わたしの天使様

月島

第1話 田んぼの中の楽園

 見渡す限り田んぼで、稲の苗が揺れていて、その間に走る細い道は勿論舗装などされている筈もなく。どう考えても車がすれ違うことはおろか人がよけることも困難に思えるその道を、今、私は歩いている。

天気は、憎たらしいほど良い。嫌味なくらい綺麗な青。ぽかんと浮かんでいるいくつかの雲も馬鹿らしいほど絵になっている。しかも。遠くに見える山々なんて、頭にまだ白く雪を乗せていて、絵はがきみたい。

 私は悔しくて涙が浮かんできた。

「おーい、エミリー」

 この上、がさつな声で呼ばれているのが自分の名前だなんて、信じたくもなかった。さっきよりもっと胸を張るように、石ころに気を付けながら早足で歩く。私がこんな道を歩いていること自体、悪夢なのだ。

 突然、ぱっと光を遮る物がなくなり、まぶしい光が直接私の肌を襲って来た。

「Oh!」

 思わず叫んだ。私の後ろには、不釣り合いな白い綿製でブリム部分をレースで覆われた日除け帽子を、信じられないことに、土で汚れた手で無造作につかんでがさつに笑う男の子が居た。私はめまいを感じたが、辛うじて持ち直し、

「It's mine」

 そう言った。確か、見た顔だ。名前は知らない。聞いたけど、平凡な日本名など私には覚えられないし、どれも同じ顔に見えるので覚える意味もない。同じクラスの誰かでしょ。男の子は、「呼んでるのに」とか呟いた後、にやっと品のない笑いを残し、私の帽子を持ったまま走り去った。

「Just moment」

 障害物がほとんどない農道では彼の後ろ姿が何処までもよく見える。私は、手を握り締めながら、彼の姿を目で追った。田んぼの中の細い道を抜け、坂道を掛け登っていく。

「どうしよう・・」

 帰っても、パパもママも東京で、頼りにならないGrandpaとGrandmaが居るだけだ。あの二人に話をするのも気が滅入る。私は仕方なく彼を追うことにした。あの帽子はお気に入りなのだ。無くしても代わりが見つかるとは思えない。この田舎では。

 恐る恐る、剣のように草が生えている小道に足を入れる。ばさばさばさ・・と音がして、あちこちから何かが飛び出してきた。

「Oh!!」

 思わず足を引っ込めた。また別の草むらに逃げ込んで虫たちが落ち着くまで動けずにいた。一歩後ずさって、小石を手に取った。そっと今踏み込んだ草むらに投げ込む。

 ばさばさばさ・・途方に暮れた。ふと、田圃の脇に突き刺してある細い竹の棒が目に入った。何か訳があって立っているのかもしれないけど・・一本引っこ抜いた。

 気の遠くなる作業だった。一歩進んでは竹棒で草むらをつつき、虫たちの騒ぎが収まってからまた一歩進んだ。随分時間は過ぎた上に、白いレースのソックスには薄汚い草の汁のシミが出来ていた。田んぼを渡り終わり砂利の上に立ってから足を見ると、悲しいことにあちこち切り傷が出来ていた。草の剣にやられたみたい。スカートの草を払うと、先程彼が走って行った方に目をやった。木がうっそうと茂っている。今居る道はその中に消えている。竹の棒をその場に放り出してから、両足を踏ん張って歩き出した。近くに行くと、思った以上に木々の固まりは大きく、思いがけず石段になっていた。

「史跡みたい・・」

 古く均等の取れないその石段に、恐る恐る足をかけた。辺りはしーんとしている。外の音を木々が吸い込んでいるみたい・・ちらちら揺れる木漏れ日は、うっとりするほど幻想的だった。しーんとした音が、耳に痛い。彼は、何処にいるのだろう。曲がりくねって延びているその石段を慎重に登りきり、私は言葉を失った。石段の上は、小さな広場になっていた。そして、外からは木々で見えなかったけど、小さな教会がぽつんと広場の隅っこに建っていた。

