血塗れの戦乙女と木偶人形1

 数日前。


 ドメキア王国にセリム一行が現れた日。


 グルド帝国研究施設。


***


 カールは力の入らない身体に目一杯力を込めた。しかしロクに動かない。


 灰色の窓のない建造物では、昼か夜かも分からない。捕縛されてから繰り返されていた、針を刺して血を抜くという行為が終わって恐らく半日。身動き出来ない拘束服を破ろうと、何度目の挑戦をした時に扉が開いた。


 重く、鉛色の扉がゆっくりと開いた時に「またか」と奥歯を噛み締めた。


 しかし、現れた泥人形のような塊、パストュムとかいう生物なのか何なのか分からないものは何故か今回は部屋に入ってこない。


 今この瞬間まで、真っ赤な瞳をしているパストュムしか見ていなかったが、眼前にいるパストュムは青い瞳をしていた。


 空色の目に覚えがあった。この世で唯一心の底からしたうシュナと似ているからそう思ったのかもしれない。


 パストュムが扉を閉めた。


「貴様、ハクか?」


 しばらくしてから、パストュムが首のない、どこからが頭なのか分からない、頭らしき場所を揺らした。


 ペジテ大工房から一先ず逃亡した際に、追ってきた兵士。セリムという青年に、ハクと呼ばれていた男はグルド帝国兵に一緒に捕まった。


 捕縛前、執拗しつような追跡が鬱陶うっとおしくて、ノアグレス平野で切りかかったが思ったよりも手強かった。鍛え上げられた大男。カールと互角の紅の騎士団長ゼロースよりも強いかもしれない、そう感じた。


ーーセリム様ならば、貴方の主を庇護するだろう!剣を納めよ!懺悔ざんげの為に戻れ!それが必ず主の為となる!


 燃えるような信頼の瞳、ゼロースと似ている視線だと感じたのを思い出した。


 現れたパストュムの目はやはりハクと良く似ている。


ーーひっく。分析してもちっとも分からねえな。連れも連れで強情ごうじょう。あれだけやっても口を割らない。調べ終わったら次はお前だからよ。どんな目にあったか知りたいか?楽しみにしておっけっよ!その前にその体でも遊んでやるからよ!


 タルウィと呼ばれる、地位がありそうなグルド人の酒臭い言葉がよみがえる。思い出しても妙な話し方に、苛々した。残忍そうなので、絶対に逃げ出してシュナには近寄らせないか今のうちに殺してやりたい。


拷問ごうもんの挙句、そのような化物にされたか?」


 またパストュムが頭部だろう部位を揺らした。それからカールに近寄ってきた。


「何しにきた?」


 問わずとも予感がした。どれだけ非道な拷問ごうもんされたかは想像に容易い。カールと共に連行されていた飛行船内でも既に指を全て折られていた。


 蟲を操る女、その連れらしき者。何処の誰なのかを吐けという問いにかたくなに口を閉ざしていた。生き様で見せる高い忠義心には妙な親近感がいている。


 この世で最も許せないのは裏切り。生きたまま灰にされようと、絶対に裏切らない。同種だと感じている味方は散っていった師であり盟友メルビン、ラーハルト。ラーハルトの直弟子ゼロース。そして最近知ったバース。たぬきかもしれないが、第一軍に潜入し続けているカイン。それくらいしかいない。


 ハクは同じ匂いがする。


 ハクがカールの拘束服を破いた。全裸になったが気にすることでもない。


 やはり、助けにきたのか。そんな予感がしていた。何故か、ハクという男はカールを見捨てないという自信があった。


「礼を言おう。化物となろうとも自我持つとは貴様の心が鋼鉄こうてつだからか?それとも人体実験失敗か?まあ、何でもいい。この施設を適当に破壊し逃亡する。一人よりも二人の方がまだ成しやすいだろう」


