タイムリープ・チケット

 雪が降っている。強い風で、アパートの窓ガラスがかたかたと鳴った。哲哉は万年床から這い上がり、かび臭いカーテンの隙間から外をのぞいた。鉛色の空から降りてきた白い雪が風にあおられて踊っている。哲哉はため息をついて、ストーブに火を入れた。

 よれよれのスウェットは、もう一週間も洗濯していない。もっさりと伸びきった髪に、無精ひげ。今が朝なのか昼なのかわからない、そもそも哲哉には時計が必要ではない。

 先月、仕事を辞めて以来、ずっと引きこもっている。仕事に就いては辞め、就いては辞め、転がり続けるうちに三十路を越した。独身・職なし・彼女なし、実家とも連絡を絶って久しい。

 給油のランプが点滅した。買い置きの灯油も切れている。財布には十円玉が四枚、パチンコにも行けやしない。舌打ちすると、哲哉は畳に積み上げたがらくたの中から、一冊の文庫本を引っ張り出した。雪は嫌いだ。思い出してしまう。もさもさの頭をかきむしった。

若かったのだ。仕方なかったのだ。

 陽に焼けて黄ばんだページをめくる。里奈が置いて行ったこの本を、いつまでも捨てられない。別れて、もう十年になるのに。

と、本の間から、はらりと何かが落ちてきた。

 紙切れだ。うす青い、名刺ほどの大きさの。色鉛筆で「タイプリープ・チケット」と、書いてある。裏返してみると、拙い字で、西暦と日にちを書き込んでください、とあった。

「行きたい時代を書けってことか? ばかばかしい」

 鼻で笑いながらも、哲也は、十年前の今日の日付を書きこみ、ふたたび煎餅布団に転がり、毛布をかぶった。


 目を覚ますと、真っ暗だった。一体、何時間眠っていたのだろう。起きあがった瞬間に、違和感を覚える。ベッドの上にいるのだ。布団も毛布もふかふかで、太陽のにおいがする。

 一瞬で記憶がよみがえる。ここは、かつて半同棲していた、里奈の部屋。里奈のベッド、お揃いの枕。隣には彼女はいない。

よろよろと窓辺に寄り、カーテンを引いて外を見ると、深い藍を塗り重ねたような夜空の中を、雪が降っている。灯りをつけ、暖房を入れた。

窓に自分のすがたが映っている。髪が金色で、外国にいる珍しい猿のよう。壁に立てかけられたエレキギターが目に入る。昔の自分のものだ。まさかとは思うが、本当に、十年前に戻ってしまったのか。

胸が高鳴った。ありえない事態に驚くよりも、まず、「里奈に会える」と、そう思ってしまったのだ。

 と。電子音がひびいて、静寂を破った。携帯の着信音。ベッドのサイドボードにそれはあった。二十代のころに使っていたガラケーだ。

 電話は里奈からだった。耳元で響く彼女の声に。十年ぶりに聞く声に、胸が甘く熱く焦がれる。

「もしもしテツ? うん。……今から出て来れない?」

 強烈な既視感をおぼえた。あの日と、同じ。

ひどく寒い雪の夜だった。いつまでも帰らない彼女を待つうちに哲哉は眠り込んでいた。話がある、と、深夜の電話で呼び出されて、駅近くのファミレスへ行ったのだ。帰って話せばいいものを、なぜわざわざ外へ呼び出すのだろう、と。首をかしげながら。

幾度となく後悔したのだ。

里奈を失った日。里奈を、傷つけてしまった日。


 外へ出ると、雪はうっすらと積もり始めていた。音もなく降る雪が、二十二歳の哲哉の、コートの上にも、積もっていく。凍りつきそうな歩道の路面を踏みつけながら、ひたすらに里奈の待つ場所へと歩いた。時おり通り過ぎる車のライトに照らされて雪たちが光る。

――おれは。里奈に、何と言えばいい。

 考えていた。これから彼女は哲哉に、こう告げるのだ。

「赤ちゃんができたの」と。

 夕方に病院へ行って、そのままどうしても家に帰れなくて、ずっとここでお茶を飲みながらぼんやり過ごしていたのだと。どうしていいかわからない、と。彼女は泣きそうな顔で、言ったのだ。

 あのころの自分は、大学の軽音サークルで結成したバンドをずるずると続け、就職活動もせず、先のことなど何も考えていなかった。メンバーは次々と抜け、残るは自分と、ボーカルの里奈のみ。

