第37話「心配させる人」

 五通観は西市の北、安定坊にあった。城内の最北端にあって、宮城の二坊隣。

二人は西市を抜けると、大路を北上していく。

 意気込んで共に行く決心をしたのはいいものの、何を話せばいいのか分からない。坊牆向こうに覗く花や、飛び交う蝶にいちいち小さく歓声を上げている杏香きょうかの隣で、琅惺ろうせいは次第に俯きがちになっていく。すると、

「大丈夫、ちゃんと普通の人に見えるからもっと堂々として。あんまりオドオドしてると、悪目立ちしちゃって却ってバレちゃうよ」

 その声に頭を上げると、目の前に満面の笑みを浮かべた杏香の姿。なぜだかその表情が、寺にある観音菩薩を彷彿させた。

「えっ、何? 私の顔、何か付いてる?」

 両手で顔を撫でながら慌てふためいている杏香の言葉に、琅惺は自分が彼女を見つめていたことに気づいた。慌てて、「そういえば杏香――さんは……」

「呼び捨てでいいわよ、何?」

 訊かれて言葉に詰まった。呼びかけてしまったものの、その先を考えていなかった。

「えっと、あの……そう、珂惟とは幼馴染みなんだって?」

「珂惟が話したのね、ええ、そうよ」

 にっこりと笑う。とても真面に見れない。

「でも珂惟のお母さん死んじゃって、珂惟が妓楼で働くようになったらほとんど会えなくなっちゃったけどね」

「ああ、何か用心棒に仕立て上げられそうになったとか何とか……、そんな忙しいんだ」

「何だ、そこまで聞いてるんだ。忙しい、ってのもそうなんだけど――珂惟が会いたがらないっていうか、まあ私も、辛くて見てられないってのもあったんだけど。いっつも体中にアザ作ってて、隠そうとするんだけど、それがまたかわいそうで――」

 杏香が紡ぐ言葉は、珂惟から語られなかった話である。それも想像とは少し掛け離れているような――思わず杏香に目を向ける。

「体中に? 用心棒ってくらいだから、武術の訓練か何かでってこと?」

 琅惺の言葉に、杏香は何度も首を振り、

「そんな大層な理由じゃないわ。たまに覗きに行くと、いつも大きい男の人に――私と珂惟はそいつのこと「下郎」って呼んでたけど――怒鳴られて、殴られてて。それも主人に叱られたとか、酒を飲み過ぎたとか、そいつの気分なの。理由なんて、何にもないのよ。蹴ったり、殴ったり、手が痛くなったって腕くらいの太さの棒を持ち出したりして、『あいつ、死んじゃえばいいのに』って何度思ったことか」

 まるでその男が目の前にいるみたいに、杏香は胸前でぎゅっと拳を握り、憎々しげに吐き捨てる。その言葉が、琅惺の頭の中でぐるぐると巡った。


 ――死ねばいい。


 ふと蘇った言葉。目の裏に浮かぶ風景は、あの――。

「琅惺さん」

 声に、我に返った。いつしか俯いていた自分。見れば杏香が心配そうに、自分を見ている。

「どうしたの? 顔色悪いわ」

 その言葉に、琅惺は無理矢理笑顔を作り、

「何でもない。慣れない格好だから、ちょっと緊張して――で、それから京城みやこに来たんだ、珂惟は」

 突然引き戻された話題に、杏香は訳が分からない、という表情を見せていたが、

「あ、うんそうなの。おじさんに連れられて、行ってしまったわ」

「おじさんってもしかして上座のこと? 上座のこと、知ってるの?」

「ええ、おじさんが珂惟の前に現れた時、私、珂惟と一緒にいたもの」

「――寂しくは、なかったの?」

「そりゃあ。ずーっと一緒、寂しかったわ。でもそれより『これで珂惟は、これ以上に酷い目にあわなくてすむ』って嬉しい方が大きかった」

「殴られるより酷い目?」

 すると杏香が少し身を寄せてきた。口元を手で隠しながら囁くような声で言うには、

「――珂惟ああいう見目だから、女嫌いなスケベ爺には受けるのよ。妓楼がお母さん亡くなったあとも珂惟を置いといたのは、用心棒にするってより、将来その道で稼いでもらおうって思ってたからに決まってるわ。顔にだけは傷が付けられてなかったし。とにかく稼ぎが違うもの」

