巻の二「両の花」
第6話「春華楼」-
歓声・嬌声、笛声・歌声、様々な音が入り交じるこの一室には、ゆるやかな胡琴の音がたゆたっていた。
燭火が仄明るく照らす室内には、紫檀の調度品がさりげなく配されている。そんな中、紅綾に金の刺繍が目映い豪奢な衣を身に纏い、きっちり結い上げた髪には金釵が輝く女が目を伏せ、琵琶を弾いている。細く長い指先だけでなく、あらわになった両肩も、仄かな光の中でも、輝くばかりの白さだ。ゆるく開いた厚めの唇は赤く艷やかで、見る者の目を奪わずにはいられない。彼女の全身から漂う優美な雰囲気が、室内全体にも満ち満ちていた。
その奥には寝室。薄絹の帳に覆われた
男は燭火の下、広げた紙面に目を落としていた。
「失礼致します」
軽やかな声。
突如音を大きくした喧騒が、女の居る間の扉が開けられたことを示している。しかし女は琵琶を弾く手を止めることなく、僅かに小首を傾げて笑顔で、自分の背後をすり抜ける少女を見送った。
茶碗をのせた盆を手に歩く少女は、長い髪を左右の耳脇で団子状に結い上げていた。衣は琵琶を弾く女とは比べ物にならないほど質素だ。刺繍は少しも施されておらず、袖口は狭く裙子の裾は短く実動重視。しかし薄く化粧を刷いた面は、その大きな瞳と同じく輝いている。歩調、口調にも現れる快活な美しさは、街を歩けばちょっと目を引くに違いない。
少女は、彼女の気配に振り向くことない男の隣に座り、お盆をとん、と床に置く。
「はいお茶」
そして親しげに、男に茶碗を差し出した。片手で。
「ん」
対する男は、相も変わらず紙面に目を落としたまま、茶を受け取り、そのまま口に運ぶ。一口。とたんに男は顔を上げ、
「おい
注がれた茶が零れそうな勢いで茶碗を少女に突き返す。
すると少女はにっこりと笑い、
「追加のご注文ですね、お客様。ありがとうございます。では早速……」
「ちょっと待て。いや、これでいい。よく味わってみたらうまい。本当に美味だ」
腰を上げかけた少女を、男は慌てて止めた。燭火の朧な明かりに映し出される姿は、どこにでもいそうな庶民的な風体。結い上げた髪を覆う布といい、上衣と褲子の取り合せといい、素材は安くはないがすこぶる上質というわけでもない。小金持ちのドラ息子といったところか。しかし。
「もう、
「お前、誰のせいだと思って……」
「えっ?」
「いや、何でもない。そうそう、そうだ、何だよこれ」
突然声を改めた男――珂惟なわけだが――が、そう言って手にしていた紙を軽く叩いた。
「これだよ、この、依頼の話! 何なんだこのシミったれた話は。安い話ばっかりじゃねえか。もっと景気いい話はねえのかよ。というか、最近依頼減ってねえ?」
その言葉に、二重の大きな目が印象的な少女――
「何言ってるの。依頼が減ったってことは世の中が平和になったってことでしょ、ありがたいことだわ。だいたい、坊主が悪鬼祓いでお金を稼ごうなんて、それが大きな間違いなのよ。危ない目に遭わないうち、いい加減足を洗ってお経でも読んでなさい」
尖った赤い唇からは、容姿のかわいらしさに反し、しっかりとした声が早口に飛び出してくる。珂惟はそんな杏香を睨み返すと、
「全く口うるさいヤツだな。いくつになっても変わりゃしない。だいたいここに上がる銭はどうやって手に入れてると思ってんだよ。経なんか読んだって、一文にもならねえよ」
「あーらごめんなさい、売れっ妓だから高くついちゃって」
「お前はただの見習いだろうが。売れっ妓なのは
珂惟はそう言って、前間で琵琶を弾きながら笑顔を向けている女――名を茉莉と言う――に目を向けた。彼女は、下がった目尻を更に下げ、細い奥二重を更に細めて微笑する。顔立ちは、目鼻立ちが大きくくっきりした杏香とは正反対に小さめで、どこか寂しげな印象を受ける。しかしその儚げな風情と、それに反したふっくりとした赤い唇が色っぽいのだと評判だ。自ら前に出ることのない控えめさと、詩歌管弦に通じる高い教養で、士大夫の客も多い。この妓楼で一・二を争う売れっ妓だ。
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