第36話「変身」

 本堂の前にいたのは――思った通り杏香きょうかである。

 今日は妓楼で見るよりはいくらか粗末な衣を着ていた。しかし白い肌が、春めいた紅の長裙スカートと橙の上衣によく映えている。そして大きな二重は、変わりなく印象的であった。

 雨安居(寺院内に籠もって修行する四月半ばから三カ月間のこと)で、同じ顔触れでの日常が淡々と過ぎていたこともあって、琅惺ろうせいを連れて来た行者だけでなく、いつしか群がっていた複数の行者らが、何となく色めき立っていた。

 琅惺は彼らの脇を抜け、杏香の前に立つと、

「珂惟は生憎出掛けております。私は琅惺と申します。代わりにお話しを伺いましょう」

 静かに話しかける。すると杏香は神妙な面持ちで合掌し、

「実は私、先日足を挫いて困っているところをこちらの珂惟様とおっしゃる方に助けて頂いた者にございます」


 足を挫いた妓女を助ける仏教徒――どこかで聞いた話だとぼんやり思った。


 話は続く。

「親切に家までお送り下さいましたのに、すぐお帰りになられたので満足にお礼も言えず、本日こうして、参りました次第でございます」

 杏香の手には杖が握られ、足首には白いものが巻き付けられていた。念の入ったことである。

「それはご丁寧にありがとうございます。仏弟子として当然のことをしたまででしょうが、わざわざお越し頂き、珂惟も喜ぶことでしょう。ご訪問、必ずお伝え致します」

 合掌し、厳かに琅惺は言う。そして。

「では門までお送り致しましょう」

 おもむろに振り返った。背後に固まっている行者の群れに一瞥を投げると、一言。


「何か?」


 冷たく言い放たれると、彼らは顔を見合わせ、そそくさとその場を去っていった。

「琅惺さん、こわーい」

 行者が去るのを確認すると、杏香は悪戯っぽい目をして笑った。

「それにしても何で珂惟っていないの? 他の者を呼んで来るって言われた時、琅惺さんじゃなかったらどうしようと思っちゃった」

 琅惺は曖昧に笑うと、

「実は、珂惟は今山籠もりしていて……」

「山籠もり! 何でまたそんな――」

 思わず上がった大声に、杏香は周囲を窺いながら、慌てて口を塞ぐ。

「例の道士に対抗する力をつけたいって言って――で、何か分かったことはある?」

 誰が見ているか分からないので、琅惺は門へと杏香を誘う。杏香は杖に重さをかけながら、足を少し引きずるようにして、ゆっくりと歩いてみせる。

茉莉まり女兄ねえさんの話だと、常連さんは安定坊にある五通観(観は道教の寺院)で頼んだらしいわ。でも珂惟の言う道士と、女兄さんのいう道士が一緒かどうかは分からないんじゃない? 特徴は合ってるみたいだけど、長身で細面で三十くらいの道士なんて、ここには吐いて捨てるほどいるし」

 当時の京城みやこの人口は、百万を下らないと言われていた。

「確かに。それは珂惟の動物的な勘だからなあ」

 冗談のような台詞を、琅惺は真顔で呟いた。困惑したように腕を組み、天を仰ぐ。

 聖なる空間の入り口である中門を出、二人は南大門(寺の正門)に向かう。門に続く石磚の両脇に沿って松樹が植えられ、参道は鬱蒼としていた。尖った葉群から覗く空に、薄い雲が流れて行く。

「――待てよ」

 ふと、琅惺が眉を寄せた。

「え、どしたの?」

 杏香の問いかけにも、思案顔である。

「そっか、そうだな……」

 杏香はその様子を黙って窺っている。

 やがて門前へと辿り着いた。すると、琅惺は俄に杏香を振り向き、

「一つ、お願いがあるんだけど」

 意を決したように口を開いた。




 翌日。

「では寺主、行って参ります」

「おお、頼むの」

 本堂の前、包みを手に笠を背負った琅惺は、自分より幾らか低い寺主の胸前まで、深々と頭を下げた。

「して、どうじゃ? 上座の様子は」

「はい、随分よろしくなったように見受けられます。薬を貰いに行くのも、これで最後になるやもしれません」

「そうか、お主がよく看病したお陰であろう。ご苦労だったな」

「我が和上ゆえ」

 寺主の労いの言葉を、琅惺は伏し目がちに受けた。

 本来、出家者は雨安居を寺内で過ごすものであるが、琅惺は特に外に出ることを許された。とはいえ、何かと忙しくここに来ることがままならない医師のもとに、上座の薬を貰いに行くというだけのことなのだが。

