堕天
十字の形に砂が割れ、炎が奔り付く。
「動くな、アリストラム」
アリストラムは前へ飛び出そうとして、喉の奥を引っ詰められたような呻きを上げた。
動けない。
刻印が、膨張した血管のように体表を這い回って、心臓を絡め取ってゆく。
全身がぎりぎりと締めあげられる。
アリストラムは血を吐き、砂を散らして膝からくずおれた。
ドク、と、闇がおぞましく脈打つ。氷の手で心臓を掴まれたようだった。
ぶくぶくと膨れあがってゆく刻印を、アリストラムは手で押さえつけた。指の間から黒い闇がただれてあふれ出す。
「悔しいか。無力な自分が」
冷淡な声がアリストラムを追い打つ。
アリストラムは怒りに濡れた眼でレオニスを睨み付けた。
レオニスはゆらりと笑い、瞬時に姿を消して、再びアリストラムの眼前に出現した。
逃げようにも、身体が動かない。
レオニスは腕を異様にくねらせ、巻き付かせるかのようにアリストラムの喉へと手を回した。
力がこもる。憎悪が爪を立てる。
レオニスは口の端を吊り上げた。眼が蛇のように光っている。
「俺ごときにすべて奪われる気分はどうだ。手にしたものすべてを目の前でぶち殺される気分は。貴様は何一つ手に入れられない。代わりにこの俺がすべてを手に入れてやる」
くつくつと残忍に笑う。
絡みついた指が鬱血の痕を赤黒く喉に刻みつけた。
アリストラムは凄絶な笑みを浮かべた。
「貴方は哀れだ、レオニス」
「黙れ」
力任せに突き飛ばされる。
狼にまとわりついた幻死蝶が、いっせいに羽ばたき飛んだ。瑠璃と漆黒の光が妖輝を散らし、舞い降る。
たまった血の臭いが、冷ややかにうずまく霧にまざって流されていった。
アリストラムは喉を押さえた。
「なぜ、そうまでして私に関わる?」
声ががらがらに嗄れている。片膝をついて身を起こす。
濡れてみだれた銀の髪が表情を隠してひた垂れ、頬に貼りつく。
「知れたこと」
レオニスはゆがんだ笑いに口元を染め上げた。
「弱いからだ」
レオニスの、魔妖じみた深紅の眼が陋劣にひそみ笑った。その眼に、邪悪な銀の輝きが入り混じる。
「魔妖であることが罪なのではない。人に害なすことが罪なのではない。弱さこそが罪なのだ。人間は、その頑是なさゆえ運命に流される。黙って神に従えば良いものを、聖なるを嫉み、邪なるを妬み、劣るがゆえに他を卑下し、後悔と怨念に魂を押しつぶされる。逃げる。のたうつ。その弱さこそが――何にも勝る重罪となるのだ」
レオニスはうずくまるアリストラムの傍らにかがみ込んだ。腕を掴み、骨が折れそうなほどの力で、手首を握りつぶす。
アリストラムは顔を歪め、声にならないうめきをあげた。
「つまるところ、人はあまりに浅はかで、無様。その弱さ、その無力さ、無能さ。全てが罪となる。よって、俺が道を示す。人間であることを棄てろ、アリストラム。心地良いぞ。人ではない究極の存在へと進化するのはな」
「ふざけるな……!」
「堕天しろ」
陰鬱な毒が耳に注ぎ込まれる。
アリストラムは喘いだ。もがいた。必死に身をよじらせた。
おぞましい銀の臭いが立ちのぼる。
レオニスの気配がざわざわと異形のそれへと変わってゆく。
ぬらりと背後から回された腕で、何重にも首を締めあげられ、のけぞらされ、抱え込まれる。身動きもできない。
「堕ちろよ、アリストラム」
もはや、人でも、聖銀でもない。老獪な深紅の眼をし、闇に侵蝕された憎悪の翼と、醜悪なくろがねの鱗を顔に浮かび上がらせた魔妖が、長く尖った舌をちろちろと出して、アリストラムの刻印を舐め上げた。
「魔妖……だったのか……!」
「気づくのが遅い」
かつてレオニスだった者の、蛇の狂気を宿した、絶美極まりない顔が近づく。
「聖職者に化けて人の中に紛れ込めば、愚鈍な貴様等には気づかれないと踏んだのだが、」
長い牙がむき出された。首筋が深々と噛み破られる。ぶつっ、と肉の破れる音とともに、熱い血がアリストラムの頬にいくつも奔りついた。毒が注ぎ込まれる。
黄色い毒がじゅくじゅくと泡だってこぼれる。
牙の頸木に繋がれ、アリストラムは喘いだ。
「聖銀の血は、人の中で最も神に近しい、半神の血族だ。人間ごときと交わらせて薄めるには惜しい。だから」
長く、おぞましく伸びた牙が、刻印の浮かび上がった鎖骨を、噛み砕かんばかりにきつく噛んでゆく。
毒で視界がかすむ。
「来い――俺の元へ。どこまでも堕ちろ」
血を舐めずられ、命を蝕まれてゆく。耐え難く息が乱れた。
くずおれかけた身体をぐいと押し上げられ、蛇の舌で、刻印をちろり、ちろりと舐め上げられ、すすられる。
見る間に狂おしい熱を放ちだした刻印をレオニスにつかみ取られて、アリストラムは声をつまらせた。
「逃がさない」
ゆがんだ声、軋む声、もはや人のものではない声が、自我を慰み物にしてゆく。
残酷な手が、アリストラムの首を鷲掴んだ。
「お前は、俺のものだ」
深々と突き立つ牙が、刻印を噛み砕いた。息のかすれ飛ぶような激痛に、意識が吹き飛ばされる。
「……っ……あ……!」
「逆らうことは、許さない」
狂気めいた残酷な高笑いが、刻印に支配され尽くした脳髄にどよめき渡る。
