第26話「父」

 そして――牡丹の時期が終わり、妙に浮かれた京城みやこの街に普段の賑わいが帰って来た。


 見事に咲いていた大覚寺の白牡丹も、殆ど散ってしまっている。

 だが街が落ち着くほど、寺内は慌ただしくなっていく。灌仏祭かんぶつさい――釈迦生誕祭――が近くなったからである。

 珂惟かい行者ぎょうじゃでさえ、こなさねばならない準備が数多ある毎日である。まして沙弥しゃみ比丘びくは勿論、上座かみざは殊に忙しい。寺の内外、あちこちを行き来していて、所在さえつかめなかった。

 自身にも多くの仕事が課せられている今、行者でしかない珂惟は、上座と口を聞くことは愚か、姿を見かけることさえできない。


 だが。

 ――ああ見えて年だからな、明日を前にもうヘバってたりして。

 本堂脇の槐の葉陰、石壇上、連枝窓からそっと中を覗くと、上座が本尊である阿弥陀如来像に手を合わせていた。あの数珠を手に。

 今日は四月七日、母の祥月命日である。

 この日ばかりは、どんなに多忙であろうとも、たとえ僅かな時間であっても、上座は必ずここに来て手を合わせる。日が日なだけに、祭の無事を祈願していると解釈されているようで、この行為を咎める者も、止める者もいなかった。

 一心に祈る横顔は、少し疲労の色が滲むが穏やかなもの。変わらない、と思う。



 ――あの日。


 東都から、誘われるままここに来た。奇跡の対面に感激した訳でなく、ただ寺なら衣食住に困る事なく、平穏に暮らせると思った。それだけだった。

 だのにこの本堂、居並ぶ如来や菩薩の前で、母が臨終間際告げたのと同じ名を持ったあの人は、三月みつき一緒にいなかったくせに、その何十倍も一緒だったこの俺に、母さんのことを語り出した。同じ話しかできないくせに。

 そして俺に母の面影を見、笑いながら涙し、言うのだ。「それは綺麗な人だったよ」と。

 それを見てるうち、無感動な心から、沸々と沸き上がるものがあった。


 ――ムカつく。


 綺麗、綺麗って、母さんの何を知ってそう言ってる? 深窓の令嬢と恋に落ちたとでも思ってんのか。母さんの暮らしもその後も何一つ知りもしないで――坊主なんて、庶民が払った税で生かされてる分際で、世の艱難を知りもしないで偉そうに説教する輩のくせに。食うも着るも住むも困らない恵まれた生活の中で、勝手に作り上げた妄想に浸って涙して、ただの莫迦だ。莫迦の夢物語の振り回されて、苦しんでる人間がいるってことになんか、思い及ばせることもない。

 だから腹立ちまぎれに言ってやった。


「母さん、妓女だったんだけど」


 言ってから、追い出されるかもってことに気づいた。でも別にそれでもいい――そう思ったのに。

 呆気にとられたような表情は、ほんの一瞬。

「本当に、綺麗な人だったよ」

 再び渡った笑みは柔和――その目が語った。「だから何だ」と。もしくは、「知っていた」だったかもしれない。

 ――父さんはとても立派な方だったのよ。私なんかにも、それは優しくして下さって……。

 口癖を聞かされる度「騙されただけだ」と言いそうになる口を何度噛みしめたか――。

 愚かで哀れにしか思えなかった。

 母さんも、そして自分も。俺さえ生まなければ、あんなに体を悪くしなかっただろうに。もっと――他の生き方があったかもしれないのに。俺が居るばかりに。俺さえ居なければ――俺の存在は、偽りで誤りで邪魔でしかなかったと、ずっと思い続けてきた。 

 だけど。

 ここで、俺を抱く上座の顔が押し付けられた肩口に、温かい滴が染みてきた時初めて、嘘ではなかったのかもしれない……そう思った。母さんは、騙されてなんかいなかったのかもしれない。

 そしてずっと忘れていた、珂惟おれがいるから生きていける――そう言った母さんの優しい笑顔が蘇ってきて――。

「人生最大の不覚だった」

 苦々しく呟く。

 もう六年経つ今になっても、上座はその時の事を語るんだから、たまったもんじゃない。

 ――全く何であんなに脆弱だったかな。

 と心中で十一だった自分を呪ったその時。


 突き刺さる強い視線に、意識が戻った。


 振り返る。石壇の下、見上げていたのは、誰あろう琅惺ろうせいであった。向けてくる眼差しは、初めて会った時のそれと、何ら変わらない。

「琅惺――」

 呼びかけた声は、にわかに返された身に、冷たく拒絶された。

 あの日以来、言葉一つ交わしてはいない。どこかで会っても、あの日が嘘のように素っ気ない態度で、とりつくしまもなかった。

 ――どうなる。

 遠ざかって行く後ろ姿――灌仏祭は、明日である。

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