第参話 すべてを砕く 一握の拳
パリィン、パリィンと澄んだ硬音が響く。
最初の一人は右の拳骨。
蹴り飛ばした二人目は構えを入れ替えた左の拳骨を叩き込み、その一撃を持って二人の『管理官』の意識を確実に刈り取っている。
相当な距離を二人揃ってすっ飛ばされ、肋骨の二、三本は粉砕しているだろう。
喰らった瞬間、何が起きたかわからないというような顔をした直後、顔にある穴という穴から体液を巻き散らかしてすっ飛んでいった。
放置しておけば死ぬかもしれない。
リコの知ったことではなかったが、
その際に生じた硬質な澄んだ音に、それを生じさせた
不思議そうに己の拳骨を見つめ、掌を開いたり握ったりしている。
つまり
魔法障壁を砕き割った感触すら伝わっていないようだ。
その音は二人の『管理官』が戦闘体制に入り、普通の人間であれば剣であろうが矢であろうが、あるいは『魔法』であってもそれ以上の魔力が注がれたものでなければ破れる筈が無い『魔法障壁』を、あたかも薄い硝子を砕くかのように
当の本人である
リコにとって見れば嘘みたいな光景だった。
自分の本能が、自分を救ってくれた
だがそれと同時にリコの『魔法使い』としての才能が、
だが『魔力』とはいえ、力の一形態に過ぎない。
故に全てを弾く障壁とされている『魔法障壁』とはいえ、その基礎となっている魔力を越える力を叩き込まれれば崩壊するのは自明の理だ。
事実過去には巨大な魔獣に襲われた、魔法障壁を張り巡らされていたはずの
それが御伽噺では無い証拠に、世界の各地にはそうやって滅んだ『廃都』がそこかしこに存在している。
人類は確実に、一歩一歩滅びに近付いて行っているのだ。
故にリコは、信じ難い程に鍛え上げられた
だがまさかそれが『一撃必殺』とは想像もしていなかった。
しかも薄硝子を割り砕くような気楽さで、あの二人が本気で構築した魔法障壁を無効化したのだ。
それほどに彼我の力に差があったのか、それともリコの知らぬ
興味は尽きないが、今は感謝を伝える時だ。
「ありがとうございます、えっと……」
言葉が通じないことはさすがにもう理解できている。
あまりにもあっさり勝利したせいで忘れてしまいそうになるが、
どれだけ酷い行いであっても見てみぬ振りをするか、手を差し伸べてくれるにしても相当の葛藤が合って然るべき行為なのだ。
しかも自分たちは
普通であれば、見てみぬ振りをするのが常識といってしまっても過言では無いだろう。
それがまさか正解とは思いもよらないリコの目には、
「あの……えっと」
どうしよう、とリコは慌てている。
言葉が通じない事がこんなにもどかしいとは思わなかった。
今は優しそうな瞳で自分を見つめる
それは
語学などまるで自信は無いし、身振り手振りでのボディ・ランゲージなど、常にむっつりと黙り込んでいる事が常の
――さてどうしたものか。
成り行きで助けはしたものの、この後どうするかなどと考えては居ない。
なんの事件に巻き込まれたのかはわからないが、このあたりに詳しいのであれば是非頼りにしたいところだが、言葉が通じぬのでは如何ともし難い。
こういう時はとりあえず名のる事だと爺様から叩き込まれている
『
何度も『
最後はなぜか英語風になってしまった。
なぜだろう?
「ショーイ、さん?」
おっかなびっくりといった様子で指を指し、己が繰り返し言った
『そうだ。俺は
思わず素に戻って日本語で話してしまう。
慌ててもう一度己を指差し『ショーイ』と発言し、五指を揃えて少女のほうへ差し出す。
よくもまあ自分がこんな事をやれているものだと感心しながら。
「私は…リコです! リコ。リコ」
どうやら察しのいい少女のようで、自分を指差しながら『リコ』と聴こえる音を繰り返している。
『君はリコ?』
「はい、リコです。助けてくれてありがとうございます、ショーイさん!」
なんとか名前を認識するところまではいけたようだ。
話す内容はわからなくても、とりあえず相手をどう呼べばいいかわかるだけでも安心できる。
「お姉ちゃーん。大丈夫ー? 何がどうなってるのー」
馬車から情けなく聴こえる
――忘れてた。
慌てて
逆の手で馬車を指差しながら、『ライ、ライ』と繰り返す。
チャンピオンか、と
多分思った。
先の声は
『馬車にも誰かいるのか……』
すぐにたどり着いて、馬車の中で身動きが取れなくなっているライをとりあえず馬車の外に出す。
だがあの屑二人が『首輪』の制御を握っている以上、その許可がなければライは身体を自由に動かす事ができない。
「リコ姉ちゃん、誰この人?」
「命の恩人。ううん、それ以上の人よ。私とライの尊厳を守ってくれた人。ちゃんと恩人に対する態度を取らないと、お姉ちゃん許さないからね?」
ニッコリ笑ってそういう
本気のリコに逆らう事がどれだけ恐ろしいか、ライはよく理解している。
――首から上は動くんだな。
その様子を見ながら、
その様子を見て、リコが自分の首を指差す。
そこには銀色の首輪が嵌っている。
どうやら金属製のようだが、
そんなもので人の行動の自由を奪うなど、
どうもこっちで意識を取り戻してからは、
自分が常識人であるという自信はもともとそんなに無いが、目を覚ましたら森の中という状況も然ることながら、流れで助けた少女と少年の見た目がどうにも普通ではないように思える。
着ている服は素朴なデザインな物である事を除けばそう不思議では無いが、二人の髪と瞳の色はどう見ても日本人のものではない。