 ハクは頭部を下に曲げている。


 付いてこないならば放置。カールはハクの脇を抜けた。


「好きに生きよ。来ないならば置いていくまで」


ーー僕は怜悧れいりなシュナ姫と交渉にきた。貴方は黙っていて下さい


 ノアグレス平野で出会ったセリムのことを思い出した。


 シュナを一目見て、尊敬するような眼差し向けた男。そんな者は初めてだった。即座に見目の良いカールを否定し、シュナを肯定した。


 セリムというあの青年、何処までもけがれない瞳がシュナそっくりだった。シュナが即座に受け入れた男。そして凶暴獰猛どうもうなティダが親しそうに連れてきた。セリムという若者は偽善者そうで気に食わないとも感じたが、特別な理由があれば信頼に値する。


 シュナ、憎々しいが確固たる信念持ちそうなティダ、そして亡きラーハルト以外に懐かなかった馬がすぐさま懐いた。三つあれば十分だ。


 不思議な青年、その臣下。


 殺されかけようと主を裏切らない男。


「やはり貴様も来い」


 ハクと向き合った。


 返事はない。そもそも口がない。思わず舌打ちが出た。三本指の手、そして目は二つ。他のパストュムは三つだった。空色の丸く小さい目の間、つぶれたような跡がある。ハクは自らつぶしたのかもしれない。


「付いて来ないならば引きずる」


 カールはそっと扉を開いた。長い廊下に同じ形の扉が並ぶ。体がまだ不自由、武器もない。どうしたものか。背後に気配がしたので、カールは思わず回しりした。


 さっと後退するハク。手に破れた拘束服を持っていた。頭部を背けるハクが、拘束服を両手で差してきた。


「裸体など何とも思わん。しかしまあ使えるものは使うか」


 調子が狂うなと、カールは破れた拘束服を適当に身体に巻きつけて縛った。


 ハクが扉と反対側、壁の方に歩き出した。


 ハクが壁を強く殴りつけた。勢い良く腕を突き出すと、壁が大きく凹んだ。代わりに轟音とどいた。止めようとしたが、黙って見届けた。今のカールだと荷物にしかならない。


 三発目で壁に穴が空いた。破壊された壁を観察してみると金属のようで金属ではない。カールの義手、義足と同じ、蟲の殻に似ていると思った。


 穴の向こうは絶壁。窓の数で五階だと分かる。壁に凹凸があるから降りれるか?


 パストュムがカールの身体に腕を伸ばしてきた。任せるか、とカールは大人しくなすがままでいた。伸びた左腕がカールの身体に巻き付いた。


「この恩、必ず返す。タルウィとかいう男、必ず地獄に突き落としてくれるわ!ペジテ大工房はその次!」


 凍てつくような寒さ。


 地獄など何度も超えてきた。


 死ぬものか。


ーーそう、カールと言うの。今日からわたくしを母のように思ってちょうだい。そして娘のシュナと仲良くして欲しいの

 

 二十五年前、飢えで倒れた後に目を覚ますと優しく抱きしめられた。黒髪つややかな女性。


 ナーナ。


 娘のシュナと、それも姫君と同様に扱ってくれた恩人。


ーーメルビン!カールに毒味役などさせないで!シュナが苦しむべきことです!止めさせて!


 シュナ。


ーー貴方も飢えて死んでいたかもしれない。だから手を伸ばすのよ。私に出来ることはしないとお母様の顔に泥を塗るわ。


 シュナ。


ーーカール。貴方が私をめてくれるもの。それで十分よ。私は幸せだわ。この世で最も美しい宝を赤ん坊の時から持っているもの。

 

 本物の姫だと知られればシュナより自分が選ばれる。たかが容姿のせいで。その可能性を捨てたくて憎きペジテ大工房に乗り込んだ。


 殺すなら殺せ。


 捕虜として利用してみろ。


 シュナの為になりそうならば何でもしてやる。


ーードメキアの真の姫よ。何故そのように死に急ぐ


 ペジテ大工房御曹司アシタカ。グスタフとシャルル王子に一度謁見に来たことがあるから城の絵画を見ていたのだろう。あの見る目のなさ、シュナに何をするか分かったもんじゃない。


