今、あたし、ビッキビキに漲《みなぎ》ってんの
アリストラムは自ら手にした剣で、刻印を刺し貫いた。
刻印が身体の表面から剥がれ、浮き上がり、翡翠の光を放って消滅する。
いくつもの放電が洞窟全体に奔りついた。地底湖の水晶柱を打ち抜いて、粉々に砕け散らせてゆく。砕けた水晶のかけらが四散し、白い飛沫を地底湖から吹き上がらせた。
衝撃に揺すぶられた音の波が、轟音をひびかせて跳ね返る。突風が吹き抜ける。
アリストラムの身体が、ゆっくりとかしぐ。
レオニスは崩落する瓦礫を避け、飛びすさった。悪鬼の形相で吠える。
「そうやすやすと逃がすわけには……」
ふいに光が落ちた。
一瞬にして暗黒が洞窟を塗りつぶす。
さくり、と。
砂を踏む音がした。
「ちょっと、何わやくちゃにしてくれてんの。ふざけんなよ?」
血に濡れた剣の刃が、銀碧の淡い色味を帯びて光る。
地底湖から吹き上げられた飛沫が霧となって流れてゆく。その向こう側から、唸り声にも似た低いつぶやきが聞こえた。
霧に見え隠れしつつ、なずむ影がおもむろにアリストラムの傍らに屈み込んだ。
アリストラムの手からこぼれ落ち、水辺の砂に突き立った剣の柄を、なめらかな爪をはやした手がぐいと掴む。
「……小僧」
レオニスはわずかに歯がみし、後ずさった。
「いい加減、その言い方止めてくんないかな」
うずくまるアリストラムを肩で抱き支えて。
「このあたしのどこが小僧だって言うの」
麗しき魔狼の長。ゾーイの面影を青ざめるほどにまざまざと残した、狼の魔妖が呟く。
褐色の肌。ゆたかにたなびく銀碧の髪。
同色の尻尾。
するどく尖った三角の耳。
完璧に均整の取れた――無駄な肉ひとつない、それでいてちぎれんばかりに荒々しく腰高にくびれ、張りつめた、肉食獣そのもののしなやかな体つき。
ラウが、そこにいた。
「アリストラム、めっちゃ怪我してるじゃん」
ラウは怒りにゆらめく翡翠の瞳をレオニスへと突き立てた。
ゾーイの刀を斜に押し構え、声を押し殺す。
「そんな半死半生の状態で何ができる」
一瞬、気を呑まれかけたレオニスも、すぐにラウの不調を悟った。傲慢な態度を取り戻し、嘲う。
ラウは顔をゆがめた。わずかに肩をすくめ、胸から腹にかけて無惨に焼け広がった銀の火傷を押さえる。
「刻印持ちの不利な状態で、ずっと一人で戦ってくれてたアリスに比べたらこんな傷、どうってことないに決まってんでしょ」
その声にアリストラムは意識を取り戻した。
呻きをもらして身震いし、苦痛にゆがんだ表情のまま、眼をこじ開けようとする。
かすんだ紫紅の眼がラウをとらえ、大きく揺れた。
「ラウ」
アリストラムは震えの止まらない手を差し伸べた。
自ら突き立てた剣にえぐられ、原形を留めなくなった刻印のなれの果てから、ぞっとする量の血が流れ出ている。
かすれきった声のくせに、それでも他人事みたいな口振りを装ってアリストラムはつぶやいた。
「よかった。元に、戻れたのですね」
「うん。戻ってきたよ。ちょっと待ってて」
アリストラムの傍らに膝をつき、手を握り、一方は剣の柄にしっかりと置きながら。
ラウは、アリストラムの唇に、ふと吐息を吹きかけた。
「今、あたし、ビッキビキに
「無理はしないでください」
「男は黙って据え膳食えっての。急いでんだから黙ってて」
ラウはアリストラムの唇を奪って塞いだ。吐息を吹き入れる。
「確かに……みなぎってますね。さすが肉食系」
アリストラムは、疲れ果てた吐息をついた。かすかに微笑む。
「とりあえずはこれで大丈夫だと思う。応急処置だけどね」
言い置いて、ラウはおもむろに立ち上がる。
「アリスはずっと、ひとりで我慢しててくれたんだよね。刻印のことなんかさっさと忘れちゃえばよかったのに、あたしがいたから。ゾーイのことも、ずっと、忘れずにいてくれたんだよね。今まで──分かってあげられなくて、ごめん」
むしろ穏やかに語りかけながら、アリストラムを思う気持ち全部を、手に握りしめた剣へと伝え、封じ込めてゆく。
