第壱話 至れなかった境地 

 月が出ている。

 満月だ。

 

 煌々と明るい、中天にかかる月。

 冬の空に雲はないが、この場所では星々の光は地上には届き難い。

 強い月の光だけが、かろうじて地上に届いている。


 夜の繁華街。

 大阪はミナミ、宗右衛門町。

 道頓堀川の北岸に、夜の店が無数に立ち並んでいる場所だ。


 ――月は、人を狂わせると聞くな。


 引き締まった細身に、何の変哲もない紺のスーツを身に付けた、磐座いわくら勝意しょういはむっつりと考えた。


 スーツは吊るしの安物である。

 仕立てたスーツなどに袖を通した経験は一度もない。

 そんなものに使えるほど金が余っていた記憶は、終ぞ勝意しょういにはなかった。


 勝意しょういは大きい男ではない。

 中肉中背の、一見すればどこにでもいる会社員サラリーマンにしか見えない。


 だがその吊るしのスーツの下の身体は、どこにでもいる会社員のものとはほど遠い。


 引き締められ、絞り込まれた縄のような筋肉に覆われている。

 固いでもなく柔らかいでもなく、分厚いゴムの様にただただ高密度に力を溜めこんだ、戦う為の身体である。

 「鍛え上げられた日本刀のような」とはその身体に至るまでに必要とした鍛錬を、日本刀を鍛造する過程になぞらえてよく言われる表現だ。

 正に勝意しょういの身体にはそういった趣がある。

 

 極普通の会社員サラリーマンとしては、使いどころなどありはしない代物。

 それでも勝意しょういは、己の身体の鍛錬を、40近くなるこの年までさぼった事はなかった。


 数年前に今の会社に拾われてからは一日中鍛錬する暮らしは無理になったが、基本定時で帰らせてもらっている勝意しょういは、朝晩の鍛錬でその身体を維持していた。


 女はいない。

 この歳になるまで、居た事など一度もなかった。

 

 友人もほとんどいない。

 それでも何人かは居る友人達も、海外や東京に拠点を移しており、年に何度か顔を合わせればいいほうだ。


 父親ははやくに癌で亡くし、母親も去年父親と同じ病で逝った。

 兄弟は居らず、己に『磐座いわくら流』を教えてくれた祖父母もとっくに亡くしている。

 親類縁者はいるにはいるが、天涯孤独と言ってもそう大袈裟な表現ではない状態である。


 おかげで土日の休日は朝から晩まで鍛錬をしていても、咎めるものは誰もいはしない。


 勝意しょういの家は、古い武術を伝える道場であった。

 名前はなんの捻りもなく『磐座いわくら流』


 有名ではない。


 強くもない。


 ただただ古いだけの、時代遅れの術理にしがみつき、今に伝える事すらも十全にできない、古武術道場。


 強ければまた違ったのだろう。


 格闘技としてのことわりがあり、空手や柔道、ボクシングや総合格闘技というものに相対できるだけの懐があれば、古武術という響きと、古都奈良という立地に魅かれて、食っていくくらいの門下生は集められたのかもしれない。


 だが『磐座いわくら流』にそんな愛嬌はありはしなかった。


 『一撃必殺』と言う理想――正しくは妄想に取り付かれた、ただの古臭い、苔の生えたような古武術でしかない。


 門人ですら完全に理解できないようなことわりをのたまい、素人目にも何を狙っているかが一目瞭然な構えを持って『一撃必殺』を謳う。


 そんなものは現代においては嘲笑されるだけだ。


 実際、現代の格闘技は合理を極め、より強くなるための努力を惜しんでなどいない。

 温故知新を文字通り実行し、旧きよき理と、最新の理論を融合させて高みを目指している。


 実効性の伴わぬ旧いことわりにしがみ付き、口だけで究極の理想である『一撃必殺』を語る『磐座いわくら流』は、馬鹿にされても仕方が無い。


 それが嫌なら勝って見せる事だ。


 空手に限らず、ボクシングであろうが柔道であろうが相撲であろうが少林寺であろうが日本拳法であろうが骨法であろうが、直接戦って叩きのめせばいい。


 武とは本来そういうもの。

 口ではなく、拳で語るもの。


 それが出来ぬのであれば、黙して下を向くしかない。


 若かりし頃の勝意しょういもそう思った。

 故に、他流派の門を叩いた事は幾度もある。

 

