々に、エマは嫌気がさしてしまった。
「えっ?これ紅茶?あー紅茶かあ。俺、紅茶ならベノアのダージリンしか飲まないんだよね」
カップに近づけた鼻を膨らませて、香りを浚って言うビル。
「ベノアではありませんが、ダージリンですよ?コーヒーにしますか?」
この男が紅茶の『こ』の字もわかっていないことはわかった。
「コーヒー? コーヒーならコピ・ルアクしか飲まないんだよね。この店にある?ないよね?あるわけないよね?あはははっ」
「それで、商談に入りたいのですけど、この度は、どのようなお話をお持ちになっていただいたのでしょうか?」
相手が例え、拳に訴えかけたくなるような男でも、人の話を聞かなかったとしても!ネタ提供者である以上は、営業スマイルで接しなければならない。
記者の心得そのⅠである。
「君も可愛いんだけど、俺的にはもう一人の方のさ、えっとーなんって言ったけ?ポニーの子」
これでもかと身を乗り出して言い出すビル。
「レイチェルですか?」
「そうそう!あの子の方が好みなんだよねっ!ほら、土下座してお願いした何でもやらせてもらえそうだろ‼」
帰れッ!
「ちょっ!のべふりぁやっ」
エマの右フックがビルに炸裂したのは、ビルが言い終わるのとほぼ同時であった。
とりあえず、応接間の壁に顔面をしこたま打ったビルは「痛ってぇー」と顔面全体をさすりながら、ソファに掛けなおすと、すでに、姿勢を戻して目を泳がせているエマに、
「ひっさしぶりに良いのもらったぜ!出来れば、倒れた後に踏んでくれてもよかったんだぜ、もちろん!顔の方向でっ‼」と親指を立ててエマの右フックを称賛した。
ビルはドMだった。
「そろそろ本題に入りたいのですが……」
「…ハァ…もう終わり…ハァ…なのかい?前金払いってことでっ!も少し頼むよ~」
本気で悔しがるビルは再び、エマの拳が届くところまで身を乗り出してスタンバイしている。
「それではその……買い取り価格に上乗せすると言うことで……」
この男、変じてこの変態と早く離れたい。
とは言え、仕事は仕事。エマは万年筆のキャップを引き抜くと共に、仕事モードのスイッチを入れた。
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