 かわいい顔をして、どぎつい話をするものである。すでに琅惺は言葉を失っていた。

 それに気づいたか、

「あっごめんなさい。琅惺さん僧籍の方って忘れてつい――こんな話したって珂惟には言わないで。また怒られちゃう。そういえば、おじさんの具合はどうかしら? お見舞いに行きたいんだけど、私なんかが行って話がややこしくなっても困るし……」

「上座? 上座は随分よくなられているよ。でも長安で、上座に会ったことがあるの?」

「ええ何度か。珂惟と京城ここで偶然再会した翌日、わざわざ会いに来てくれたわ。それから、どこかへ説法とかで出掛けたりするといつもお土産を下さるの。さっきの茶店で、偶然隣り合わせたふりしてお話するの。本当に優しくしていただいてるわ」

 そう言って、杏香はそれは柔らかく笑った。

「上座が……知らなかった」

 確かに四六時中一緒にいるわけではないにしても、十年近く側にいて、そんなそぶりにさえ気づかなかった。それは、上座のことだけでなく――。

「ねえ琅惺さん。仏様って、きっといるね」

 杏香の意外な言葉に、思わず横を振り返っていた。杏香は無邪気でも妖艶でもない、穏やかな笑みを浮かべている。

「あれは夕暮れだったわ。偶然南市(洛陽の繁華街)で珂惟に会った帰り、いつもは人がたくさん歩いてる時間なのに、小路には誰もいなかった。『変なの』なんて言いながら、前に伸びる長い影を踏み合ったりしてて――そこに前の角を曲がってきた人がいた。夕日を真面に浴びた顔が、驚きで固まってたわ。走り寄って珂惟の前に跪くと、珂惟の手に巻かれた水晶の数珠を手にとって、『君のお母さんの名前は?』って。珂惟の答えに、おじさんは泣いて『やっと見つけた』って。まるで演戯、ううん、それ以上にびっくりな展開で、夕日の中抱き合う親子の姿に、感激したわ」

 杏香は前を見、滔々と話す。その言葉と表情に、琅惺は杏香から目が離せない。

「二年前、珂惟とここで会った時、私、すごく不安だったの。生き馬の目を抜くという京城に来たばかりで、知り合いは誰も居なくて、父さんも母さんも、本当に良くなるのかしら? 妹たちはちゃんとご飯が食べられているのかしら。そのためにも頑張らないといけないけど、本当に私にやれるのかしら。こんなに離れてるのに、家族に何かあったら私、どうしようって。どうなっちゃうんだろうって。寂しくて辛いのに、笑顔でお酒注いだりお話をしたりしなきゃいけなくて――毎日不安で、寂しくて仕方なかった。死んじゃいたいって、何度も思った。そんな時だった。まるでおじさんが珂惟を見つけた時みたいに、珂惟は私を見つけてくれた――きっと偶然じゃない。誰かが見てる、誰か手を差し伸べてくれる人がいるって、そう思えたの」

「それが仏様?」

「そう。だっておじさんも珂惟も仏教徒じゃない。あと、琅惺さんも」

「私――?」

「だって人は大勢いるのに、今、私と一緒に歩いて話しるのは琅惺さんなんだよ。二年前まで、私はここで一人だった。でも今は、お金なんか関係なく私のことを心配してくれる人が、そして私を心配させる人がいるの。凄いことじゃない。これって仏様のお導きよね」

 ――さっきの……、気のせいじゃない。


『仏性は誰もが備えているのです』


 脳裏を過ったのは、上座が何度も何度も、大衆の前で語った、あの言葉。

「あっ、ごめんなさい。私ったら一人でベラベラと」

「いや。面白かったよ」

「本当に? 私いつも珂惟に莫迦莫迦って言われてるから琅惺さんみたくスゴい人と――

って安定坊だわ」

 楽しげに話していた杏香の表情が一転、引き締まった。

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