まあそれは話す言葉が『外国語』であることから納得するにしても、びっくりするくらい綺麗な顔をしている二人にはどう見ても獣の耳と尻尾が生えている。
さっきまでの緊迫した状況と、自分が知る知識の中にある『コスプレ』と言う単語がどうしても繋がらない
――まさか本物でもあるまいし。
本物なのだが。
まあとにかく少年の身体の自由を奪っているのは、その銀の首輪であることは確からしい。
――ならばそれを壊せばいい。
物を壊すのはもともと得意だが、なぜかここで目覚めてからよりその才能が強くなっている気がする。
なんとなくどこにどんな力を加えれば、それが壊れるかがはっきりとわかるのだ。
それは自分の爺様に『武術家』にとって得がたい才能だ、と褒めて貰ってからは密かな自慢だったが、年を取るにつれていつの間にかなくなっていたはずなのに、ここへ来て再び目覚めたようだ。
銀の首輪どころか、目の前にある馬車でさえ一撃で砕けそうな気がする。
まあいい。
とりあえずそんなに力は必要ない。
右手で軽くノックするように、ライの首輪を打撃する。
その一撃で首輪は接合部から崩壊して地に落ちた。
沈黙が支配する。
――あれ? 壊しちゃダメなものだったのかな。
リコとライの沈黙に対して、年甲斐もなくちょっと慌てる
当然二人の沈黙は、信じがたいものを目の当たりにしたせいである。
それを右手の甲で『こん』とするだけで壊してしまった。
「ライ……動ける? 痛いところとか無い?」
「へ、平気……だけど、この人何者なの?」
呆然としつつも、身体の自由が戻った事を確認する二人。
そんなことを聞かれても、リコにも答える術など無い。
リコこそもっとこの謎の男のことを知りたいと思っているのだ。
恐る恐る自分の首元も指差してみると、いいのか? と言ったような不安げな顔をされる。
リコがこくこくとうなずくと、ライの時と同じように『こつん』と手の甲を当てるだけで先と同じようにあっさりと首輪は崩壊して外れた。
これでリコもライも完全な自由に戻れたことになる。
現実として自分の身に起こっていながら、現実感が圧倒的に足りていない。
『壊してしまったが、よかったのか……』
言葉が通じない不便さを噛みしめている
ライと呼ばれる少年の身体が動くようになったのはひとまず良かったとは思うが、大喜びするでもなく驚いたような顔をされていれば不安にもなる。
「すごい……」
目の前の少年が、
その意見には全面的に同意するリコであるが、そんなことは
怒っていたらどうしよう、とガラにも無く
「おじさんすごい! なんなのその拳。僕ら『銀狼族』の伝説でもそんなでたらめな力聞いたこと無いよ! 何でも砕くってすごいかっこいい!」
「こ、こらライ!」
我を忘れて
子供ゆえの屈託無い反応で、それを見た
自分だって手放しで抱きついて、賞賛の言葉を投げかけたい。
だけど言葉が通じないことを理解しているのと、やはりテレが合ってライのように無邪気にはできそうに無い。
やったところで自分が赤面すれば、恩人である
年頃と言うにはまだはやいが、女性として出るべきところが出始めている自分があっけらかんと男性に抱きつくには、リコは要らん知識を持ちすぎていたし、ついさっきその自分の身体に向けられる、明確な『欲望』を目の当たりにした直後だけに恐れや躊躇いもある。
それはそれとして、自分よりもあっという間に
見透かされた訳では無いのだろうがあわあわしている自分の頭に、
自分はそんなに惚れっぽかったかしら? とリコは自問する。
村ではいろんな種族の男性に言い寄られはしたものの、誰にときめいたことも無かったからそういうわけでは無いだろう。
しかも相手は命と尊厳の恩人であるとはいえ、自分が嫌っていた
そういえば、
単純な
吊橋効果という言葉を知るリコでは無いが、
その上『銀狼族』にとっては時に命より優先される『尊厳』の恩人でもあるとなっては、己の全てを持ってその恩に報いることは義務とすらいえる。
そうだ自分は誇り高い『銀狼族』最後の女。
一族の掟に従うのになんの遠慮が要るというのか。
自分の中に生じた気持ちに、理論武装をすることに忙しいリコである。
その間に
「ぎゃ、ぎゃあああああ、ぎょぺ、ぷ、じょぁ……」
「あ、ああああ……ぱぎょっ」
突然、『監査官』二人が吹っ飛ばされた方向から絶叫が上がる。
完全に意識を失っていた二人が一瞬だけ意識を取り戻し、妙な断末魔を上げて二度と再び声を発することの無い肉塊へと変ずる。
それだけでは済まず、二、三の肉塊に分かれた元『監察官』であった餌が、巨大な口腔に咥え込まれ、咀嚼される事もなく丸呑みにされる。
――そこには。
二人分の肉塊を嚥下し、その巨大な顎門を天の月に向けて、吼叫をひしりあげる。
この世界において絶望と同義である巨大な『魔獣』が、その濁った紅眼を次の得物である三人へと向ける。
救われた状況から一転して絶望へ叩き込まれたリコとライが硬直する中、ゆっくりと
相手が『絶望』そのものであっても、構えもとらずに負けを受け入れるのは『
相手が『絶望』であるのなら。
それすら一撃で砕いて見せるのが『
できる出来ないではない、やるのだ。
全てを砕く一握の拳はいまだ己の両腕に健在。
なれば『一撃必殺』を構えて放つ。
それだけだ。
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