「ゾーイもさ、きっとアリスのこと心配で心配でたまんなかったんだよ。だから、あたしにこの剣をくれたんだ。もしアリスに何かあったら助けてあげてって。今なら分かるよ。ゾーイの気持ち」
ラウは翡翠の眼をあざやかにきらめかせ、アリストラムをまっすぐに見つめた。
「だから後はあたしにまかせて」
「戯言を!」
レオニスはふいに凄まじい羽音をさせて宙に浮き上がりつつ、聖銀の槍を打ちふるった。
毒々しい鱗粉めいた明滅が翼からこぼれ落ちてゆく。赤と黒と灰色にゆらめき、おぞましくもちぎれかけた堕天の翼が、純白の武装コートを突き破って魁偉にうち広げられた。
その表情が見る間に憎悪へとねじくれ返ってゆく。
凄まじい羽音が耳元で渦巻いた。
レオニスは憎悪にまみれた哄笑を放った。
「人間如きに這いつくばる愚かな負け犬が!」
「うっせえ、エリマキトカゲ! ぱたぱた飛んでんじゃねえよ!」
ラウはレオニスの足元を思いっきり蹴り上げ、砂煙をまき散らした。ちらちら反射する雲母の煙で視界を奪い、一気に距離を詰める。
槍の下をかいくぐり、一足飛びにレオニスの胸元へと飛び込む。
「ところでラウ、ひとつお話があります」
アリストラムが戦闘の合間に何気なく口を挟んだ。ラウは目をそらさずに怒鳴り返す。
「へ? この状況で話しかけられても困るんだけど!」
剣を薙ぎ払う。レオニスの胸に太刀傷が走った。
レオニスは水銀とも腐汁ともつかぬどろりとした血を吹き出してのけぞった。
虹彩のない、深紅に茹だる眼がぎらぎらと凶悪に燃えあがる。
「貴様、この私に傷を……!」
レオニスは胸の傷を押さえながら、毒煙めいた荒々しい怒気を吐き散らす。
「ラスボスならそれらしい威厳のあるせりふ吐けっての。この腹黒陰険トカゲ野郎!」
ラウはひょうひょうと笑い飛ばし、レオニスめがけてさらに打ちかかった。繰り出されるラウの斬撃に、レオニスの翼が削ぎ飛ばされる。漆黒の羽がまき散らされた。
「ぐ……!」
レオニスは平衡感覚を失い、もんどり打って砂の上に転げ落ちた。
「で、話って何?」
アリストラムは顔を背けたまま、神妙な面持ちで頷いた。
「人狼化したばかりでお気付きにならないのも致し方なきことかと思いますが、うら若き狼が裸で戦うのは如何なものかと……」
「はだっ!?」
レオニスが逃がれようとして背を向けた隙を狙い、背後からさらに翼を鷲掴んで、根本へ一撃を叩き込んだ。一気に引きちぎる。
ラウは顔を真っ赤にして振り返った。
「黙って見てないで最初から言ってよ!」
「一応、確認を取らないと」
「何のだよ!」
「ふざけるな、下僕どもが!」
レオニスが吠える。ちぎり取られた羽毛が、あやしい螺旋のかがやきを放って蒸発した。はらはらとこぼれ落ちながら、青光りする魔力を帯びた幻死蝶にかたちをかえ、消えてゆく。
「ご馳走様でした」
アリストラムはパキッと指を鳴らす。
ひゅっと風の舞う音がして、ラウは普段通りの装い──耳当ての付いた毛皮の帽子、ゴーグル、ボタンのいっぱい付いたベストにふくらんだ胸をぴったりと包むヘソ出しのチューブトップ、ショートパンツと分厚い編み上げブーツ姿──に戻った。
「私はそのままでも良かったのですが」
「良くないから!」
ラウは笑っていなす。
そこで、改めて表情を険しくし、後退るレオニスに向かって、怒りにきらめくくゾーイの剣をぴたりと突きつけた。
「そろそろ終いにしてやるよ、レオニス。高く付くよ、この代償はね」
そのとき。
古めかしい花束のような、アルカイックな香りが鼻をくすぐった。
うっすらと立ちこめる白い霧の匂い。
頭の中で警鐘が打ち鳴らされはじめる。
「どうしたのです、ラウ」
アリストラムが顔色を変える。ラウはふらつく頭を押さえた。視点が定まらない。
「わかんない……何これ、どうなってんの」
身構えようとしたラウは足をもつらせ、あえなく膝をついた。平衡感覚が失せる。まっすぐに立っていられない。
くすくすと笑う声が、耳に突き刺さる。壊れた鈴を振るような声が、木霊となって、幾重にも反響していた。
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