風船インビジブル
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第1話 風船みたいになっちゃった
おれは死んだのかもしれない。
いや、正確に言えば、たぶん死につつある。
というのも、恐ろしいことに、今、おれは自分の体を上から見下ろしているからだ。
ここはおれが運び込まれた病院の、たしか
こういうのをたぶん、幽体離脱とかいうんだろう。同じような感覚を、幼稚園のころに体験したことがあった。
あれはおれが3歳くらいのころだ。園庭で遊びに夢中になっていたおれは、気づけばひとり外に取り残されていた。滑り台の頂上で、はたと我に返ったおれは、あまりにも急いで園舎へ戻ろうとして、滑り台の頂上からそのまま砂場に飛び降りた。
幼稚園の滑り台ってのは、高さ2mくらいはあるんだろうか? ともかくその高さから飛び降りたおれは、運悪く着地に失敗し、ケツと頭を激しく地面に打ちつけた。
瞬間、おれの意識はふわりと宙に浮きあがり、滑り台よりもやや上のあたりから、砂場で倒れているおれを見下ろしていた。
それからどうなったかはよく覚えていない。ただまあ、こうして無事育ってきたんだから、そのときはどうにか助かったんだろう。
いずれにせよ、今のおれは、お世辞にも無事とはいえない。
こうなった理由は、あまりはっきりと思い出せない。たしかショッピングモールでいきなり爆発に巻き込まれたんだと思う。ひでえ話だ。ともかく、おれは爆発の衝撃でふっ飛ばされて頭を強く打ち、気づいたらこうなってたってわけだ。
少し怖いのは、ICUの外で話している医者の声が、はっきりと俺に聞こえることだ。おれはふわふわ浮きながら、漂うようにして、ICUの外に出た。
ひどく痩せた、優しげな中年の医者が、おれのおふくろと親父に向かって話している。おふくろはもう何時間も泣いていたのだろう、目のまわりが真っ赤になっている。
「息子さんは今、恐らく『脳死』と言われる状態にあります」
脳死? 脳死だから、おれはこの中途半端な状態で宙づりになってるわけか?
「まだ確定したわけではありません。息子さんは病院到着時すでに心肺停止状態にあったため、我々は心肺蘇生ののち、脳保護のため低体温治療を行い、脳の保護に努めました。脳の壊死が進行するのを防ぐための措置です」
それから医者は、おれの頭部の損傷について解説した。後頭部を強く打って、頭蓋骨が陥没している上、飛んできた爆弾の破片が刺さって脳にまで達していたらしい。おふくろと親父はもう何回も聞いている説明のようで、うんうんうなずきながら聞いている。しかし、おれから見ても、こりゃまず助からないだろうって感じのやられ具合だ。頭を金属バットでフルスイングしてから、念のためナイフも刺しといたって感じ。もし息を吹き返しても、けっこうヤバイ後遺症が残るんじゃないだろうか。
「脳死となった場合、残念ながら、息子さんが助かる見込みはありません。脳死とは、いわゆる植物状態とは異なり、肉体の他の臓器は健全でも、脳がその機能を完全に喪失してしまっている状態です。この状態では、たとえ生命維持に努めたとしても、心臓も数日以内にほぼ活動を停止してしまいます」
それを聞いて、おふくろが泣き崩れる。親父がそれを抱きとめる。親父の目からも、涙が流れていた。
「申し訳ありません。あまりに直接的な言い方だったかもしれません。ただ、これには理由があるのです。息子さんは、尊敬すべきことに、ドナーカードに臓器提供の意思表示を記入していました。そして現在、この病院には一人の臓器移植待ちの患者がいます。12歳の男の子です。心臓の移植待ちで、一刻も早く移植手術を行わなければ、命が危ういのです」
親父が顔を上げて、茫然としながら聞き返す。
「あ、あの、それはつまり?」
「つまり、息子さんの心臓移植に、同意をいただきたいのです」
親父がゴクリと唾をのみ込む音が聞こえたような気がした。つまり、下に見えるおれの体から、心臓を取り出してやろうってわけだ。ぞっとしない話だ。
「もちろん、ご家族の同意がなければ、臓器移植は認められません。その場合、脳死判定は行わず、このままできる限りの延命措置を続けることも可能です」
親父が目をつぶって首を振る。おふくろが顔を上げて、医者にこう聞いた。
「もし、もし同意したら?」
「もし、ご同意いただけるなら」
医者は、そこで言葉を切って、勇気を振り絞るようにして次の言葉をつないだ。
「もしご同意いただけるなら、低体温治療で下げた体温をもとに戻し、脳死判定を行います。そこで脳死が確定すれば、直ちに心臓の摘出手術に移ります。勇気の要る決断ですが、心臓がその機能を失ってからでは、移植は行えません……。一刻を争うため、このようなご説明になってしまったこと……お詫びいたします」
おふくろと親父は、顔を見合わせて困惑している。
しかし、医者の言葉には真摯な悲痛さがこもっていて、この男が誠実な人間だってことが伝わってきた。おれはなんとなく、臓器を提供してやってもいいような気がしてきた。
おそらく、この医者の言っていることは本当だろう。おれに助かる見込みはないわけだ。それなら、おれの心臓を子どもにくれてやったほうがいい。いきなり爆発に巻き込まれて死んだなんて理不尽な死に方でも、それなら多少はもとが取れるってもんだ。
「……あなた、私ね、あの子が『そうしたい』って言ってるような気がするの」
おふくろが言う。
「お前……それはあんまりにも、つらくはないかい?」
親父がおふくろを気遣うように言う。
「あの子が爆発に巻き込まれたって知らせを聞いてから、今までずっと、つらかった。正直、助からないだろうって思ってた。だからね、覚悟はできていたの。でも、あの子の一部でも、生き残って誰かの役に立つなら、それがいちばんなんじゃないかしら?」
さすがおれのおふくろだ。ちょっと怖い気もするが、二人が納得してくれるなら、それがいちばんいい。
「わかったよ。お前がそう思うんなら、それがいいだろう。……先生、お願いします。息子のやつを、役立ててやってください」
親父はそう言いながら、ぽろぽろ涙をこぼした。
「ありがとうございます……!」
医者が親父の手を握り、深々と頭を下げた。
医者にこんなに感謝されることなんて、一生に一度あるかないかだ。事故に遭ったのは不幸だったが、即死しなかったのは、そういう意味じゃラッキーだったのかもしれない。
おれは気楽に手術を待つことにした。
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