ーー貴方の主と軍も守られる。あの姫とペジテは友好を結べる筈だ。本国に怯える必要はもうない。戦をやめてペジテ大工房へ来いと伝えよ。何もかも受け入れる。反乱を続けるならペジテ大工房は関与しない


 不信感たっぷりなあの目。絶対にシュナに害なす。


 一旦引いて、殺してやろうと思ったのが間違いだった。あの場で即殺してやれば良かった。


 無事だろうか。


 カールより忠臣だと噛み付いてくるゼロースが守り通してなかったら首をねてやる。妻と子も殺して、自害だ。


 シュナと離れなければ良かった。


「シュナ……」


 猛吹雪が襲来しゅうらいしてきた。


 貴方の姉です。


 もしもシュナの腕の中で死ねるなら、そう言い残して死にたい。


 きっと悲しむよりも喜んでくれるだろう。


 その瞬間の為に隠さねばならない。


 嘆き悲しむ中に、喜びを。



***



 六日後



***



 熱で意識が朦朧もうろうとする。


 巡回兵からうばった衣類で死ななくて済んだ。


 途中馬も手に入れた。


 水も食料も適度に見つかった。


 ハクは何も口にしなかった。口がないから仕方ない。エネルギー源は何だ?


 星座を頼りにひたすら進んだ。その道中、休憩がてら土に枝で文字を書いて筆談した。あまり学に興味が無かったせいで、カールのせいで言葉通じにくかった。


 しかし文字と、頭部を縦に揺らすか横に揺らすかで十分互いの意思を伝達出来た。


 しかし熱発。


 今度こそ死ぬかもしれない。


 回り灯篭とうろうのように思い出がよみがえる。ナーナと過ごせた五年の月日、シュナと共に生きてきた二十三年。


 くるくる。


 くるくる。


 狂狂。


「ハク……私が死んでもドメキア王国へ行って欲しい……」


 戦場で知り合い、そう月日は経過していない。ハクの今の姿でドメキア王国の国土に一人で現れればどうなるか想像に容易い。


 カールの連れ、そう示すものは何もない。


 言葉もしゃべれない。


「シュナ姫に……私は姉だと伝えて欲しい……。王に……王になっていたら……私は戻らない……死んだとは言わずに……。隠れて会えば貴方を無下には……」


 熱が出てからハクの冷たい腕の中で何度も何度も繰り返して言葉を伝える。


 頭が上手く回らない。元々頭は良くない。


 馬の揺れが辛くてならなかった。


 明け方、ハクが馬を止めた。


 大嫌いだが懐かしい毒蛇の巣、ドメキア城が遠くに見えた。


「何だあれ……」


 巨大な蛇が二匹。ドメキア城の砦の上に君臨している。


 角のある特大の蛇、それから頭がわしのようで体が鳥の羽のようなうろこの特大蛇よりは小さな蛇。


 蛇とわし


 ドメキア王国の守護神エリニースとシュナの真の姿。シュナからそう教えてもらったことがある。


 ゆらゆらと七色の光が空中を舞っている。


 虹の雪?


