第2話 エイリアスの少女
ヴァンダル王国は、ユーラシア大陸の西に位置する大国である。周りの小国を庇護下に押さえ。東の大国である宋国と肩をなら並べる規模だ。そのヴァンダル王国の王フネリックは、賢王と噂されていた。
民の生活を大事にする善政をひき、国民からの信頼も厚く、他国の王からもとても頼りにされている。そんな国王だからこそ、争いの火種になるからと子供を一人しか儲けなかった。それゆえに王子トラサムントは、大切に育てられたのだ。最高の教育を施し、最高の人格者を求められたトラサムントは、周囲の期待に応えるようにその才能を伸ばしていった。
トラサムント18歳。あの少女との出会いから8年の歳月が過ぎ去っていた。トラサムントは、城の中にある一つの部屋の前で少し緊張した面持ちで立っている。部屋の扉を前にして、トラサムントは、右手でコンコンっと、ノックした。
「エリス!? 居るのかい?」
そう声を掛けて、トラサムントは、扉を開いて部屋の中に足を踏み入れる。部屋の中を見渡して、トラサムントは、相変わらずな部屋の惨状にため息をついた。それもそのはず。トラサムントが踏み入れた部屋は、読み終えた多く本が無造作に山積みになっていたからだ。一つの本の山ではなく、そんな山のような本のタワーが無数に存在している。
トラサムントは、そんな本のタワーの間を縫うようにして、奥へと進んで行く。部屋の奥にあるベットの上でうつ伏せになっている少女の姿を見つけると、トラサムントは、再びため息を吐く。
そして呟くのである。
「残念だよ。ああ、とても残念だ」
そんなトラサムントの声に反応した様子で少女は、うつ伏せのまま頭だけを動かして、後ろに顔を向ける。それも、手元にある袋に入ったスコーンを口いっぱいに入れて、大きく膨れ上がった頬のまま、少女は、やってきたトラサムントを凝視した。
そう、この少女こそ8年前、トラサムントが出会った人物である。トラサムントに「エリス」っと呼ばれ、8年も城の中で過ごしていた。そして、トラサムントは、この少女を見るたびに思うのである。「大人しく、黙っていれば美人なのに」っと。
エリスは、口の中にあるスコーンをゴクリと飲み込むと、トラサムントに向かって、手元に在った分厚い本を投げつけた。
「やめてよね。あんたの口から、『残念、残念』って言葉を聴くたびに気分が悪くなるのよ!!」
トラサムントは、飛んできた本をヒラリと避けると、そのままエリスの居るベットに近づいてきた。
「すまないね。時々、心の声が漏れてしまうんだ」
トラサムントがそう言うとエリスは、恨めしそうに睨み付けた。
「それで、何の用なのよ?」
エリスは、ベットの上で胡坐をかきトラサムントに向き直ってそう言った。
「うむ、今日は、特別な日なんだよ。天気も良い。出かけるには、最高の日だとは、思わないかい? そこで提案があるんだ」
「提案?」
エリスがそう聞き返すとトラサムントは、ニッコリ微笑んだ。
「デートに行こう!!」
トラサムントのそこ言葉にエリスは、みるみる顔を真っ赤にさせると、手元にあった本を二、三冊投げつけた。
「い・や・よ!! 行くわけないでしょ!!」
トラサムントは、飛んできた本を華麗にかわす。
「うむ。またフラレたか。また、別の日に誘いに来るよ」
そんな言葉を残して、去っていこうとするトラサムントの背中に向かって、エリスは、叫ぶ。
「もう、二度と来るな!!」
それでも、エリスは、解かっていたのだ。トラサムントがまた諦めもせずにやって来る事を。実のところ、エリスは、この8年間の間、一度も城から出た事が無かった。エリスは、外に出る事が怖かったのである。城の中をうろつくだけでも、周りの人間に奇異な目で見られるのに、外に出たら、より多くの人間の視線に晒される事が恐ろしかったのだ。エリスは、自分が周りの人間とは、違う事をよく理解していた。ヴァンダル王国の人間は、肌の色が浅黒く、瞳の色は、ブラウンであった。それに比べて、エリスの肌は、白く、青い瞳をしている。ブロンドの髪の色といい、ヴァンダル王国では、その姿は、とても目立ってしまうのである。その事をトラサムントが知ってか、知らないでか、ここの所、毎日のようにエリスを外へと連れ出そうと部屋にやって来る。エリスは、近くにあった大きめの白い枕をギュッと抱きしめた。
「トラサムントの馬鹿……」
城の中にグンデリクの研究施設がある。国王フネリックからの許可を与えられたその研究施設は、大規模なものになりつつあった。それは、グンデリクの研究が国の国益に繋がるとフネリック王が判断したからだ。古代シュメールの文明の遺跡から発掘される物は、どれも現在の技術を超えたオーパーツ的な物ばかりだった。その発掘品の使用法が一つ解明されるだけで、国民の生活や国家の在り方がガラリと変化してしまう程の影響力があった。
研究施設の一室で、エリスは、グンデリクと一緒に翻訳作業を手伝っていた。シュメール文字の翻訳をグンデリクに頼まれて、エリスは、報酬を頂く条件で引き受けている。エリスは、グンデリクの隣の席でぐてーっと、うな垂れる様子で机に上半身を預けた。
「グンデリクーっ……」
少し甘えた声で、エリスが呼ぶと、グンデリクは、怪訝な表情で顔を向けた。
「なんだね?」
