初雪ドロップス
今年はじめての雪が降った、次の日の朝。あたしはへんてこなおじさんに出会った。
うっすらと積もった雪は、朝日を浴びてきらきら光っていた。道路に積もった雪は脇に寄せられてびちゃびちゃになっていたけど、庭の芝の上とか、草むらとか向かいの家の屋根に積もった雪はまだやわらかく清らかだった。あたしはすべらないように注意ぶかく歩いた。このあたりに雪なんて滅多に降らない。一変した風景にわくわくを押さえきれず、朝ごはんを食べ終わるやいなや家を飛び出し、とりあえず近くの公園に行くことにした。
おじさんとは、その公園で会った。おじさんは雪をあつめていた。日陰にある植え込みに積もった雪を、そうっと、うす水色のガラス瓶にすくい入れていた。背の高いひとで、マッシュルーム・カットの髪も、申し訳程度にちょこっとだけある口ひげもそれこそ雪のように白かった。だけど、おじいさん、というには肌のしわが少ないし、背すじはしゃっきりと伸びていた。ぴちっと折り目のついたズボンに、キャメル色のコート。身なりはきちんとしている。行動だけがあやしい。
おじさんは、ブランコに腰掛けてじっと観察していたあたしに、やがて気づいた。はにかんだような笑みを浮かべて、近寄ってくる。やばい、と一瞬思う。
「やあやあお嬢さん。おはようございます」
おじさんの手のなかにある小瓶にあたしの視線は吸い寄せられた。瓶にすくい入れていたのはたしかに雪だったはずなのに、そこにあるのは、水晶みたいな、透明な丸い粒だった。しかも、いくつもある。溶けて水になるならわかるけど、氷の粒になるなんて、聞いたことがない。
「これは飴です」おじさんは言った。「わたしは、雪で、飴をつくる職人です」
やっぱり少しねじのゆるんだ人みたいだ。その時はそう思ったのに、あたしは、気づいたら、誘われるがまま、おじさんの後について行ってた。
住宅街をジグザグに進んで、いつの間にか、少し古い建物の並ぶ通りに出ていた。レトロな床屋と古本屋の間に、蔦の葉に覆われたちいさな箱みたいな家があり、おじさんはそこの扉を開けた。りん、と鈴の鳴る音がした。コーヒーのにおいがする。こげ茶色の木のカウンターがあって、その奥の棚に、色とりどりのガラス瓶が、整然と並んでいる。
「ここは喫茶店です。普段は、コーヒーやパンケーキをお出ししています。しかし、雪の降った日は別です。お客様に、特別なものを召し上がっていただきます」
「それは、さっきの、雪で作ったっていう、飴?」
おじさんは笑顔でうなずいた。
「初雪で作った飴にはふしぎな力があるのです。雪は空気中の微粒子を核として成長します。その微粒子には、地上の人々の記憶が宿っているのです。この、スノウ・ドロップを舐めると、映画のように、その記憶を、景色を、観ることができるのです」
まるで通販番組のようにすらすらと説明する。あたしは勿論信じちゃいなくて、でもちょっと好奇心もあって、ためしに、ひとつ食べてみることにした。
「何年のものになさりますか」
頭のなかで計算する。あたしが三歳のころの西暦。
「2003年ですね、わかりました」
おじさんはうすい橙色の小瓶を取り出した。あたしの手のひらに、ころん、と丸い粒が落ちる。口に放ると、舌の上がきんとしびれた。
「けっして噛み砕かないように、ゆっくり、ゆっくり、溶かすように舐めてください」
それは、みかんの果汁を何倍もうすめたような味だった。ちょっとだけすっぱくて、ちょっとだけ甘い。目を閉じて、と言われてあたしは素直に従った。すると、視界がオレンジ色に染まった。夕暮れの、あたたかいオレンジ色。あたし、この感じ、知ってる、と思った。
影絵のような街のシルエット。はじめて見る景色のはずなのに、あたしは確かに知っていた。古びた家並み、川沿いの細い道。小さな女の子が歩いてる。あたしだ、と思った。三歳のあたし。あたしの隣にいるのは、