「海岸沿い……城の後方に回れ……禁足地……」


 ドメキア城後方の海は神が住まうと伝わり、王族以外は基本的に進入禁止。


 ハクが馬を進めた。


 途中、大地が大きく揺れて馬が逃げ出した。


 二匹の蛇の大咆哮に貫かれる雲。


 天には蟲の群れ。


 何だ、何だこの天変地異は。


 ハクが逃げようというようにドメキア城に背を向けた。


 カールは力を振り絞ってハクの腕から降りてドメキア城へと歩き出した。今のハクは怪力。弱り切っているカールの抵抗など軽くあしらえる。分かっていて腕を離した。


 なのにハクがまたカールを抱えて走り出した。


 前方、かなり遠くに騎士団が見える。


 見つかれば不審者として殺される。


「死ぬな……あの騎士団がこちらに攻撃してくれば……私を投げ捨てて逃げよ……私は地位が高いから大丈……かならず迎えに行き恩を返す……」


 風にひるがえる純白国旗。最悪なことに主軍か。シュナへの交渉材料として一旦捕まえられるなら死にたい。


 しかし……。


 カールはハクを見上げた。短いながらも戦友。見捨てれば、裏切れば、シュナに顔向け出来ない。決して裏切らない、人殺しだがそれだけは守ってきた。カールを人として繋ぐ唯一のもの。


 音も聞き辛い程苦しい。息がしにくい。このような熱、何度か経験あるが人生で最も酷い。


 騎士団はドメキア城に注目していてこちらに気がつかない。


 ハクがカールを掲げながら駆け寄っていく。


 無抵抗。


 そんなもの見せつけてどうする。


 殺されるつもりか。


 この国を知らな過ぎる。


 案の定、弓矢が大量に降り注いできた。


「逃げ……よ……」


 眼前が一瞬真っ白になった。


みにくいとは何だ!このような至極の声の女性に神まで現れたのに女神と呼べんとは、目が腐っているのか!』


 聞き覚えのある声に憎悪込み上げてきて意識が少しはっきりした。


 目の前にティダが従える大狼がいた。名は何と言ったか。そう考えた時に少し冷静になった。


 先程の声はアシタカ。そして内容。何が起きている?


 大狼が背を向けた。大咆哮が大地に響き渡った。


『そもそも、どいつもこいつも恥を知れ!このような澄んだ美麗な瞳に決意みなぎる鋭い視線で聡明そうめいだと気づかない!重病の為に変形した辛き苦しき者を侮蔑、しかも骨格見れば完治した姿など簡単に分かるのに何たる恥知らず!そもそも数日経っても誰も提案にこない!誰でも、自由にと言っているのに何故行動しない!ルイ、貴様も何だ!荷が重過ぎて辛いと眠れぬシュナにまだ押し付けるのか!名乗り上げたのだからとっとと王になれ!不安なら王など一人だけでなく五人でも十人でも構わん!しかし一人だけ飛び抜けたシュナだけは許さん!神までやってきてシュナを追い立てる!蛇神などっ』


『その続きを口にすると聖人といえど罰しなければなりません。なんじ、より己に相応しい言動を伴わせろ。怒りを制御すれば更に魂磨かれる。バジリスコス様とココトリス様からの有難いお言葉お忘れか』


 この声はティダ。何だ。シュナはどうした?アシタカの怒号がシュナに対する思慕、尊敬からであるというのは察しがついた。


 ノアグレス平野でのあの状況から何が起こった?


 騎士団に向かってうなりあげる大狼が、ふいに大人しくなった。


「ゼロース様!危険です!」


 ゼロース。


 その名で安堵が押し寄せてきて一気に意識が混濁した。


 ハクがカールを地に下ろした。


 背を向けて遠ざかっていく。


『そんなことよりもシュナだ。彼女を一番に守らねばならない。それに忙しい。祖国から山のように仕事を持ってきている。テントに寝台を用意しよう。見張ってないとすぐに働こうとする。それに君の提案はいつも有益だ。だから常に近くにいて欲しい。離れないで同じ道を歩んでもらいたい』


 裏切りには反目。


 信頼すれば剣刺されようと信じる。


 裏切りは万死。


 カールは立とうとしても立てなかった。ハクが遠ざかっていく。


なんじ、アシタカ・サングリアル。生涯シュナ・エリニュスに真心捧ささげると誓うか?』


『真心ではなく何もかもだ。彼女を守り、一つでも多くの幸福を与える為に今までよりも身を粉にして働く。平穏も休憩もなくて構わない。その時間分、その労力分、与え続ける。僕は忙しいのでよりはげまなければならないが、それ程の価値がある方だ』