グンデリクがそう聞くと、エリスは、ニッコリと笑みを浮かべて、
「飽きた!!」
と、言い切った。
「まだ、始めて5分も経ってないぞ」
まるでやる気の見えないエリスの態度にグンデリクは、やれやれとため息を吐く。
「だって、もうこんな作業半年も続けてるのよ」
「わしは、もう歳じゃ。目も見えにくい。シュメール文字の翻訳は、出来るだけ残しておきたいのじゃよ」
グンデリクが嗜めるように言うとエリスは、頬を膨らませた。
「それにじゃな。お前さんほど、完璧に近い形で翻訳できる者など居ない」
「でも、どうして、私がシュメール文字なんて、理解できるんだろう」
エリスは、その事がとても不思議に思えてならなかった。エリスは、8年前にトラサムントと出会う以前の記憶が無かった。自分の記憶の事であれこれと悩んだ時期があったが、今は、別の意味でそれが不思議に思えてきたのである。
「エリス、わしはな。以前のお前の記憶が確かに存在したと思っておるよ」
「どうして?」
「シュメール文字の事もそうじゃが。人間は、異国の文化や文明を知るには、時間がかかるんじゃよ。それなのにお前は、それを通り超えて言語を理解し、この国の文化と文明を理解した。そして、その知識は、もはや学者レベルだ。これは、元の記憶に根本的な概念を理解する知識を持っていたからだ」
「つまり、この国の文明を理解した私は、私が忘れている記憶が確かに存在すると言う事ね?」
「ああ、そう言う事じゃ。急がなくてもいずれ、思い出す日が来るじゃろう」
グンデリクがそう言うと、エリスは、両目を瞑って少し考え込んだ。
「ねえ、私……記憶が蘇ったら、どうなっちゃうんだろう」
正直な所、記憶が戻ったら、エリスは、今の自分を保てる自信がなかった。そして、トラサムント達と過ごした8年間は、そんなに軽いものだったのだろうかと自答してみる。
「深く考える事は、ない。ただ、過去に記憶に引きずられるような事は、しないでおくれ。そうなれば、王子は、きっと誰よりもお悲しみになるじゃろう」
「……」
エリスは、しばらく天井を眺め、自分自身の考えをまとめようとしていた。
ある日の事。城の中庭で激しい剣のぶつかり合う音が響いていた。中庭では、2人の人間が剣を握り、構えている。それは、トラサムントとエリスの姿だった。エリスは、トラサムントに無理やり中庭まで連れてこられて、剣技の練習に付き合わされる事になってしまったのである。渋々ひきうけたエリスだったが早く終わらせようとやっきになっていた。そして、エリスの一撃がトラサムントの剣を弾き飛ばし、トラサムントに尻餅をつかせる。
「トラサムント、弱すぎ」
「まいったな。これでも剣の師匠には、褒められたんだがな」
トラサムントは、尻餅を着いたまま、エリスを見上げてそう言った。実際にトラサムントは、剣技においては、非凡な才能を発揮して、周囲を驚かせる実力を持っていた。ところがそんなトラサムントの剣技がエリスには、何一つ届かなかった。そう考えれば、エリスの方が強すぎるのである。
「エリスは、本当に強いな」
「ふっふん。どうよ、この城に私に勝てる奴なんて居ないんじゃない」
エリスは、得意げにそう言って胸を張った。そんな薄い胸を見ながら、トラサムントは、呟く。
「う~む。残念だ。これは、まさに残念だ」
エリスは、そのトラサムントの言葉に顔を真っ赤にして両手で胸を隠した。
「ちょっと!! どこ見ていっての!? このドスケベ!!」
エリスのその叫びも空しく、トラサムントは、ヘラヘラと笑みを浮かべるだけだった。
城の中庭で賑やかに会話をしてるトラサムントとエリスの姿をジッと眺めている人物が居た。少なくとも周りから見たら、とても仲の良い兄妹に見えない。城の2階の一室で、窓の外に居るトラサムント達を眺めている人物。貴族ベルサリウス家の家長ギバムント・ベルサリウスその人であった。ベルサリウス家は、ヴァンダル王国において強大な力を持つ貴族の一つであり、王も王子もベルサリウス家の発言を無視が出来ないほどである。ギバムントは、数年ぶりに城に招かれたがそこで見かけた美しく成長したエリスの姿を見かけて、眉を潜めていた。
「あの娘は、何者だ?」
ギバムントは、自分の後ろに控えている従者にそう聞いた。ギバムントの従者ゲリメルは、進み出て窓から、エリスの姿を捉える。
「詳しくは、解かりませんが。噂では、8年ぐらい前に王子が城に連れて来たとかで……。たしか名前は、エイリアスと」
「エイリアス? 影……か。なかなか、ふざけた名前では、ないか」
ギバムントは、再びエリスの姿に目を移した。
「王子も年頃である。あの様な小娘が近くに居れば、目移りをするかもしれぬな」
「たしかによろしくない状況かと」
ゲリメルの言うよろしくない状況とは、まさにベルサリウス家にとってよろしくない状況だった。王子の妃は、貴族から輩出するのが決まりごとである。いつもそうする事でベルサリウス家の力を維持してきた歴史があった。
「即刻、この舞台から退場してもらうのが得策かと」
「ならば、そう手配しろ」
ギバムントは、そうゲリメルに命令すると、エリスの姿を目で追いながら、不気味な顔でほくそ笑んだ。
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