至宝と美しい声の友1
賃貸住宅のドアノブに手をかける瞬間、ふいに怖気づく時がある。アシタカは動くのを止めた。ゆっくり、大きく深呼吸して腕を動かした。そっと開いた扉の向こう。
「今や出て行く者すら居ないから当然か……」
取り立てて、何も変化ない部屋。誰も迎えてはくれない。「おかえり」と温かな料理を提供してくれる女性は、皆逃げていった。アシタカの仕事、いやアシタカの役目に対する情熱に敵わないと逃亡していった。
その代わりに消えることもなくなった。帰宅したら、家財道具の一切が無いという事件は起こらない。「さようなら」と突然去ることもない。
「捨てるか、この家も」
大技師一族の住居、偽りの庭を飛び出してもう十年。無知なまま飾られたくなかった。民の暮らしを知りたくて、仕事に就いた。国を護る者の一人になりたくて、護衛人にもなった。頼まれ選ばれたので議員になったのに、結局アシタカは大技師名代の座に落ち着いた。国の礎、良心の象徴でありたい。
遠回りして、元の場所に帰った。守るべきものが何なのか今はもうよく知っている。
「明日には解約しよう。しかし時間があるのか?全部姉上達に任せるか。民の暮らしに紛れて楽しかったな」
自らの背に背負うものの正体が、知識ではなく本物になるまでの十年。人々がどう暮らしているのかを知れた。生き生きとして
不意に、通信機がコートのポケット内で震えた。疲れているせいか、人恋しかったので丁度良かった。アシタカの耳の奥に、横柄な皇子の
「アシタカ殿?」
通信機から聞こえてきたのが、予想外の相手の声でアシタカは危うく通信機を落とすところだった。鈴の音を転がすような、澄んだ声の寄る辺なさ。アシタカは部屋の中に入り鍵をかけた。身辺警護がついているだろうから、必要はない。しかしまだ少しだけ、平凡な一般市民でいたかった。肩書きはもう違うが、この賃貸アパートの一室が、アシタカを俗に留める最後の砦。自由の証。
「こんばんはシュナ姫。通信機はティダから借りました?」
一息間があった。
「いえ、パズー殿から。彼にこのような物を託しているとは知りませんでした」
アシタカは頭を掻いた。うら寂しさに胸が締め付けられる。
「
テーブルに通信機を置き、ソファに横になってノートを鞄から出した。何か思いついたら書き留めておきたい。東のエルバ連合、特にボブル国への食糧支援についての具体策も提案しないとならないのに中々思いついていない。
「いえ、単にパズー殿がセリム殿を心配しています。ティダはどうやら本気でセリム殿に心許したようで、最早兄のようだ。導き、世話を焼き、業は全部背負う。そういう様子。まるで別人、というより元来そのような性格だったようです」
シュナがセリムとティダがどのような様子なのか掻い摘んで説明してくれた。グスタフ王を無意識なのか、賢王へと導こうとしているセリム。ティダはシュナにセリムを全面支援すると
「それで、シュナ姫はどうするつもりです?」
ペジテ大工房という権力と武力を盾にした、和平の強要。王の地位を脅かさない代償に、交渉に応じてもらう。逆らうのならば、報復戦争。正しさを成すのに、卑怯さと恐怖は多少必要。それがシュナとアシタカのおおよその案で、ティダも黙認していた。
「セリム殿は私の代わりに進もうとしています。脅し文句が"蟲"となっただけです。放っておけば私の望む道に転ぶ。絶対的な支援者もいる」
楽をしてそのままやり過ごしたいという言葉。なのに、それとは真逆の意味がこもっているような声色だった。
「二人に敵対するのに、僕と手を結ぼうと言うことですね」
また厄介事が増えた。しかし嬉しかった。頼られ、信じられていることの心地良さ。朝から晩まで会議か書類の山。疲れている。それなのにこれだ。他者よりも承認欲求が強いのだろうと、自己分析している。