「待て……」


 カールは無理やり立ち上がった。立つのもままならない。


なんじ、シュナ・エリニュス。アシタカ・サングリアルのちかいに何を与える?』


 状況が読めない。


 しかし、シュナはもうカールなしで生きていける。それだけは分かった。


 あまりにも寂しい反面、心底安心した。


 恩には恩を返せ。


 それがナーナの教え。シュナの生き様。


 もうきっと、シュナはカールがいなくとも大丈夫だ。


 今、行くべきなのはシュナの所ではない。


 裏切りは万死。


『何もかも。流星落ちてきた夜、あの日限りの命となりたいとまで思いました。偽りの流星が降り、まだ病に苦しんでいた夜です。アシタカ様、貴方が駆けつけてわたくしの手を握ったあの瞬間だけでもう良いのです。他には何も望んでおりません。幸い、中々賢く生まれました。自惚れかもしれませんね。しかし良いのです。貴方が有益だと思ってくれる間はアシタカ様よりも働きます。真横に並んで時に盾となる』


 侵略した国の御曹司とちかい合う。それも敵国の皇子が神官のような立ち位置らしい。何たる奇跡。シュナの心が美しいからこそ何かが起こった。それだけは分かる。


 虹色の雪が増えている。このような美しい世界でシュナは幸福を得た。


 見たい。


 見たくてならない。


 しかし恩は返す。


 動いて死ぬというのならば死ぬ。元より殺されるところだった。


「待て……待てハク……」


 倒れかけた時に大歓声が聞こえた。


 シュナとアシタカの名前が呼ばれ続けている。


 報われた。


 あざけられ、ののしられ、馬鹿にされ、化物扱いされても真心捧げ続けた真の美女シュナがこの地にいる。


 気づく者は気づく。


 どんなに隠されていても見い出す。


 ハクを一人にしてはならない。


 カールは、自分を抱き上げたゼロースにしがみついた。


「ゼロース……一生の頼み……。あの者捕らえ……恩人……」


 いつの間にか泣いていた。泣くのはいつ以来か。メルビンが死んだ時だ。カールの命守るために命を捨てた年の離れた盟友。父親のようだったメルビン。泣いたのは、必ず、必ず、シュナを守ると約束したあの日が最後だ。


 ぼやける視界にまた白が過った。


「この匂いやはりカールか!さすが忠犬!シュナの祝言見にきたにしては随分弱っていやがるな!ゼロース!シュナを預かってろ!あのパストュムを捕虜にする!」


 大狼の上にティダがまたがっている。腹立たしいほど昂然こうぜんとした姿。


 パストュム。ティダはその名を知っているのか。


 ハクはまた拷問されるに違いない。腹の底見えぬハイエナ、殺したくても明らかな力量差で叶わなかった。


 力が無ければ何も守れない。


 悔しい。


 悔しい。


 誰よりも努力してきた。


 自惚れだった。


 余りにもティダとは差が広かった。力だけではない求心力。魅力カリスマ。第四軍をあっという間にとりこにした。


 シュナを討たれると激しく憎悪した。


「カール!」


 人影がゼロースに向かって落ちてきたのと同時に、シュナの声がした。次の瞬間にはきつく、きつく抱きしめられていた。震える小さな体。抱いたことがない体型に、カールはシュナの声を出す女を引き離した。