「わぉ・・」

 私は、そっと歩き出した。風が木々を揺らし、木漏れ日も揺れた。まぶしくて思わず目を背け、もう一度、目を開けて、

「あ」

 動けなくなった。光の中に人影があった。きらきら光って見えた。

「あなたは・・」

 きっとそうだ・・胸の前で手を組んだ。

「天使様?」

 彼は答えず微笑んでいる。とてもまぶしい笑顔。白い外装の教会を背に彼は立っている。

「天使様なのでしょう?」

 私はもう一度言った。頷いたように見えた。一層きつく手を組み、頭を垂れて目を閉じた。

 なんて美しい・・久しぶりに、心があらわれるみたい・・私は目を閉じて、数日前まで、私が送っていた生活を思い出した。

「エミリー」

 美しい発音で、みんなが私を呼んだ。

「ラウル」

 金色に光るさらさらの髪を持つラウルは、同級生の中でも特に紳士だった。

「日本に帰るんだって?とても残念だよ。」

 そう言って彼はお別れにとても綺麗なガラスをちりばめた宝石箱をくれた。

「僕が大人になったら、君の誕生日ごとにプレゼントをしてこれをいっぱいにするよ」

 なんて素敵なのだろう・・夢のようだった。他の友達も、レースのハンカチ、ガラスのペン、小さな置物の人形、素敵な物を沢山お別れにくれた。どれも、こんな田舎町には売っていない、宝物ばかりだ。あの、霧に包まれた街に、時々こんな風に日が射し込む。どんなに幻想的で美しかったか・・ここの人達には想像も付かないだろう。

 でも。こんな所にこんな素敵な天使様が居るなんて。私は静かに目を開けた。が、そこに天使様の姿はなかった。そう、天使様はそうそう人の前には姿を現さない。なんて幸運だったのだろう。私は、天使様の姿を忘れないように、もう一度目を閉じた。背が高く、とても痩せていて、短いブラウン色の巻き毛。白い服を着ていた。なんて美しい。うっとりした。

 この場所は、私のオアシスだわ。もう一度見渡して思った。

「また来ます」

 そう呟いて私はもと来た道を戻った。下り石段で勢い付いて、木々から飛び出した。

「あ・・」

 風に吹かれて、私の帽子が揺れている。

 近づいて、それを手にとってみた。やっぱりそうだ。私が先程まで使っていた竹の棒だ。地面に突き刺して、その上に引っけてあった。周囲を見渡した。でも、誰の気配もない。

「洗えば、綺麗になるかしら」

 帽子を見つめて汚れを探した。とにかく、今日は帰ろう。この田舎に来てから良いことなんて何もなかったけれど、今日は特別。ちょっと、どきどきしていた。私は、来た道を戻るために、もう一度、竹の棒を引き抜いた。

 街灯の少ないこの町は、日が暮れると途端に暗くなる。ロンドンとは別の空があるのかと思うくらい星が多い。いつもなら、綺麗すぎて腹が立つのに、今日は天使様が見せてくれているような気がして妙にどきどきする。

 私は本棚の中から、ノートを取りだした。

「Dear Raul」

 日記帳の書き出しに、そう書くのは私の習慣。

 赤いベルベットに金のエンブレム柄のこのノートも、ロンドン時代の友達がお別れにくれた物で、私の宝物の一つ。

「今日は素敵なことがあったのよ。」

 こんな書き出しは、日本に来てから始めてのことだ。

「私、天使様に会ったの。」

 机の上に肘をついて、顔を乗せて目を閉じた。天使様の笑顔が浮かんだ。

「あなたと同じ目をしていたわ。」

 ラウルの柔らかい茶色の目とさらさらの金髪が私は好きだった。

「また会えるかしら・・うん。きっと会えるわ。」

 明日を楽しみに思うのも久しぶり。私はノートを閉じると、素敵な表紙にkissをした。


 けたたましい、鳥の金切り声で目を覚ます。まるで首を絞められているような気分にさせる。つい毎日の日課のように、自分の首に手を当ててみる。今日も良いお天気だ。パジャマをはぎ取り、小花を全体にちりばめたクラシックな型のワンピースを身につける。