「いえ。セリム殿を上手く転がして、私の手柄にしてみせます。それがティダの為にもなる。二人揃ってまるで火虫。特にティダ。
ああ、そうか。アシタカは手に持ったペンをくるくると回した。何となく行う、幼少時からの癖。シュナが言いたい事を察したが、アシタカはあえて聞くことにした。昔、先回りして決めつけるなと忠告された。分かっていてもあえて聞く者がいるとも、教えられた。
「どうして僕と話をしようと思ったんです?」
しばらく沈黙が流れた。シュナが偽りの庭の別邸のソファで、物腰柔らかい動作で紅茶を飲んでいた姿が脳裏に浮かんだ。気丈に振る舞っているが、
「忙しいだろうからと
昨晩、盗み聞きするような形になってしまったシュナとティダの会話。彼女はあれほど嫌悪を滲ませていたティダを、今では心配している。だからティダの為にも励みたい。そういう話かと想像していた。
「ティダはそこまで理解していて、あえてセリム殿を放置している。最終的には私に押し付けるつもりでしょうが、だからこそなるだけ荷を軽くと思ってくれているのでしょう。セリム殿が父を変えるかもしれないと期待もしているようだ。セリム殿はよくもまあ、あの複雑怪奇な男の懐にするりと入り込んだ」
穏やかな声なのに、悲鳴のように感じられた。アシタカは回していたペンを落としかけた。
「私もアシタカ殿のようになりたい。思い悩みながらも、堂々と胸を張り自らを信じたいのです。セリム殿やティダの信頼に応えたい。それが二人の為になる。母の無念を果たしたい。庇護してきてくれてきた者を、今より幸福にしなければならない」
でも逃げ出したいと続くような、哀しみ湛えた声。貴方なら大丈夫だと口にしようとして、アシタカは言葉を飲み込んだ。パズーとラステルがアシタカにシュナを
「世の中にしなければならないということはありませんよ。人には役目があるというが、自分を奮い立たせる材料でしかない。シュナ姫、ペジテ大工房に帰ってきます?決意ないまま使命に刺されているのは良くない。何が一番譲れないのか考える時間は必要です」
突っぱねられても、いつかアシタカの想いに気がつくかもしれない。頼っても良い、もたれかかり荷を共に持ってもらっても良いのだと伝えたかった。アシタカは昨晩のアンリの言葉に胸打たれた。人は一人では生きれない。頼り頼られるのが、本当の人間関係だと言うような感じだった。それを知って欲しい、気がつけばよりアシタカが幸せになれると願ってアシタカの隣から去って行った。そう言ってくれていた。
自分もそんな風にいつか誰かの支えになれるような人間でありたい。今気がつかなくても、シュナならいつか悟る。パズーやラステルの心配を無下にせずに、アシタカへ恐る恐る連絡を取ってきた。自分の弱さを曝け出せなかったアシタカと違って、シュナは声に出して口にした。傷を負っても成長しようとしている強い女性。そんな人に頼られているというのが、アシタカの自尊心を
セリムはこれを自然にしているのかもしれない。自分なら出来ると自信
「ペジテ大工房に帰る?何を言っているのですか?」
驚きに満ちたシュナからは、困惑しか感じられない。
「シュナ姫は僕の従兄弟だ。妹達も懐いている。家族が遠い土地で孤軍奮闘するよりも、手元に居て欲しい。当たり前のことだ。それに僕には共に未来を語り合う相手が必要です。シュナ姫は頭の回転が早く、知識も多い。人の弱さを知り、寄り添える優しさを兼ね備えているが非情にも振る舞える。僕も中々疲れていて、一緒に同じ方向を向いてくれる味方には近くに居て欲しい」
大袈裟に言うつもりだったが、口にしてみれば本心だった。アシタカの元からは次々と人が去っていく。そんなに付き合いきれない。人生を国に捧げられない。親しくなった友は、各々に背負う信念や国がありペジテ大工房には留まってくれない。同じ空の下、同じ道というだけで心強いがやはり虚しさも感じる。
「私に国を捨てろと言うのです?」