里奈の、透明感のある伸びやかな歌声が好きだった。哲哉が書くのはありきたりなメロディだったけど、それに里奈の作ったちょっと毒のある歌詞が乗って、チャーミングな歌声が奏でたら、世界でいちばん、とびきりの音楽に変わる。そう感じていた。

だけど里奈は、きっぱりと言いきった。

「テツは逃げてるだけ。音楽を、逃げるいいわけに使っているだけだよ」と。

 かっときた。里奈を思いやる余裕もなかった。子どもはあきらめろ、と。言ってしまっていた。よくもまあ、好きな女にそんな残酷なことが言えたものだと、自分でもあきれてしまう。

それほどまでに、怖かったのだ。両肩にいきなりのしかかってきた、「責任」と「将来」が。

 里奈は哲哉の頬を打った。帰るなり、部屋から哲哉を追い出し、大学も辞めてすがたを消した。

子どもがどうなったのかは知らないし、知るのも怖くて、ずっと、忘れようと努めてきた。忘れられるわけがないのに。

ちいさな命を、消せと言ってしまったのは自分の罪。命を消す痛みを、誰よりも大切な彼女に押し付けて、自分は素知らぬ顔をした。

最低だ。

雪は降る。視界が白く覆われていく。まるで現実感がない。里奈にはじめて思いを告げた日も雪が降っていた。白で埋まった、凍ったように冷たい街を、彼女と手をつないで歩く自分の胸はほこほことあたたかくて。春の陽だまりにいるみたいだった。なのに。

ごう、と、強い風が吹く。雪は舞い、白い道をつくる。雪がつくった、時空を超えるトンネルを、くぐりぬけて戻ってきた。そう哲哉は思った。二十二歳の、愚かな自分に戻ったのだ。

思えば里奈の言う通りだった。十年間、自堕落に転がり続けて身に沁みた。音楽は夢なんかじゃない、単なる言い訳だった。大人になりたくない自分が握って離さなかった、ただのおもちゃだ。それが証拠に、里奈を失ってから、ひとつも曲を書いていないし、ギターも売ってしまった。

 ファミレスに着いた。深呼吸してドアを開ける。ほかに客はいない。がらがらだ。十年前と同じ。たしかにここは、十年前の、あの場所なのだ。

 里奈は一番奥のテーブル席にいる。まっすぐに向かっていく。里奈が哲哉に気づいて小さく手を振った。

どきりと、した。彼女が、ひどく小さく見えたのだ。血の気の失せた顔をして。哲哉の顔を見るなり、ほっとしたように、その強張りを解いた。

 里奈。……里奈。

「テツ」

 里奈が哲哉の名前を呼ぶ。彼女の向いに座り、そのちいさな手を、あたたかなやわらかい手を、そっと自分の両の手で包み込む。

「テツ。すごく冷たい。外、寒いもんね。ごめんね、こんなところに呼び出して」

 里奈は哲哉の手をほどいて、かわりに、自分の手のひらで哲哉の大きな両手を覆った。ぎゅっ、と。力をこめて。ぬくもりを分け与えるみたいに。見つめると、里奈は、へへ、と、照れたようにわらった。

 その笑顔を見た瞬間に、哲哉の心は決まった。

否。本当は、ずっとずっと、思い描いていたのだ。里奈と、子どもと、三人で歩く人生を。もうひとつの、世界を。


 陽がのぼって、光が街を照らしはじめる。朝だ。しずかな、朝がきた。


 美雪が目を覚ますと、となりには大好きなママがいて、すうすうと寝息をたてていた。

そして、ママのとなりには……。

パパだ! パパがいる! 美雪のこころははねた。はねて、踊り出した。

――やった! パパ、うまくいったのね!

 物心ついた時から、どうして自分にはパパがいないんだろうと思っていた。死んだわけではないらしい。なのにママは何も教えてくれないから、美雪は、何度も跳んで見に行った。むかしのパパとママ、今のパパのことも。ママには「力は使うな」とうるさく言われていたのにもかかわらず。

ある日、美雪は思った。「パパは、跳べないのかな」と。自分の力は、誰から譲り受けたものなんだろう。ママじゃないなら、パパしかいない。

タイムリープ・チケットを両親の思い出の本に挟んだのは、美雪。パパの気持ちが強ければ、きっと跳べると信じていた。そしてパパは。未来を、変えた。

するりとベッドを抜け出して、窓辺に駆ける。外を見た瞬間、美雪の瞳はかがやいた。早くパパとママを起こさなきゃ。外はいちめん、真っ白よ!

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