 階下からは、今日もあの濁ったみそスープの匂いがする。ちょっと顔をしかめて見せた。

「おはよう、エミリ」

 今日も懲りずにGrandmaが笑い掛けてくる。

「Good morning. Grandpa、Grandma」

 出来るだけ二人の顔を見ないように言った。

「食べろ」

 愛想のないGrandpaが、私の目の前に置いたのは品無く輪切りにされた野菜だった。

「Cucumber?」

 私は思わず唸った。お化けみたいにばかでかいその輪切りは、あまり美味しそうには見えなかった。それに、あの臭い練り物、味噌を付けてGrandpaは口に入れた。私が顔をしかめたのを見て、慌てたようにGrandmaは、

「ほら、エミリ。マヨネーズ」

 大きなチューブを差し出した。

 食卓にあるのは、ご飯と味噌スープとビーンズを煮た物と、小さい魚を黒くなる直前まで焼いた物と、このCucumberのお化けの輪切り。

 私用のフォークを使って、仕方なく、マヨネーズを絞ったキュウカンバーを口にした。

「ん・・」

 私は思わず口を押さえた。

「どうした?」

 Grandpaが顔色も変えずに聞いた。

「酸っぱい・・」

 それは、もたっとして酸っぱかった。

「あれ、マヨネーズ、始めてかい?」

 Grandmaは呑気に聞いた。

「NO!!マヨネーズはもっとクリーミィ。これは違う」

 私はミルクで口直しをした。

「パンは・・」

 俯いたまま聞くと、

「ごめん、買い忘れたのよ。ご飯じゃだめかい?」

 そう言いうけど私は知っている。GrandpaもGrandmaもお米を作っているから、パンなんか買ってくれないのだ。

「ヨーグルト・・」

 私は呟くようにそう言った。

「後一個有ったね」

 そう言ってGrandmaが出してきたヨーグルトを食べる私を、GrandpaとGrandmaは異星人でも見るような目で見つめているのだ。

「行ってきます・・」

 今日も重い足取りで家を出る。砂利の道は歩きにくい。エナメルの靴に傷が付く。後何度この道を行き来したらパパとママは迎えに来るのだろう・・下を向いて歩く癖が付いた。ふと植え込みの横に、私に向かって延びる影が見えた。

「あ・・」

 見上げて思わず言葉を失った。まさか、今日も会えるなんて・・

「天使様」

 朝日の中で、今日もブラウンの髪が眩しい。背景の青い空も、なんて似合うんだろう・・

 天使様は微笑みながら背中に隠していた手を差し出した。

「あ・・」

 手品のようだと思った。その手には、白いレース模様の皿が載っていて、薄く斜め切りした美しいCucumberが薄くて白いパンの間に挟まっていた。

「キューカンバーサンド・・?」

 私にそれを手渡すと、銀色のフォークを出し、その上、白いハンカチーフを石垣の上に広げ、私を促した。細く長い綺麗な指の手で私の手を取り、エスコートして、私をそこに座らせた。私はお姫様になったような気分で、それに従った。

 ほのかに甘酸っぱい、フレンチドレッシングの香。口に運んで

「美味しい・・」

 本当にそう思った。ヨーグルトだけでは、やはり空腹だったので、私はそれを平らげた。

「ありがとうございます、天使様。ごちそうさまでした」

 私は立ち上がって丁寧にお辞儀した。そして顔を上げたときには、天使様はレースのお皿ごと姿を消していたのだった。

「ありがとうございます・・」

 今度は天に向かって呟いた。嫌になるくらい高い、青い空だった。


 いつもは重い足取りで向かう学校に、今日は幾分いい気分で歩いた。こんな事は本当に始めてだ。

「エミリちゃん」

 突然声を掛けてきたのは、おそらくクラスメートの誰かだ。お下げ髪で肌だけ綺麗な平面的な顔をした女の子。皆大体そんな物だ。

「今日は、いつもの帽子かぶってないね」

 私は途端に暗い気持ちになった。そうだ、あの帽子・・綺麗にはなったけど、まだ渇いていなくて、今日は帽子なしなのだ。こんなにも良いお天気なのに・・私は急に日差しが気になった。