「おかあさん」思わずつぶやいた。
アルバムの写真の中、仏壇に飾られた写真の中でしか知らないお母さんのすがた。ゆるいウェーブのかかった髪が夕陽に照らされてやわらかく光っていた。ちいさなあたしは飛んだり跳ねたり、お母さんの手をひいたり、服のすそをひっぱたり、しきりにまとわりついている。お母さんの表情はくるくる変わる。やさしく目を細めたり、あきれたように口を開けたり、大声で笑ったり、眉をしかめたり。
どうして今まで忘れていたんだろうか、と思う。いつもお母さんと歩いた夕暮れの道。保育園からの帰り道。三歳って、幼すぎて、小さすぎて、あたし、何一つ覚えていない。
この年の冬、お母さんは、事故で亡くなる。あたし、お母さんが毎日お迎えにきて、一緒に家に帰って、ごはんを食べておふろに入って同じ布団で眠る、それが永遠につづくって思ってたんだろうな。
ふっとオレンジ色の景色が消えた。飴が溶けてしまったんだ。
「いかがでしたか」
おじさんがふんわりと笑っている。あたしは、もうひとつだけ、お願いした。
「2000年のものですね」
おじさんは緑色の瓶を取り出した。2000年。あたしが生まれた年。飴を舐めるとはっかのようなさわやかな風が一瞬、吹いた。
お父さんがいた。お父さんは今より髪の毛が黒くてふさふさしてて、ちょっとだけスリムだった。みどり色の、手術着のようなものを着ている。テレビで、こういうの、見たことがある。お母さんが額に玉のような汗を浮かべて、息をきらして、涙をながしている。お父さんがお母さんの手を握ってる。ふたりとも、笑ってる。泣きながら、微笑んでる。
看護師さんっぽい人が真っ赤になって泣き叫んでいる赤ん坊を抱っこしてきた。白い台に横になっているお母さんのとなりに、そっと寝かせる。赤ちゃんは自分の指をちゅっちゅと吸ってる。お母さんは、花が咲くように、わらった。
やがてその風景も消えた。あたしは声を出さずに泣いていた。おじさんは何も言わず、グラスやコーヒーカップを磨いていた。
あたしが知りたかったことは何だろう。
ずっとお父さんとふたりで暮らしてきた。同じ年頃の子よりも家事が得意になったけど、とくに不自由せずに過ごした。お父さんはやさしかったし、おばさんの家も近くにあって、お父さんが仕事で遅い日は預かってくれた。これが当たり前の日常で、ほかの子たちをうらやむこともなかった。
だけど。あたしは知りたくなってしまったんだった。お母さんのこと。お母さんと、お父さんのこと。
お父さんは忘れてしまったのかな。あたしが生まれた日、お母さんと手を取り合って涙を流したこと。お母さんを好きで、一番に好きで、だからあたしが生まれた、っていうこと。
「大丈夫ですか」と、低いやわらかい声がして、我に返る。ごしごしと涙をぬぐう。
おじさんがホットココアを作ってくれた。温かくて、とろけるように甘くて、でもすこしだけ苦い。
「あたしのお父さん、再婚するんだ」
ぽつりとつぶやいた。
「あたし、ちっともわからないよ。あたしにとっては、おかあさんって、たったひとりなのに、お父さんにとってはちがうの」
「ちがいませんよ」と、おじさんは言った。「お父さんにとっても、あなたのお母さんは、たったひとりの大切なひと」
「だったら、なんで」
「別の誰かを好きになっても、お父さんはずっと、お母さんのことを忘れたりはしませんよ」
「そんな器用なことができるの、大人って」
思わず、おじさんを睨みつけた。おじさんは肩をすくめた。
「時を経て、痛みだけを手放して、だけど大切なものはずっと心の中に閉じ込めておく。忘れる。だけど忘れない。生きていくとは、そういうことですよ」
つぶやいて、今日の雪を閉じ込めた青い小瓶を、棚のいちばん上に仕舞った。
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