 その度に思い知らされた。


 ――『磐座いわくら流』では勝てないという、厳然たる事実。


 鍛え上げた身体と反射を持ってすれば、そうそう負けはしない。

 その流派のルールに基づく一本を取られさえしなければ、強がりではなく負けたことにはならない。 

 だが勝てもしない。


 『一撃必殺』を謳う以上、一度己の拳骨を放って仕留められねばそこまでだ。

 その時点で『一撃必殺』を謳う事はできなくなる。


 勝利はその時点でもはや存在しない。


 一対一で対峙し、警戒をしている相手に綺麗に一撃を決められることなどありはしない。

 どこかに当たりさえすれば、相手を戦闘不能に追い込めるほどの一撃を練り上げることは現実的ではなかった。


 躱される。

 あるいは耐えられる。

 

 その時点ではまだ、勝意しょういと対戦相手の優劣はついていないが、『磐座いわくら流』は負けるのだ。


 『一撃必殺』を謳うということはそういうことだ。


 その理念、ことわりから離れて勝意しょういが勝ったところで、それは、勝意しょういと言う個人が強かったことにしかならず、『磐座いわくら流』にはなんの関係も無い。 


 実際、他流派の師範たちから誘われたことは幾度もあった。


 曰く、それだけの身体と才能を枯らせるのはもったいない。

 曰く、うちの流派で一年も鍛えれば、あっとういう間に全国レベルになれる。

 曰く、『磐座いわくら流』をベースにした近代格闘とすれば売り物になる。


 そういった、ある意味ありがたい申し出を勝意しょういは全て丁寧に断ってきた。

 そうしている間に格闘技者としてのピークは過ぎ、こうやって会社員サラリーマンをして食っていくことになっている。


 だが、勝意しょういは後悔はしていない。


 己のなりたかったものは、少なくとも格闘技者ではなかったのだろう。

 では何になりたかったのだと問われれば、むっつりと黙り込むことしか出来ない。


 勝意しょういは『磐座いわくら流』が好きだった。


 それが通用しないと知れば悔しかった。

 だから自分を鍛えることに一切手を抜かなかった。


 誰に言った事とて無いが、『磐座いわくら流』は実戦流派だ、仕合ではなく殺し合いでこそその真価を発揮するのだと、自分を騙していた時期もある。


 仕合にすら勝てぬ流派が、殺し合いに勝てる道理があるはずは無いのに。


 悔しかった。


 悔しいから鍛える。

 鍛えても通用せぬからまた鍛える。


 そうしているうちに悔しさは抜け、最初にあった『好き』だけが残った。


 己は『磐座いわくら流』が好きなのだ。

 だから通用せねば悔しいし、より強くなろうと努力できた。


 世の武術家達は口を揃えて、『磐座いわくら流』は劣っていると言う。

 勝意しょういが時に勝利するのは、それは勝意しょういが強いからだと。


 それはおそらく正しいのだろう。


 だが勝意しょういは逆に考える事にした。


 その強い己を作ったのは『磐座いわくら流』だ。

 己は『磐座いわくら流』が好きだったからこそ、ここまで強くなれた。

 他の流派では、今の己に至る事はできはしなかっただろう。


 だったらそれでいい。

 己の生涯は、『磐座いわくら流』をより極めるためだけに捧げればいい。


 そう思ったのだ。

 己が幾つの時だったかはもう覚えては居ない。


 その時に同時に、こうも思ったのだ。

 『磐座いわくら流』は未完成なだけなのだ、と。


 それは悲しい自己欺瞞だったのかもしれない。


 己の身体能力が最も優れている頃の全てを捧げた『ことわり』が、他流派に劣っていることを認めたくないが故の、誤魔化しだったのかもしれない。


 それならそれでもいいと思った。


 勝意しょういの肚に、すとんと落ち着いたのだ。


 それからはただただ、己の理想とする『磐座いわくら流』を高めることに専念してきた。

 未だ『一撃必殺』など遥かに遠い。

 身体が衰え始めた己では、他流派に勝つなどもはや無理だろう。


 それでも勝意しょういは、そうやって毎日を生きている。





「おう、磐座いわくらぁ。次行くぞ、次!」


「押忍」


 銀行の支店長や、自分の会社の役員達と社長が話している間に、月に魅せられて物思いに耽っていた勝意しょういが、社長の声で我にかえる。


 さすがに会社では『押忍』と言う返事はしないが、同門で兄弟子である社長とプライベートで会話するときは思わず出てしまう。

 それを社長も咎めることは無い。


 年の瀬のこの時期は、忘年会が毎夜続くことも珍しくはない。

 今夜は勝意しょういが勤める会社のメインバンク主催の忘年会だ。


 一軒目は旨い『くえ』を食わせる店で、二軒目は『キタ』が苦手な社長の好みをよく知っている銀行が用意した『ミナミ』のクラブだった。


 それでもお上品すぎる流れは、社長の好みではない。


