巻の四「襲撃」

第27話「灌仏祭」

 翌日。


 日差し暖かな寺の境内には、平素とは較べようがないほどに人が溢れている。

 釈迦の生誕を祝い、その像に甘茶を注ぐという仏事を記念し、上座の講義が予定されていた。本来なら講堂で行われるのだが、予想外の人出と、見事な晴天ということで、急遽外での説法と相成った。

 と、いうことで珂惟かいら行者は勿論、沙弥も、比丘さえも大忙しである。

「こちらから順番にお並び下さい」

 絶え間無い人の波を、どうにか整理しようとあちこちで走り回る行者。

「こちらは一般の方は入れません。あちらからお回り下さい」

「いつ始まるの?」

「もう少しです」

 人波に揉まれて、いい加減、珂惟もうんざりしていた。それは周りも同様らしく皆、顔に疲れの色が濃くなっている。

 それでもやがて、境内に散在していた人々が一所に集まり始めた。


 そして。


 鐘の音が立て続けに鳴ると、ざわついていた場内が俄に静まった。程なく如意(竹で作った平たい棒)を手にした上座が数人を従え姿を現す。その中には琅惺ろうせいの姿もあった。

 上座は一人、集団から抜けると、高座に見立てられた本堂の石壇に上った。

「『大般涅槃経』」

 司会者が今日の講義で扱われる経典の名を告げる。『涅槃経』は釈尊入滅前の最終説法を扱ったもので、釈尊の教えの集大成とも言われるべき濃い内容が、簡単な文で物語風に書かれ分かりやすいことから、初心者の学習によく用いられる経典である。

 集まった人々は前に立つ上座に釘付けである。ようやく落ち着いた一時を取り戻し、珂惟はほっと一息つく。

 講義が始まった。珂惟は他の行者らと聴衆の背後で様子を窺いながら、それを聞いた。

 今日の灌仏祭は仏寺のどこでも行われている。中には園民(寺の雑用で生計を立てる者)を含め数千人を擁し、広大な境内を持つ名高い大寺もあることを考えれば、全てで五十余りしか居ない小寺の、この盛況ぶりは意外なことである。そして聴衆には、やけに女性の姿が目立つ。

 ――ま、俺に似て色男だからな。

 と思いつつ珂惟は講義に耳を傾けていた。上座は非常ににこやかに語っている。

「『涅槃経』といえば、非常に有名な一句がございます。『一切衆生悉く仏性有り』というのがそれです。『仏性』とはなかなか聞き馴れない言葉ですが、今日は是非この一句とその意味を覚えてお帰り頂きたく存じます」

 しかも声がよく通っている。姿といい、非常に元気そうである。だが結局まともに話ができないまま今日を迎えてしまった。本当に、今日で上座を下りるというんだろうか――。

 珂惟は上座の足元の集団から琅惺を探す。その姿はすぐに見つかった。一際輝いた目をして、一心に上座を見上げている。何度も聞いた説法であるはずなのに、それは熱心に聞き入っている。

 思わず小さなため息が漏れた。

 ――全ては、この説法が終わってからか。

「――仏となり得る性質である仏性は、誰しもが備えているのです。しかしそれは数多ある煩悩に埋もれています」

「煩悩ねえ……」

 思わず呟く。

「――戒を心に留め、日々の生活を……」

「うわっ、イタイお言葉」

 思わず俯いて、珂惟は頭を抱え込んだ。


 その時。


「キャーッ!」

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