アリストラムは逃れようとして数歩、後ずさり、よろめいて膝をつく。
何もかもが狂って見えた。
巨大な秩序の歯車が、ぼろぼろに朽ち、砂に変わってくずれおちてゆく。
身体の中をふつふつと、血を濁らせる毒が巡り始める。
視界が偽りの灰色に塗り込まれた。
色のない世界。心閉ざされた世界。
音もなく、ただ、刻印の闇だけが視界をどす黒く覆ってゆく。
絶望の光が射す。
ぼろぼろの黒い毛皮が、レオニスの足元に横たわるのが見えた。
アリストラムはふるえる手を伸ばした。
手の甲に、鉄色の鱗が浮かんでは消え、浮かんでは消えて、やがてどす黒く広がってゆく。感染している。全身が焼け付くように熱い。銀の髪が無数の子蛇に変わって、ざわざわとうねる。からみつく。
このままでは駄目だ。堕ちる。戻れない──
ふいに狼の身体が痙攣した。口元がひくりとひきつれる。
「ラウ」
アリストラムはかろうじて呻いた。
狼はうっすらと眼を開けた。
ぱた、ぱた、と尻尾が弱々しく砂を打つ。
かすんだ翡翠の瞳が、またたいた。
ゆっくりと、視線を動かしてゆく。
湖を見つめている。
耳が、ぴくりと動いた。
まるで、何かがそこにある――と、最後の力を振り絞ってしらせるかのように。
だが、そこまでだった。狼はすべての力を使い果たし、眼を閉じた。
いったい、何を伝えようとしたのだろう。
声すら出せず、身体を動かすこともかなわず、それでも眼だけで何かを伝えようとした。
その思いの在処を。ラウが伝えようとしたものが何だったのかを。
アリストラムは顔を上げて探す。
探し続ける。
湖底にきらめく何かが見えた。
意識が、わずかに動く。
毒血に濁る眼で、光を放つ鋭い形を見つめる。暗く青白く広がる水晶の地底湖の底に、翡翠の輝きを放つ剣が沈んでいる。
胸の奥深くにわずかな痛みが疼く。
それは、ラウが肌身離さず帯びていた剣。ゾーイの形見である、あの刀剣だった。
込められたラウの、そして、ゾーイの想い――
「ラウ」
痛みはやがて規則正しく繰り返される動悸となり、ついには激しく乱れ打つ鼓動となった。
「ラウ!」
アリストラムは声を振り絞った。
刻印の支配から身をよじって逃れ、地底湖へと分け入って山刀を掴む。
アリストラムは水際の飛沫を蹴散らして立ち止まった。
使い慣れぬ鋼の重みに、思わず息が止まる。
「ほう? まだ逆らえたとはな」
レオニスは余裕のある凶悪な笑いを片頬にかすめさせた。
「だが、もう、逃げ場はないぞ」
水辺に立ちつくしたアリストラムは、全身を濡らし、冷え切った身体から白く火照った蒸気を立ち上らせて笑った。
乱れた前髪が垂れかかって、怒りにゆらめく紫紅の瞳を隠す。
「……誰が逃げるものか」
手にした山刀が二つの色に輝く。
理知を表す、銀の炎。
情熱に燃え立つ、翡翠の炎。
アリストラムは大きく息を吸い込んだ。
この刀剣こそ、何があってもラウが決して手放そうとしなかった、ゾーイへの想いだ。
そしてゾーイもまた、この剣を通じて、ラウへ強い思いを託している。
その二つの思いが、アリストラムの手の中でひとつに重なる。
懐かしく、遠い感覚が取り巻いた。
当初、まだちっちゃくてころころの少女だったラウに、その山賊刀はいかにも重すぎ、年季が入りすぎていて余りに不釣り合いだった。
だが、やがてラウもまた、剣に見合う表情をするようになった。
ゾーイに生き写しな、強くて優しい顔を。
滴る笑みをわずかにゆがめながら、レオニスは傲然と手を突き出した。
「それを寄越せ」
「断る」
アリストラムは平然と答えた。
銀に輝く刀身を見つめる。
くもり一つない、澄みきった鋼のおもてに顔が映り込んでいる。
ずっと、ラウに復讐を果たさせることがゾーイへの償いになると思い込んでいた。
「剣を寄越せと言っている!」
レオニスの声が苛立ちでうわずる。
「今度こそ、誓いましょう。この剣の持ち主の名において」
烈火のまなざしをレオニスへと突きつける。
刻印の支配が効かないことに気付いたのか。レオニスは顔をゆがませて後ずさった。
アリストラムは凛乎たる笑みを浮かべ、濡れた剣のしずくを振り払った。
刃こぼれ一つない、滑らかなしのぎに沿って、流星の輝きが走り抜ける。
剣を取る手にゾーイの熱を感じる。
喪ってなお、その優しさに、強さに支えられていると分かる。
もう、逃げない。
決して、迷わない。
何度つまずいても。
大切な人を守りたいと思う気持ち。その一途な願いが――
光となって弾ける。
「最後にもう一度だけ」
アリストラムは決意の笑みを浮かべた。剣を、逆手に握り替える。
「貴女にお願いしたいことがあります、ゾーイ」
高く振り上げる。
重なり合う思いが幾重にも波紋をひびかせ、輝きを増し、闇をかき消していく。刃のしなりに沿って、銀の閃光が駆け抜ける。
「今度こそ本当に」
アリストラムの手に、しろがねの輝きが膨れ上がった。
剣の抜き身がまばゆい力を弾け返らせる。
そして。
「貴女に、最期のお別れを」
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