 自分に似ながらも、目元が懐かしくて恋しくてならないナーナだった。


 一目、大空色の瞳を見れば誰だか分かる。


「シュナ様……」


「すぐに医者を呼びます。生きていて良かった……。わたくし……ひっく。カール……。姉上……もっと早く知っていれば独断止められたのに……」


 また抱きしめられた。シュナは嗚咽おえつ漏らして泣きじゃくった。小さな体が震えている。


 姉上。


 もう知っているのか。カールが何をしようとしたのかも、シュナならばもう理解しているだろう。裏切るつもりなくとも、背中突き刺した。苦痛与えただろう。


「シュナさ……貴方こそ生きていて良かっ……。シュナ様……あの者は恩人……」


 嘔気に耐えきれないとカールはシュナを押し離そうとした。しかしシュナは非力なのに離れない。それ程弱っているというのか。


 カールは吐いた。吐瀉物としゃぶつがなくなっても吐き続けて黄色い胃液が出た。


 純白のドレスが吐瀉物としゃぶつまみれになってもシュナはカールの背中を撫で続けてくれた。


 カールの意識はそこで途切れた。



***


 さらさら、さらさらという音でカールの目は覚めた。


 見慣れた天井。随分具合が良い。手に温もり感じると思ったら手を握られていた。シュナがカールの手を握っていた。シュナが寝台に突っ伏している。体に毛布がかけられていた。


 さらさら、さらさらという音の正体は羽根ペン走らせる音。よくシュナがこの音を立てていた。寝台脇のテーブルで音を立てているのは、アシタカだった。


「目が覚めて良かった。しかしまだ日も登らない。横になっているといい」


 あまりにも穏やかな声と微笑みにカールは面食らった。殺してやろうと思っていたことを忘れてしまう程、無防備。


「ああ、最後に会った時は怒鳴り合いでしたね。互いに誤解していることもあるでしょう。もう少し元気になったら語り合いたいです」


 シュナの体から毛布が落ちそうになって、アシタカがカールよりも早く毛布を掴んだ。それからシュナに優しく毛布を掛けた。


「感染すると言っても絶対に離れないと聞かなくてね。隣で眠れば貴方の休養の邪魔になるとほとんどこの状態。甲斐甲斐しく世話をしていたよ」


 浮腫みと硬質化酷かった手は艶やかで滑らか。その分随分小さく感じた。カールの左手を両手で握るシュナの、左手薬指に指輪がめられている。休戦の為に婚姻交わしたティダと揃いの結婚指輪ではない。


 ルビーで形作られた紅の薔薇ばらはナーナの形見の婚約指輪。その中央に本来の指輪には無かった七色にきらめくオパールが鎮座している。


 やはり全く状況が読めない。


「何もかも分からない。しかしシュナ様の発言を聞いた。おぼろげながら二人のちかいを耳にした。殺害しようとしたことをびよう。死刑でもかまわない」


 アシタカが肩をすくめた。


「僕を殺そうとした者を死刑となると、大勢死ぬ。ましてや貴方はシュナの姉。つまり僕の義姉。今の謝罪は僕への侮辱ぶじょくに対してということにしましょう。僕とシュナは友好を結べた。カール殿、貴方は少々短絡的過ぎると感じている。直した方が良い。まあ、僕も怒ると我を忘れるから他人をとやかく言えませんがね」


 あはは、とまるで昔からの親しい友だというようにアシタカが呑気な笑い声を立てた。このような者、カールとシュナの周りにはいなかった。


ーー僕を殺そうとした者を死刑となると、大勢死ぬ


 何でもないというように告げたが、アシタカは殺されかけたことがあるということだ。鎧義手アルフィシャル義足アーマーの検診で何度かペジテ大工房に密入国したが、ペジテ大工房の御曹司はすごぶる評判が良いのを思い出した。シュナが謁見してみたいと策を練っていたが、妨害されていた。


 今の今まで忘れていた。


 聖人一族のアシタカ・サングリアルはやはり国の至宝。名案にて追放会議は今回も否決。そういう文章を目にしたことがある。


 カールはまたシュナの指輪に目を落とした。


 紅の薔薇ばら


 その中央の美しい宝石。至宝。


 そして聞いた、まるで永遠のちかいのような二人の宣言。アシタカは半月あまりでシュナの心を掴んだということだ。逆はどうなのか。今のシュナの姿、見目麗しいシュナに惚れたか。打算か。どういうことなのだろう。