あり得ないという拒絶。裏返せば自分がしなければという強迫観念。
「セリムやティダに託す。それは国を捨てることではない。この国で自信をつけ、学び、決意が固くなってからでも遅くはない。一時的に預ける。そういう道もある。望むのならば、僕や父が模索します。というより、辛そうなので迎えにいきます」
撥ね付けられる予感がした。
「ありがとうございます。しかし大丈夫です。こんな風に言ってもらえるとは思えませんでした」
はっきりと感じる拒絶。これか、とアシタカは大きくため息を吐いた。頼って欲しいという気持ちへの強い拒否。繰り返されれば嫌になるだろう。次々とアシタカから人が去っていった、特に恋人や婚約者が逃げていく理由。通信が切られそうだと察して、アシタカは身体を起こしてソファに腰掛けて背筋を伸ばした。
「シュナ姫。君を楽にしたいのもあるが、僕もこの国で独りなのが嫌なのも本心だ。それにこんな風に頼ってもらったのは嬉しい。ところで、折角なので相談があります」
手元のノートに箇条書きしてある、明日の会議への提案を指でなぞった。
「相談?私にですか?」
エルバ連合への支援内容。和平締結による利益の提示。具体例がいくつも上げられているが、大掟やペジテ大工房の価値観と中々折り合わない。
「大陸中の国が不可侵の和平を誓う。その利益は何か考えて、悩んでいます。かつて大陸を滅ぼそうとしたペジテ大工房に残る科学技術は外界に持ち出せない。それが僕たちの誇り。しかし他国が一番望んでいるのは圧倒的な軍事力、生活力」
求められて攻撃されてきた。今回のドメキア王国、ベルセルグ皇国同盟軍の行いもそれだ。断固拒否していてこれならば、近寄れば加速するのではないだろうか。会議では毎日のように支援内容よりも、不安からの論争が巻き起こる。
「私はセリム殿の目が好きだ。それ以上にラステル。アンリ殿もだな」
先程までと打って変わって、シュナの声が明るくなった。元々耳障りの良い声をしているが、温かな感情が乗るとより心地良い。
「ええ。僕もです」
言いながら、アシタカが思い浮かべたラステルの目は不信感と怯えの若草色か憎悪
昨晩のアンリとティダのやり取りが蘇り、微かに胸が痛んだ。嫉妬ではなく羨望。セリムとラステルの関係が正直なところ羨ましくてならない。隣に絶対的な支えがいる。アシタカが失い続けているもの。そっぽを向かれ続けてきたものだから、虚無感を突かれる。
「尊敬している、羨ましい。そういう真っ直ぐな目が好きだ。大自然に憧れる者で、そういう優しさ溢れる者に人的支援をしてもらえたら、争うよりも手を握ろうと思えないだろうか。一方的な押し付けではなく、苦楽を共にしてくれる者。支援者が、故郷よりも自分の国を好きかもしれない。そう思ったら、自らの国を誇り、ペジテ大工房にも敬意を示せる」
具体的提案ではなく、感情論ですがとシュナは申し訳なさそうに続けた。しかしキラキラと輝くような声。
「与えるのではなく、共に育む。それならばペジテ大工房の誇りは守れそうだ。しかし理想論。でも僕はこういう提案が好きです。思いつかなかった。やはり人に意見は求めるものですね」
湯を沸かし、紅茶を飲もう。二人で国の行く末を憂い、語り合った。あんな風にまた話をしたい。通信機を持って立ち上がったが、通信機の向こうでシュナが小さく朗らかに笑ったので足を止めた。
「パズー殿がとても私を心配してくれています。セリム殿とティダが好き勝手して、最後に私へ仕事を押し付ける。君なら出来ると決めつけ担ぎ上げる。セリム殿は無意識、ティダはわざと。アシタカ殿と同じ目に合う。だから相談した方が良いと進言してくれました」
へえ、パズーがとアシタカは台所へ向かった。確かにセリムにはそういうところがある。貴方は素晴らしい、出来る、信じている。セリムに言われると自分はそういう人間だと錯覚し、力が湧く。天然の人