「肌、弱いの?私も日焼けするとすぐ赤くなるから嫌なんだ」

 そう言ってその子は、事も有ろうか私と並んで歩きだした。私は足を早めた。その子は遅れずに付いてくる。今度は、速度をゆるめた。少し行ってから、

「遅刻するよ?」

 振り向いてわざわざそう言ったのだ。なんて鈍いのだろう。私は無言で歩き続けた。学校までの憂鬱な道がいつもより長く感じられた。

 景色は代わり映えのしない田畑や林。時々白い軽トラックが何に使うのか解らない大様な機械を積んで通っていく。その度に乾いた土が舞い上がり、鼻や目にしみた。

「あ、ほら、紋白蝶」

 私の隣で並んで歩いている誰かさんは楽しそうに声を上げた。おそらく私に向かって発せられた言葉だろう。私はまっすぐ歩いた。目の前を飛んでいる虫などに興味はない。

「虫、苦手?」

 その子は勝手に解釈したように言った。

「別に」

 私は何でもないように答えた、が、実は嫌いだ。アクセサリーだったら平気だけど。

 確か、友人のジョアルのお母様が素敵な蝶のブローチを持っていて、ペパーミントグリーンのショールを上品に止めていた。黄色っぽい石が、光が当たるときらきらして素敵だった。女の子何人かで見とれていたら、にっこり笑って近くで見せてくれたわ。(女の子は良いわね、男の子はおしゃれのしがいがないわ)って言ってジョアルを睨んで見せた。ジョアルもとても紳士だったわ。(だったら誰がママをエスコートするのさ?)と言い返し、ママに腕を差し出して見せた。そのスマートな仕草に、ジョアルに夢中な女の子達はうっとりしたのだ。ジョアルは、お別れにガラスのペンと綺麗なカラーインクのセットをくれたっけ(手紙、待ってるよ)そう言ってくれた・・

「あのね、エミリちゃん?」

 突然話しかけられ、さっきの子がまだ横にいることに気が付いた。

「私、日本語覚えるの協力するよ?」

 そう言われ、何を言われているのか一瞬解らなかった。私は顔がカッと赤くなった。

「No Thank You」

 私はそう言い残し、足を早めた。馬鹿にしてる・・私が日本語が分からなくて、みんなと話さないと思っていたのだ。日本語くらい分かるわ。ママもパパも日本人よ。馬鹿にしてる。

 私は英語が好きなの。英語が常用語なの。あなた達みたいな田舎者に合わせたりしないわ。とても惨めだ。うっすらと涙が浮かんできた。あの子は、もう追ってはこない。

 さすがに自分の無神経さに気が付いたのか、しょんぼり歩いてくる。私はやっと歩幅をゆるめた。

「あ・・」

 大きな木の陰から、何かがゆらゆら揺れている。もしかして・・私は駆け寄った。やっぱりそうだった。

「天使様・・」

 こらえていた涙が溢れそうになった。天使様は優しく微笑みながら、手を差し出しているその手には、白いレースのハンカチーフ・・それを私の胸元に差し出し、優しく微笑んだ。何て暖かく気品に溢れる笑顔・・美しい・・と思った。

「ありがとう・・」

 そう言ってハンカチーフを受け取ると、頭を深々と下げた。頭を上げたときには、やはり天使様はもう居なかった。良いわ。また来てくれる。そう思った。ハンカチーフで目元を拭うと、お花の香りが鼻をくすぐった。

 そうよ、私はひとりぼっちじゃないわ。私には天使様が付いている。無神経な田舎者達になんか負けないわ。

 急に自分が背中を丸めて歩いていることが恥ずかしくなり、大きく胸を張った。


 私が通わされている学校は、とても小さい。そして木で出来ている。山小屋みたい。赤い三角屋根で、テラスがあって、ランチはビュッフェだけど、メニューは田舎臭い。開いて干した魚を焼いた物なんて、体中臭くなりそう。学年に一クラスだけだし、人数が20人足らず。しかもみんな似たような顔で、私には区別も付かない。校庭はだだっ広く、囲いもない。隅に25メートルプールはあるけれど、水泳の授業は、全校で、徒歩で水着のまま近くの海に歩いていく。信じられない。勿論、学校の行き帰りにママの車での送迎はない。みんな20分くらいそれぞれ歩いて帰るのだ。こんな放任ってある?日本は平和だと聞いていたけれど、こんなにも放任で良いのかしら・・