 少なくともシュナの今の姿、ペジテ大工房の高水準の医療技術で治ったのだろう。


「んっ……」


 シュナが小さな声を出した。目元が濡れている。アシタカが指の腹でシュナの涙をぬぐった。愛おしそうな微笑に、カールはまた面食らった。あまりにも深い愛情が滲んでいる。これ程なのはシュナの母ナーナだけだった。


 もうシュナにカールは必要ない。そう感じたのは正解だったようだ。打算では無いのは明らか。


「ずっと心配だったのでしょう。まだペジテ大工房にいた時、何でもするからカールを見つけたらどうか慈悲をと嘆願された。病が治ったのを見てもらいたい。もう必要以上に守ってもらわなくても済む。カールはカールの人生を歩んで欲しい。そう言っていましたよ。僕は逆だと思いますけどね。それ程慕われたら絶対に離れたくないし守り続ける」


 からすのように黒い瞳には尊敬がにじんでいるように見えた。疑心しかなかった男は影も形も見当たらない。約半月でこのように変わったのか。いや、元々このような男だったのだろう。侵略戦争に国の眼前で起こった惨劇さんげき。蟲の襲撃しゅうげき。平常心でいられる訳がない。


 追い詰められていた時の言葉は、「許すから許せ」という怒号。腹の底まで清々しいのだろう。


「すみませんでした」


 自分でも驚く程、すんなりと謝罪の言葉が自然と出てきた。毎日張り詰めていた糸が事切れたように、いでいる。


 カールはシュナの手をそうっと引きがした。自分がこれなら、シュナがアシタカにどう傾倒したのか想像に容易い。


 カールは自分の両手を見つめた。


 幾人の心臓の返り血で汚れたか。数えたこともない。誤解で殺した者も多いだろう。


 急に寒気がした。


「今のようにおののける者ならば、罪は生きてつぐなえる。僕はそう思います。貴方の行為が罪ならば、守られてきたシュナも同罪。彼女ならそう言って絞首台に登るだろう。この国は斬首でしたっけ。僕とシュナの後押しして欲しいが貴方はこの国では目立つ。激変するだろうこの地では生き辛いだろう。シュナと良く話し合うと良い」


 胸が熱い。穏やかだからか、偽りないからからか、どちらもだろう。するりとふところに入ってくる。


「はい。ありがとうございます。状況が全く分からないので教えて下さい。シュナ様を守っていただいたのは理解出来ます。ありがとうございました」


 また自然と感謝がこぼれた。偽りなく頭を下げるという行為もいつ以来か。


 アシタカがカールに左手を差し出した。


「ええ勿論もちろん。こちらこそ礼を言わせて下さい。あの日僕をすぐに殺さなかった。殺せただろうに、見定めようと逃げた。そして今日即座に信用を示してくれた。その生き様がシュナの人柄を作った。僕はシュナと出会って背中押された。これからも彼女は僕を支えてくれるだろう。ありがとうございます」


 迷いを一瞬感じた。それから深く息が出来るような穏やかな空気が届いてきた。


ーー殺せただろうに、見定めようと逃げた。


 疑っているのに信頼示してきた。カールは恐る恐るアシタカの手を握った。予想外に、カールの手はふるえた。奥底から突き上げてくるような叫びたい衝動。


 畏敬いけい


 これは畏敬いけいだ。


ーーそう、カールと言うの。今日からわたくしを母のように思ってちょうだい。そして娘のシュナと仲良くして欲しいの


 三つの時にナーナに抱きしめられた感情と全く同じ。


「んん……カール?カール!」


 ゆっくりと目を開いたシュナが飛び起きた。カールと目が合うとみるみる涙を浮かべて大粒のしずくを落下させた。


「シュナ様……独断で心配かけました。このカール、帰国しました。護衛という最も優先するべき任務を離れたことをびます」


 シュナがぶんぶんと勢い良く首を横に振った。


「生きていれば絶対にわたくしの前に姿を現わすと信じてました。あの、帰国した母上の日記を見つけたのです。カール……」


 何を言おうとしているのか分かった。すがりついてくれようとしているシュナに手を伸ばそうとした時、寝室の扉が大きく開け放たれた。


「カール!起きたか!死ぬかと思ったぞ!」


 飛び込んできたのはゼロースだった。今にも泣きそうな顔をしている。いつも涼しげで自信溢れる男がこのような顔、カールが知る限りでは師であり父親代わりのラーハルトが病死した時以来だ。


