家電ですから
そうだ、お掃除ロボットを買おう、と雄策は思った。
定年退職してから半年後、雄策は突然妻を亡くした。脳梗塞だった。丈夫で風邪ひとつひかなかった妻と、まさかこんなかたちで別れることになろうとは思いもしなかった。家のことを任せきりだったぶん、これからは旅行のひとつでも連れて行って女房孝行しよう、そう思っていた矢先のことだった。
さて。これまで家事の一切を妻に任せきりだった雄策の生活は見る見るうちに荒れていった。家のどこに何が仕舞ってあるのかすらわからないし、覚えようと言う気も起きない。妻を亡くした寂しさは、雄策からすべての意欲を奪っていたのだ。日がなぼんやりとテレビを視てすごし、食事は店屋物かインスタントで済ませる。だんだん、それすらも億劫になった。妻を失って最初の頃は、一人息子の嫁の早苗が週に一度、洗濯や掃除をしに来てくれていたが、息子一家にだって家庭の事情はある。孫はまだ小さくて手がかかるし、その上、早苗の母が体調を崩し、そちらにかかりきりになって雄策のことまで手が回らなくなったのだ。それでもまめに電話を寄越してくれる。若い息子夫婦に負担をかけていることを、雄策は申し訳なく思った。
そんなある日。一日中点けっぱなしになっているテレビに、断捨離とやらの本を出しているタレントが出ていた。彼女曰く、「捨てることで人生が輝く」らしい。未練を断ち切り、新しい自分へ。住まいを美しく保つことが人の精神をも清々しく浄化する。なにやら宗教がかった言いぶりだなと苦笑したが、ふと自分の周りを見渡せば散々な有り様で、なる程この環境は確かに不健康だと雄策は初めて客観的に我が身を振り返ったのだった。
しかし、雄策にはごみの分別方法すらわからない。途方に暮れていると、またしてもテレビが彼に啓示をあたえた。通販番組だ。
万能お掃除ロボット。皿洗いやごみ出し、水回りの掃除から窓拭きまでこなす、スーパー・ロボット。
これだ、と思った。
果たして一週間後にそれは届いた。それ、というか。そのひと、というべきか。
美少女だった。内側からまばゆい光を放っているがごとき、清らかな乙女。の姿をした、ロボット。配達してくれたメーカーの作業員が、初期設定など細々したことをすべて行ってくれた。なにかあればサポートセンターまで、と、自分の名刺と分厚い取説を手渡して彼は帰って行った。
緑色の、白いライン入りのジャージの上下を着用した美少女ロボットとふたり、とり残される。雄策は首をかしげた。通販番組で観た商品画像とどうにもかけ離れている気がしてならない。が、一日中ぼうっとして夢とうつつの境目もわからないような生活を送っているから、おそらく自分が何かの勘違いをしたのだろう。幸い金額はそれほどでもないし、掃除をこなしてくれればそれでいい。
美少女は早くも片づけに取り掛かっている。ロボットと一緒に梱包されていたお掃除道具を手に、ごみを袋に詰め、箒で床を履き、クリーナーをかけ、洗いものをした。ごみかどうか判別の難しいものについてはきちんと雄策の判断を仰ぐ。かなりできるロボットだ。
みるみるうちに家の中が綺麗になっていく。雄策はただ驚いてその様子を見守るだけだったが、やがて深夜になるとロボットは動きを止め、茶の間にちんまりと正座した。
「充電、してください」
取説を開く。肩甲骨を押すと羽のように開くので、そこから電気コードをするする引き出し、プラグをコンセントに差し込む。らしい。こんなところだけ妙に掃除機っぽい。
「で、では。失礼するぞ」
いくらロボットとはいえ妙齢の女性の素肌に触れるとなると、雄策は躊躇してしまう。いやいや、息子よりもずいぶん若い容姿をしているし、娘だと思えばいい。ぐっとつばを飲みこみ、ジャージの裾から手を入れてまさぐる。なんというなめらかな……。
「早く充電をしてください。雄策さん」
名前を、呼ばれた。途端、顔が熱くなる。長い間忘れていた感覚。雄策は邪念を振り払った。これは娘だ。いや違う、ロボットだ、機械だ。一気にジャージを引き上げる。すると、まぶしいほどに白い素肌があらわれた。
ロボットは毎日せっせと家の中を磨いた。水垢や汚れがどうしても取れないと言っては付属のタブレットを開き商品カタログを雄策に見せ、洗剤やグッズを取り寄せる。月々の請求はかなりの額になったがもはやどうでもよかった。雄策はロボに、すみれ、という名をつけた。名がないと不便だからだ、それ以外の意味はない。すみれ、すみれ。可憐な花。初恋の少女の名だ。たまたま思い浮かんだのだ、それだけだ。
しかし名をつけたのは失敗であった。もうロボットではなく「すみれ」と言う女性にしか思えない。雄策はすみれのために服を買った。アクセサリーを買った。買い物に出かけるためにひさしぶりにひげを剃り、髪を整えた。道すがら、孫か娘なのだろう、若い女性と腕を組んだ初老の紳士を見かけた。彼は洒落たものを身につけ、女性をエスコートする姿に大人の余裕があり、ちっともいやらしさが感じられない。すみれとデートする自分を夢想する。雄策は美容室に寄った。自分のための服を買った。
すみれはずっと家中を掃除している。電源を入れているあいだは掃除をするのが彼女の役割であり、それ以外の機能はない。いいから黙って座って一緒にテレビを観よう、そう何度も誘ったが意味がわからないようだ。
「充電、してください」
夜になるとすみれは休む。充電中は正座の姿勢で固まってしまうので、添い寝をすることすらかなわない。固まったままのすみれをそっと抱きしめる。それぐらいならば許される気がした。なに、誰も見ていない。かまわない。馬鹿な男だと笑うものもいない。
雄策は、ある男のことを思い出していた。
酒も煙草も女遊びもせず、麻雀や競馬の類にも興味がない、真面目な同僚。転職してから疎遠になっていたその男が、娘ほどの年齢の女と不倫の恋に落ちて駆け落ちしたという噂を耳にしたことがある。学費を稼ぐために水商売をしていると言っていた、素朴な容姿の女だったという。つきあいで連れていかれた店で彼女に出会った彼は遅咲きの恋に狂った、らしい。
その話を聞いたとき、雄策は彼のことを馬鹿な男だと鼻で笑った。相手は男に恋をさせるプロなのだ。遊び方を知らないからどつぼにはまるのだ、と。
それがどうだろう、今自分が狂っている相手は人間ですらない。
充電中のすみれは目を閉じている。彼女のひんやりしたくちびるに触れ、服の中に手をすべらせる。感触は、人間のものと変わらない。若い娘の肌の張り、柔らかいのに弾力のある乳房。なぜお掃除ロボットにこのようなリアルな造形が必要なのかわかりかねるが、それすらももうどうでもいい。
と。突然にすみれが目をかっと見開いた。
「充電中です」
「いいだろう、すみれ」
「わたしは家電です」
「すみれ」
電源コードを引き抜く。すみれはずっと、「家電です」「家電です」と壊れたように繰り返していた。
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