 ロンドンでは、登下校は必ず父兄の車だった。交代で近所のお友達のママが来る。家中の鍵を開けっぱなしにして、子供だけで留守番させること何て勿論無い。ママとパパがお仕事で居ない時には、ベビーシッターのお姉さんが必ず来た。近所の大学生のお姉さんは、こっそりお化粧を教えてくれたり、ボーイフレンドの話を聞いてくれたりして、とても楽しかった。それなのに、ここでは、GrandpaとGrandmaは平気で私を置いて畑に出かけていく。鍵どころか、ドアも開けっ放しだったりする。その上、高校を出るとみんなここを出ていくので、素敵で話せるお姉さんも周りにいない。ロンドンにいる頃から、日曜になると教会の日本語学校に通っていた。だから日本語の授業だって平気。だのに、担任の男性教師は言葉の語尾を強くして、必ず確認するように私を見る。知らんふりしていると、もう一度ゆっくり同じ事を言ったりするので、仕方なく私はその度に頷く。全身にじっとりと汗を掻き、馬鹿にされたような恥ずかしさで顔が赤くなる。満足そうな先生の顔・・私は大嫌い。

 先生が授業終了を告げると、私は原稿用紙をさっさと出して帰路に着いた。

 先生が名前を呼んだような気がしたけど、聞こえない振り。1秒だってここにいたくない。家に帰っても同じだけど・・

「ただいま・・」

 一応聞こえるか聞こえないか分からない程度に、声を掛けてみるけど、どうせ誰もいないことは分かっている。私はそのまま自分の部屋に向かった。古い木のデスクに鞄を放り投げると、私好みのシーツでくるまれた安っぽいベッドに、ゼリービーンズの大きな瓶を抱えて倒れ込む。暫くそのまま呼吸を止めて、それから大きく溜息を付く。私の日課。それから、天使様が貸してくれたハンカチーフを取り出した。

「返さないと駄目かしら・・」

 お守りにしておきたいけれど・・きっと返せとは言わないだろう。・・でも嫌われて会えなくなったら絶望だ。私は暫く眺め、きれいに洗って持ち歩き、今度会えたら聞いてみようと決めた。ビーンズの瓶の銀色の大きな蓋を回して開け、一掴み、口に放り込んだ。その時、ドアがノックされた。と同時に開けられる。

 私は身を固くして起きあがった。

「エミリ、居るかい?」

 顔を出したのはGrandmaだった。この人達には、ドアをノックするという習慣がなかった。何度もお願いしてやっと覚えてくれたが、ノックと同時にドアを開けるので意味がない。うんざり。

「悪いけど・・ちょっと手伝ってくれないかい?」

「?」

 私は黙って彼女を見つめた。

「おじいさん、腰が痛くってね。でもせっかく育った野菜をもいじゃわないといけないだろ?」

 そう?と言いたかったけど、黙って聞いていた。

「よく熟れてるのだけで良いんだよ。採ってくれるかい?」

 彼女はそう言って、野菜を入れる籠と、はさみを差し出した。暫くそれを眺め、もう一度彼女を見た。彼女の表情は皺が多すぎて私には読めない。

「・・・着替えるわ・・」

 諦めてそう言った。

「そうかい?じゃ、置いておくよ」

 彼女は、今度は笑ったと分かる程度の笑顔を見せ、そう言って歩いていった。

「ドア・・」

 私は諦めた。話し終わってもドアを閉めない。この家はいつもどこもかしこも開けっ放しだ。いつだったか、湿気るからだ・・と言っていたけど。ワンピースを脱ぎ、綺麗なマリンブルーの長袖Tシャツと、ジーンズに履き替え、少々張りはなくなったが何とか型くずれは免れた昨日の帽子を被り、最初の頃、私用にとGrandmaが買ってきていた赤いカラー軍手をはめた。(これだって気に入っている訳では勿論無いけど、手が汚れるのは嫌だし、Grandmaがしている白いのはもっと嫌)