 寺主は琅惺の肩を叩くと、

「お主も最近は色々と根を詰めているようだから、疲れたであろう、少し街を歩いてくるとよい。喧嘩相手がいなくて寂しかろうし」

「そんな、私と珂惟は――」

 言いかけて琅惺は口を噤む。そして一瞬後、顔を引き締めると、

「では、お言葉に甘えさせて頂きます」

 そう言ってまた深々と頭を下げた。



 昼下がりの西市は、役所帰りの下級官吏も姿を見せ始め、人でごった返していた。飲食店が並ぶ小路は特に混み合っていて、皆肩をこすり合わせるように歩いている。

 肉の焼ける匂い、醤の焦げた香りに交じって油くささが漂い、時に窓から吐き出されるのは、蒸し上がった饅頭の熱気。誘われるまま人々は軒先の色鮮やかな旗を横切り中に吸い込まれて行く。そこから吐き出されるのは、様々な人の声、流れる琵琶に、揺蕩う胡歌。

 琅惺はそんな中笠を深く被り、包みを胸にしっかりと抱いて、人波の外れを俯きがちに歩いていた。

 

 そして――。


 辺りに目を配りながら、琅惺は素早くある小路に入った。

 人気がないのを確認しながら、どんどん奥に進む。人がやっと通れるほどのこの小路は、家や店の裏手になる。足を踏み入れたばかりの時は、間もなく死期を迎えるだろう鳥獣がけたたましく鳴き、薄汚れた子供が口に入れるものを求めてうろついていたが、奥へと向かうほど声は失せ、建物は小さく、粗末になっていく。それにつれ表の賑々しさが嘘のように、生活感が感じられなくなっていった。

 徐に、琅惺は立ち止まった。そして周囲を改めて見渡すと、今にも倒れそうな一軒の粗家に入り込んだ。


 やがて――。


 琅惺が再び姿を現した時、纏っていた衣の色と形が変わっていた。

 深く被った笠の下から慎重に辺りを見渡すと、足を早め、再び賑わう小路を目指す。

 小路が井型に市内を分けるこの西市、外れの茶店の軒先で、辺りを見回している杏香は、近づいてくる姿に驚きも露に立ち上がった。

「うわー似合う似合う。女物のかつらを結い上げたからうまく行くか心配だったけど、バッチリだわ! 琅惺さん、普通の人みたいだよ」

 急ぎ駆け寄り、幾分小声で、だが弾んだ声でそう、琅惺を見上げた。

 かく言う杏香は格好こそ昨日と変わらないが、今日は薄く化粧を刷いていて、明るい日差しの中、輝くような笑顔を見せる。

「あ、ありがと」

 ぶっきらぼうに目線を逸らす琅惺は俗衣を着、深めに被った笠の項と額には黒い髪が覗いていた。珂惟が持っていた衣を密かに引っ張り出し、杏香に鬘を誂えてもらって可能になった格好である。勿論ここまで本格的に俗人になってしまっては、バレたらただでは済まされないだろうが。

「鬘は丁度いいし、直しを入れて貰わなくてもいいみたいだから――今日は本当にありがとう。無理を言って」

 と、その場を離れようとした時、

「えっ、私も行くわよ」

 杏香の言葉に、足が止まった。

「だって一応、琅惺さんだってその道士に会ってるんでしょ? バレたらマズイわけじゃない。でもまさか僧侶が一般人の格好をして、しかも女連れで道観に来るとは誰も思わないだろうから、私も一緒に行くわ」

「駄目だよ、そんな危ないところに連れて行くわけにはいかない。もし何かあったりしたら、私は珂惟に申し訳が立たない」

 真顔の琅惺に、杏香は笑って

「そんなことナイナイ。だいたいあいつだったら『仕方ねえから連れてってやるよ』って嫌でも目くらましに連れてくわよ。大丈夫、まだ昼間だから人一杯いるし、一般参拝者の顔して堂々と入ればいいのよ、行きましょ」

 そう言うと琅惺の袖を引き、歩き始めた。

 琅惺はそれに引きずられながら、

 ――それは護る自信があるからだよ。

 そんな思いがチクリと胸を刺す。だが、


 ――何があっても、この彼女を護らないと。


 そう思い直し自らの意志で歩を踏み出した。


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