 二軒目を終え、銀行や、経理部の役員と解散した後こういう流れになるのは、勝意しょういにとっては折り込み済みだった。


 会社員サラリーマンとしては普通以下である勝意しょういを雇ってくれた、清掃用品を生産する中堅メーカーの社長は、若い頃『磐座いわくら流』の門下生だった男だ。

 勝意しょういに『磐座いわくら流』を教えてくれた祖父に教えを受けており、今でも『磐座いわくら流』の理念に憧れを持つ、子供のようなところがある男だ。


「いいよなあ、磐座いわくら。憧れるよなあ『一撃必殺』」


「押忍」


 と言う会話は呑む度に繰り返され、入社後何度目かはもう数えてもいない。

 だがその度に、厳しい会社運営の舵を取っているやり手の経営者である社長の顔は、ただ純粋に強さに憧れる、ただの男の貌になる。


 だから勝意しょういはこの社長が好きだった。

 社長のほうも、何かと勝意しょういをつれて呑みに行きたがる。


 事情を知らない同年代の課長級連中からは、勝意しょういが社長のお気に入りとして脅威視されているらしいと聞いたときは、滅多に笑わぬ勝意しょういは思わず笑った。


 どこの世界でも『勝負』とは厳しいものらしい、と思ったのだ。


 会社員サラリーマンの能力としては相手にならない勝意しょういであっても、その組織の絶対者である社長に気に入られていると言う事実は、彼らにとって充分脅威なのだろう。


 心配しなくても社長はそういう男ではない、と、勝意しょういは思う。


 勝意しょういを拾ってくれたことは同門として私を押し通した形なのではあろうが、それ以上の公私混同をするような人物ではない。

 つれて呑み歩きたがるのは、共に過去『一撃必殺』に心を奪われた悪ガキ同士に戻って呑みたいからだろう。

 そして社長は、勝意しょういが未だ『一撃必殺』を諦めていないことをひどく喜ぶ。


 この不景気の中かなりの利益をたたき出し、社員に還元もしている社長は、男としての矜持プライドを充分に持てているはずだ。

 先の接待での銀行員達の態度も、中堅メーカーの社長に対するものではなかった。

 それだけの業績を維持しているという事だろう。


 だが、なのか、だからこそ、なのか。


 「拳骨が強い男が一番強いと言う気はねえよ。だけど憧れるじゃねえか、なあ磐座いわくら


 そういって無邪気に笑うのが、勝意しょういの知る社長と言う男であった。


 だから勝意しょういは社長と呑む事が苦ではない。

 それどころか、少し楽しいとすら感じている。


 自分は一滴も飲まないが、無理に酒を呑ませようとして来る訳でも無い。

 綺麗な女性達に囲まれて、その女性達がついてこれないような『強さ』の話を勝意しょういに語り、勝意しょういは「押忍」と答える。


 それが勝意しょういにとって社長と呑むということであった。 




 今夜はもう既に結構酒が入っているが、また行きつけの店で同じような話をするのだろう。

 足元が時にふらつきつつ、支えるまでも無い様子で社長が先に進んでいく。


 そこの角を曲がれば、もうその店の位置だ。


 その角から物凄いブレーキ音を響かせながら、小型のトラックが飛び出してくる。

 ぎりぎりで曲がりきり、こちらに向かって結構なスピードで突っ込んでくる。


 その小型トラックに何が起こっているかは勝意しょういにはわからない。


 だがこのままであれば、突然のことに硬直している先を歩いていた社長が間違いなく轢かれる。


 鍛えた身体が反射的に反応し、酔っ払った社長の身体をかなり強烈に横へと突き飛ばす。

 骨の一本や二本折れているかもしれないが、それは勘弁して欲しいところだ。


 社長と開いていた距離を詰めるため、思い切り前にダッシュした勝意しょういの身体は、社長を突き飛ばしたあと急制動をかける。

 だがそこから脇に飛び退く前に、小型トラックは勝意しょういの位置にたどり着く。


 衝撃。

 鈍い衝突音。


 不思議なことに痛みは無かった。


 幸い小型トラックに巻き込まれることは無く、己の身体は弾き飛ばされたようだ。

 仰向けで飛ばされたらしく、中天に煌々と輝く満月が勝意しょういの目に映っている。


 勝意しょういは己の意識が薄れていくのを感じる。

 痛みは無いが、かなり致命的だなと勝意しょういは思った。


 鍛えた身体も意味はなく。

 『磐座いわくら流』の構えをとることもなく、小型トラック程度にすっ飛ばされて自分が死ぬのかと思うと、悔しくもあり、可笑しくもあった。


 ――正面から構えて迎え撃っても、やっぱり小型トラックにはすっ飛ばされるか。


 ――つまらんな。


 結局己は、『一撃必殺』という武の境地に至ることなく死ぬのか。


 意外と冷静にそんなことを考えながら、勝意しょういは己の意識を手放した。

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