 着替え終わると、渋々畑の前に立った。熟れたのだけで良いって言われても、どれがそうなのか・・しかも畑は車が何十台も止められそうなくらい広い。仕方なく、一番手前の枝をはさみでつついてみた。ぴょん・・と何かが飛び出し、私は思わず悲鳴を上げた。黄緑色の小さな蛙。その行方を凝視して固まっていた。

「どうしたの?」

 後ろで声がしたので慌てて振り返ると、Grandmaが男の子と女の子を従え立っている。

 私は震える手で蛙を指さした。

「ああ?蛙が珍しいか?こいつは刺したり噛んだりしないし大丈夫だよ」

 Grandmaはそれを掴むと遠くへ投げた。

「エミリ、友達だよ」

 彼女に言われ、もう一度後ろに立っている二人を見た。友達・・・?見覚えはある。

(ああ・・)

 と思った。おさげ髪の女の子の方は、今朝の失礼な子だ。もう1人は・・・

「その帽子・・綺麗になったんだ」

 男の子がにかっと笑って頭を掻いたので、思い出した。一昨日、私の帽子を取って逃げた子だ。

(友達!?)

 私は心の中で憤慨した。

「先生に頼まれて来たの」

 女の子の方が言った。

「甲太朗君・・」

 その子がそう言ったので、男の子が甲太朗という名だと分かった。甲太朗君という男の子は、自分の鞄からくちゃくちゃになった紙を取り出した。

「あ・・」

 思わず声を出してしまった。さっき提出した私の作文。

「これ・・先生読めないらしい」

 甲太朗が言った。

「そう」

 私は冷たく返した。

「日本語に直して明日持ってくるようにって」

 女の子の方が気の毒そうに言った。

「何故?」

 私は聞いた。先生が辞書で調べて読めばいい・・そう思った。

「多分・・英語アレルギーなんだよ」

 私の気持ちを見透かしたように甲太朗君という子が言った。女の子の方は、もうっ・・という顔で甲太朗君を睨み、

「一応・・国語の授業だから、日本語で書いた方が良いと思うの・・」

 そう言った。なんだかとても良い子ちゃんだ。

「どうして、君達が・・?」

 と聞いてみた。

「あ、学級委員なの私達」

 女の子は嬉しそうに一応遠慮がちに言った。甲太朗君は手を頭の後ろで組んで知らん顔している。

「あ、蛙」

 突然そう言ったので、私は慌てて振り返った。甲太朗君が指さしたのは、真っ赤なトマトの生る木の葉っぱの裏だった。私はゲンナリした。これからこの畑に足を踏み入れ、野菜を採らなきゃいけない・・こんな不気味な生き物が居るのに・・

