第3話 胸骨正中切開

 しばらくすると、医者が戻ってきて、何かを指示した。どうやら脳死判定を告げて、家族の同意が得られたらしい。メチルプレなんとかという薬が投与された。

 それからまた、数時間の間があった。

 おれは、眠くもならないし、どこにも行けないので、ずっと自分の死について考えていた。

 実際、おれが完全に死んだら、どうなるのだろう。この体とつながっている糸が切れ、自由にどこへでも行けるようになるのだろうか。それならそれでおもしろそうだ。

 あるいは、「この世」ではないどこかへ連れていかれるのだろうか。それもありそうだ。そもそも、死んでもこのまま「この世」に居続けられるのなら、世界は死者であふれかえってしまう。無神論者の友人が、よくそんなことを言っていた。

 もちろん、完全に死んだ瞬間、今のこのおれの意識も、煙のように消え去ってしまう可能性もある。それはそれで仕方がない。それもなんだか後腐れがなくてよいという気もする。

 ともかく、考えてみても死んだ後のことはわからない。おれはあまり何かを深く考え込むタイプじゃないから、ここでもまじめに考えるのは早々に放棄して、もし「糸」が切れて自由に動けるようになったら、どこへ忍び込んでやろうかを考えて、一人でクスクス笑ったりしていた。

 そうしているうちに、手術の準備が整ったらしい。おれはフェンタニルとかベクロニウムだとかいう麻酔を注射され、手術室に運ばれた。死体に麻酔をかけるってのも変な話だと思ったが、脳から下はまだ生きているので、そういうものなんだろう。

 メスを握るのは、例の中年の医者だ。またさっきの若手が助手についている。

「胸骨正中切開を行い、心臓の視診・触診ののち、周辺の剥離および心臓摘出を行う。心拍には常に十分注意するように。では術式を開始する」

 看護婦がオーディオのスイッチを入れ、賛美歌が流れ始めた。テレビで見た通りだ。

 医者の動きは、迷いがなく、早い。慎重ではあるものの、そのメスさばきからは、素人目に見ても自信を感じる。経験の豊富な医者なんだろう。おれとしては、たとえ手術が失敗しても失うものはないのだけれど、せっかくだから移植が成功して、提供先の少年には元気になってほしいと思う。

「スターナル・ソウを」

 骨が露出してから、医者が電動のこぎりみたいなものを手に取った。さすがにこれにはちょっと驚いた。どうやら肋骨がつながっている中心の骨(胸骨)を縦に切り、左右に胸を開くらしい。つい「やめてくれ!」と叫びそうになった。

「胸骨を切開する。血圧上昇とともにフェンタニル投与」

 とはいえ、医者の手つきはごく丁寧で、死体を扱っているとは思えないほどの配慮が感じられた。たとえこの埋葬するだけの肉体であっても、できる限り傷つけずにしたいという気持ちが伝わってくる。

 医者の手並みはさすがのもので、それほどの時間もかからず、おれの胸の骨はきれいに半分に切り分けられた。肺が露出して、その下で心臓がドクンドクンと脈打っているのが見える。

「脈拍は?」

 医者が助手に問いかける。

「安定しています」

「よし、心臓触診を開始する」

 医者がおれの胸に手を突っ込み、心臓を触る。なんだか不思議な気持ちだ。医者は、おれの心臓に変なところはないか、くまなく触って確かめている。

「状態は良好。周辺組織を剥離する」

 おれの心臓が、その姿をはっきりと現してきた。

「ヘパリン20,000u」

 医者が指示する。何かの薬品が注射される。

「冠灌流カテーテル」

 また何かの管が出てきた。医者は、ひと際緊張の面持ちで、ついにメスを心臓から出る動脈に入れる。わずかに動脈が切り開かれ、そこからするりとカテーテルが挿入される。

「先生、脈拍が変動!」

「……いくつだ?」

「60bpmを下回りました。徐脈です!」

 周囲に緊張が走る。徐脈ってのは何のことか、詳しくはわからないが、どうもおれの脈拍が下がってるらしい。

 途端に、おれの意識がぼんやりとしてきた。なんだか息苦しいような感じがする。首を絞められているみたいな感覚だ。

「ドパミン600u投与」

 何かの薬剤が投与されたものの、数字は下がり続けている。

 急に、死が現実味を帯び始めてきた。

 おれは、近くの看護師に縋りつこうとしたが、体がするりとすり抜けてしまう。

「脈拍戻りません、ドパミン無効です!」

 なんでもいい、助けてくれ!

「イソプロテレノール投与」

 苦しい! 窒息してしまう!

「ダメです! 脈拍下がり続けています!」

 医者の額に汗がにじんでいる。早く、早く空気を!

「……アトロピン0.5mg」

「アトロピン……ですか?」

 助手が唖然とした顔をして聞く。医者は断固として言う。

「アトロピンだ」

 また別の種類の薬が投与される。その瞬間から、ゆっくりとおれの息苦しさは緩やかになり、気分が落ち着いてきた。

「脈拍回復しています……65bpmです」

 全員が、ほっと息をついた。

 しかし、いちばんほっとしたのはおれだ。交通事故のあとに病院で窒息死なんて、シャレにもならない。

「……摘出を再開しよう」

 医者が言う。それを、若手の助手が押しとどめた。

「まってください、先生」

 医者が手を止め、助手の顔を見る。

「先生、アトロピンは、副交感神経の作用を抑制する薬です。この薬が作用するのは、延髄です」

「ああ、その通りだ」

 助手は興奮した面持ちで言う。

「アトロピンが有効ということは、延髄が生きているということですよ、先生! これは脳死ではありません!」

「しかし……心臓のドナーを待っている患者がいる」

 医者が絞り出すように言ったその言葉で、全員が押し黙った。

「君たちも、脳死判定の結果を見ただろう。たとえ延髄が機能のいくばくかを回復していたとしても、彼の脳機能全体が回復する可能性は皆無に近い。ここで摘出をやめれば、もう心臓移植は不可能だ。次のドナーが見つかるまで、あの子の体はもつのか?」

 BGMの曲が切り替わり、おれの好きな讃美歌が流れた。


Bergers, pour qui cette fête?(羊飼いよ、あなたたちの喜びは誰のためでしょう?)

Quel est l’objet de tous ces chants?(この歌はなんのために歌われるのでしょう?)

Quel vainqueur, quelle conquête(いかなる勝者が、いかなる征服が)

mérite ces cris triomphants?(あの凱歌にふさわしいのでしょうか?)

Gloria in excelsis Deo(いと高き処、神に栄光あれ)


 助手が、ゆっくりと、諭すように言う。

「先生、明日はあの子の誕生日ですね」

「ああ、そうだ」

「誕生日のプレゼントは、誠実なものであるべきではないでしょうか? 誰かから奪ってきたようなものでは、いけないのではないでしょうか? 僕は、そう思います」

 再び、沈黙が訪れた。

「……たしかに、その通りかもしれないな」

 医者が、張り詰めていた糸が切れたように、大きな息を吐いて言った。

「誰が生きて、誰が死ぬのか。それはいつなのか。私が決めるべきことではなかった。ありがとう。私は大きな間違いを犯すところだった。摘出手術は中止だ。急いで胸を閉じ、彼の回復のために、最大限の努力をしよう」

 医者がそう言うと、周囲に安堵の空気が広がった。正直、おれもこのまま手術を続けられるのには恐怖を感じていたから、その決定に感謝した。

 来た道を戻るように、おれの心臓はもとにもどされ、縫合され、骨が接がれ、開かれた胸は再び閉じられた。

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