 競い合いながらも、カールの忠臣。というよりもシュナの忠実なるしもべ。阿呆の振りするシュナに語りかけ、一人で納得する変人。そう評価されているのは、ゼロースがシュナの真の姿を知っているからだとカールは知っていた。カールにしきりに尋ねてくるので追い払うのが大変だった。


 ゼロースの安堵あんどはカールが死ぬとシュナが悲しむからだろう。この男がいるならシュナは大丈夫だと思っていたが、正解だったか。自分よりも忠誠心強いのではと悔しくて腹立たしいが、喜ばしくもある。ラーハルトが貧困街から拾ってきた少年。そしてシュナへの厚い忠義。何となく自分と重ねていた。


 口にするつもりはない。


「もうとうげは越えた。家族水入らず、僕は失礼しよう」


 アシタカがすっと立ち上がった。家族?


「カール。先日分かったのですがゼロースはわたくしと貴方の兄上だそうです。カールとゼロースは双子だそうです。カール、貴方もう三十ですって。通りでゼロースは年の割に若く見えていた。わたくし、大変嬉しいです。アシタカ様、家族水入らずならば、貴方もここにいて下さいね」


 カールは絶句した。


 双子?ゼロースと?


 ゼロースがシュナごとカールに抱きついてきたので思わず鉄拳が出た。ゼロースが上半身をらして避けた。カールの腕の横に何故かアシタカの腕も並んでいる。


「すみません。カール様ではなくシュナを抱きしめようとしただけです」


 シュナに様を付けるのを止めたらしいゼロース。シュナの兄だと知ったゼロースの姿は嬉々としていただろうと脳裏に浮かんだ。道化演じるシュナに貰った折り紙で作った星を、十年も経った今も家に飾っているらしい。そんな噂を聞いたことがある。


 ゼロースと双子とは違和感あるのに妙に納得してしまう。


 不穏な気配を感じてカールは顔を向けた。アシタカのこめかみに血管が浮かんでいる。


淑女しゅくじょ二名にいきなり抱擁ほうようなど紳士ではない」


 ゼロースに噛みつきそうなアシタカにカールは茫然ぼうぜんとした。先程までとはまるで別人。


「問題ありませんアシタカ様。兄妹です。貴方様と同じ行為です。どうして怒っていらっしゃるのでしょう?」


 指摘されたアシタカが目を丸めた。


「怒っている?僕が?そうだ、ゼロースさんはシュナの兄。兄なら妹を大切にするのは至極当然しごくとうぜん。その事実をつい忘れていた。では僕はカール殿に食事を用意してこよう。家族水入らず。積もる話もあるだろう」


 アシタカが髪の毛を掻きながら、罰が悪そうに苦笑い浮かべた。


「ああ、カール殿。貴方が恩人と言っていたパストュムとかいう生物。友と一緒にいる。もう少し顔色が良くなったら共に会いに行こう。ずっと上の部屋の隅で座って大人しくしている」


 カールは思わず立ち上がった。ティダに殺されたと思って聞けなかった。よろめきながらカールは一目散に階段を駆け上がった。


 生きている。


 生きている。


 ハクは死んでいない。


 階段を登りきるとカールは目の前の光景にへたり込んだ。


「起きたのか忠犬。こいつ何なんだ?お前が必死だから捕まえたが中々腕が良い」


 ティダが口角を上げて笑った。


 床に座るティダと、向かい側に座るハク。


 ティダの顔、目元は青黒く変色していた。それにガーゼも当てられている。


 二人の間には将棋盤が置かれていた。


 カールはしばし声が出せなかった。

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