「これ、採って良い?」

 甲太朗君が言った。私はぽかんとし、それから頷いた。彼は鞄を放り出し、さっさと畑に入ると蛙の側のトマトをもいだ。

「大丈夫よ。蛙って昼間はあまり動かないから」

 女の子もそう言うと、畑に入っていった。

「森口、そこ」

 彼がそう言って女の子の足下を指さした。女の子の名前は森口さん。first nameは分からない。

「あ、本当」

 森口さんは、楽しそうに足下のトマトをもいだ。

「籠!」

 ぽかんとしていた私に、甲太朗君が叫んだ。慌てて籠を抱えて足を踏み入れた。土はふかっとしていた。私はよろけそうになりながら、彼らがもいだトマトを受け入れた。

「エミリちゃん家の畑って凄く大きいよね」

 森口さんが楽しそうに言った。

「うん。凄ぇ」

「そうなの・・?」

 私は二人について行くのがやっとだ。

「家なんて、3メートルくらいのが3つしかない」

「だって甲太朗君家は・・」

 そう言って森口さんが笑った。

「あ、そこ・・」

 突然甲太朗君が私を指さした。

「大っきい!」

 森口さんも叫んだ。つられて振り返ると、私の肩の後ろの奥に、赤くつやつやに熟したトマトがあった。森口さんが私の籠をさっと取った。

「早く早く」

 森口さんが急かす。

「落とすなよ」

 甲太朗君も力を込めていった。私は焦ってトマトに手を伸ばした。大きい。真っ赤だ。

「鋏、鋏」

 甲太朗君が慌てて鋏を私に押しつけた。私は左手でトマトを支えると、付け根の所に鋏を入れた。

「えいっ」

 思わずそう言った。急に左手が重みを感じ、鋏がぱちんと弾かれた。

「すごーい!」

 森口さんが歓声を上げた。

「やった」

 甲太朗君も叫んだ。私は手の中のトマトをまじまじと眺めた。深い朱赤。その表面を、透明の膜が覆うように光を放っている。私はとても満足だった。

「はい」

 森口さんが差し出した籠に入れると、私のトマトはひときわ大きかった。

「私も、もっと捜そう」

 森口さんは籠を置くと奥に踏み込んでいった。

「俺、キュウリ」

 甲太朗君は、少し離れていった。ぽつんと残され、仕方なく私もトマトを捜した。

「おやまあ・・」

 何とか畑を一周した頃、Grandmaが来て言った。

「手伝ってくれたのかい?ありがとう。早く終わったねぇ。さ、おやつにしよう」

 Grandmaは籠一杯のブドウを持ってきた。

「ありがとうございます」

 良い子ちゃんの森口さんが言った。

「百合ちゃんも甲太朗君も、少し、野菜を持って帰りなさい」

 Grandmaはそう言って、袋に野菜を詰めている。二人のことを知っているようだ。

「ありがとう」

 二人は声を揃えた。

「おや、珍しいな・・友達か・・?」

 Grandpaの声がしたので振り向くと、彼は柱にしがみつくような格好で、曲がった腰で立っている。

「あれまあ、動いて大丈夫ですか?」

 Grandmaが言うと、彼は、そろそろとその場に座った。

「寝ていても痛いんだ・・少し動かないと・・」

「ぎっくり腰?」

 甲太朗君がブドウを頬張りながら聞いた。

「そうなのよ」

 Grandmaが答えた。

「大変なんでしょ。家のおばあちゃんも言ってた」

 3人が盛り上がっていて暇だったので、私はブドウを一房、Grandpaの所へ持っていった。Grandpaは初めてブドウを見たみたいな顔をして、私とブドウを見比べた。

「ありがとう」

 やっとそう言って受け取ってくれたので、元の場所に戻ると、

「ありがとう」

 今度はGrandmaがそう言った。

「ごちそうさまでした」

 甲太朗君と、森口百合ちゃんは、そう言うと鞄と野菜の入った袋を下げて立ち上がった。甲太朗君に作文の紙を押しつけられた。

「本当に・・書き直した方が良いわよ。あの先生、本当に英語苦手らしいから」

 こそこそっと耳元で百合ちゃんが囁いた。私は黙って頷いた。ほっとしたように、二人は帰っていった。

「手伝いはもう良いから、宿題をやってしまったら?」

 Grandmaにそう言われ、頷いた。手を洗って部屋に戻ると、どっと疲れているのに気が付いた。腰と、腕がだるい。顔や腕が何だかひりひりする。木製のぎしぎし言う椅子に座って、先程二人が持ってきた私の作文をひらひらさせた。内容は、いかにイギリスでの生活が素晴らしかったか。それにちらっと目を通し、大きく一つ溜息を付いて机に突っ伏した。古い木の甘い匂いがした。

「何が素敵かって、まず、霧で覆われて幻想的なの・・」

 私は呟いた。霧の中から足音がして、現れるのは黒のタキシードに身を包んだ紳士か、白馬に乗った騎士様か・・それとも先の大きく曲がった靴を履いた魔法使い・・・羽の生えたドラゴン・・?いえいえ、それは金髪の髪を揺らした天使みたいな私のfriend達・・

 後ろで口髭を生やした優しそうな紳士と、ファーで身を包んだ上品そうな婦人がにっこり笑って手を振るの。

「お招きありがとう、エミリー」

 小さな私の紳士は素敵な言葉とプレゼントを私にくれる。年に一度のbirthdayは、パジャマパーティをするの。一晩中友達と一緒。翌朝、朝食が済んでから、1人1人をお家まで送っていく。その車の中でママが用意してくれたお菓子をみんなで食べるの。

「とても楽しかった。ありがとう」

「私の時にも来てね」

 みんなにっこり笑って頬にキス。私もとても幸せな気分になったわ。それからパパとママとデパートに行って好きな物を買って貰って、レストランでランチ。ウェィターにパパが耳打ちすると、彼は丁寧に頷き、私にキャンドルが揺れるケーキを差し出すの。とても幸せだった・・楽しかった・・そこまで思いを馳せ、思わず涙がにじんだ。ここには、素敵なレストランも着飾った友人たちも居ない。パパも、ママも。

 ・・パパの転勤で日本への帰国が決まった時、パパとママは大喧嘩をした。ママはイギリスのアンティーク家具を扱う仕事をしていて、帰国したくなかったからだ。それでも家族のために、日本ではWEBで仕事し、月に何度かはイギリスに飛ぶ。と言う生活をする事で折り合いを付けて帰国した。そんな具合だったから、住むところが決まって落ち着くまで・・と言うことで連れて来られたこの田舎に居る期間がどんどん延びている。住むところもなかなか決められず、パパとママはそれぞれホテル住まいだ。

「喧嘩に忙しくて、私のことは忘れているのよ」

 そう言葉にすると、それは間違い無く本当の事の様な気がして、涙がもっと溢れてきた。

 新しい原稿用紙の上に、落ちてにじむ。慌てて袖でそこを擦り、目も擦った。ロンドンでの、あの素敵な日々を綴るのは、日本語では不可能。書きたくない。でも日本に来てからのことで書きたいことなんて・・そう思ってから気が付いた。

「私の天使様・・」

 どうしよう・・私だけの秘密にしておきたいけれど、彼の素敵さを皆に知って欲しい気もする。それにあの教会。あそこだけこの田舎で別世界のようだった。

 どんなに素敵かと言うと・・私は鉛筆を取ると、原稿用紙に書き始めた。

「何も無い緑の原を抜け、木々のトンネルの階段を上がるとそこは急に開け、イギリスからくり貫いて来たかのような世界が広がる。芝生の広場にぽつんと佇む白い教会・・そして驚いた事に、そこには天使様が居た。ロンドンに居るときにも、実像としてはお会いできなかった天使様が、教会の横に立ち、静かに私を見ていた。そして天使様は時々私を助けに現れる。だから私はここでも頑張って行けるの。」

 天使様のお顔を思いだすと、何もかも許してしまおう・・と言う気になる。

 私はその原稿用紙をカバンに入れた。

そして襲って来た疲労感に逆らわず、心地良い眠気に身をまかせる。

心地良い眠りは朝まで続き、机に突っ伏していたはずの私は、朝には洋服のままベッドで寝ていた。何故だかGrandpaの腰は一層悪化し、今日は起きても来られない様だ。

「ご飯、持って行ってあげてくれるかい?」

 Grandmaに言われ、丸いお盆に載ったご飯と味噌汁と焼き魚と漬物の朝食を、Grandpaの布団の脇に運んだ。

「ありがとう」

 そう言って起き上がろうとしたGrandpaは、腰の痛みに呻いた。

「どうして悪くなったの?」

 私が聞くと、

「重い物を持ったからね・・でもそんなに重く無かった。もっと重くっても良い位だ」

 そう意味不明の事を言って、また呻いた。自分の朝食を食べながら、凄くお腹が空いて居る事に気が付いた。そう言えば、昨夜は夕食も食べて居ない。昨日はあのまま寝ちゃって、気が付いたらベッドに・・

「なんだ」

 私が突然そう言ったので、Grandmaは箸を持つ手を止めて私を見た。

「Grandpa、私をベッドに運んで腰が痛くなったの?」

 そう聞くと、Grandmaはやれやれ・・と言いながら可笑しそうに笑った。

「私は起こそうって言ったのだけどね、寝かせておいてあげなさいって。エミリ位楽に持ち上げられる・・って。無理しちゃったのね」

 そう言って笑うGrandmaのシミだらけで皺だらけの顔は、なんだかとても楽しそうだった。


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