「それで僕に後悔が無いか知りたかった。いや、パズーの心配を有り難く感じ、とりあえず僕と話をしようと思ってくれた。僕にはそう聞こえますけど、どうです?」
迷ったが最後に一言増やした。決めつけないように、アシタカが今一番気をつけようと心に留めていること。意識しないと難しい。
「死ぬかもと思った時に、アシタカ殿のあまりにも穏やかだった姿が浮かびました。母に似た安心感。これから何があるか分からないので、もう一度話をしたかった。それが一番の本音です」
アシタカの手から通信機が落ちた。昨晩、シュナが変わろうとしていると知った。それを今、強烈に感じる。そのきっかけの相手が誰だか分からないのに、激しい妬みが湧き上がった。
セリムかティダだ。もしくは二人共。同じように国を背負おうとしているのに、アシタカには無い、人を導き、鮮やかな未来へと連れて行く力。シュナが変われば、その下の多くの民に光が注がれる。いや、人一人をこんなにも大きく変化させられるということだけで単純に羨ましい。彼女は相手をずっと慕うだろう。
「アシタカ殿?大丈夫ですか?凄い音がしましたが⁈」
思わぬ動揺で手が震えた。通信機を拾い上げて大きく深呼吸をした。
「すみません。嬉しくて茫然としてしまいました」
しばらくシュナから返事がなかった。静まり返る部屋に、冷たい空気。隣にいるわけではなかったのに、また
「私は逃げたくても逃げない。それが私だ。そうありたいんです。ノアグレス平野でも、もっと励めばよかったというのが一番強い感情でした」
いつでも支援する、逃げてきても良いと告げてはみても、アシタカにはシュナがペジテ大工房に来ることはないだろうなと心の片隅で感じていた。やはりそうか。病で蝕まれている体で気丈に国を背負い、逆風に進もうとする。何て強い。しかし怖いとアシタカを頼ってくれた。心配してくれたと言うから、ラステルやパズーにも頼ったのだろう。彼女はちっともアシタカとは同じではなかった。
シュナは誰よりも助け合う事の大切さと有り難みを、誰よりも知っている。自然と苦笑が漏れた。こんな自分が人を変えたい、ましてや国を変えようと熱望しているのが
アシタカが口を開くよりも早く、シュナが続けた。
「死ぬかもしれない。だからもう一度、貴方と話をしてみたかった。きっととても心配し、心を軽くしてくれる。初めて会った時の貴方の
見えないのに、シュナの骨ばって厚みのある手が優雅に通信機の電源を切る映像が浮かんだ。
「待ってくれ!」
自然と叫んでいた。
「シュナ姫、本当は僕を心配してくれたんではないですか?昨晩のやり取りでもそう言っていた。僕に余計な心配を掛けたくないと言ってくれていた。ティダがアンリに何かするというのを、僕に聞かせるためにララ達が用意した通信機を盗んだのも知っていた」
アシタカの様子を探り、シュナは取り立てて気にしていないと判断した。しかし先程言ってくれたのは心の底からの感謝で間違いない。でなければこんなにも胸に響かない。嫉妬相手が自分と三つ子の妹達とは、読み間違えもいいところだ。シュナがこんな風に自分達を慕ってくれているなんて、夢にも思ってなかった。
「鋭い方だ。しかし弱音も感謝も本心です。それにセリム殿とティダが結託し、国を背負わせようと迫ってくる。ティダは支えてやるから俺の為に成せという脅迫。セリム殿の目は好きだが、ティダ以上に恐ろしくてならない。あれも無意識なんだろうが、やれることがあるのにしないのは愚か。貴方なら出来る。大丈夫だ。あれも一種の脅迫だ。パズー殿によれば、父にまでそんな態度だったらしい」
あー、とアシタカは固まった。記者会見前にアシタカに迫ってきたティダと、連れてこられたセリムを思い出した。ティダがせっつき、セリムがさあやろうと手を差し出す。あれは中々しんどい。清々しかったが、前途多難でますます悩むだろうと感じた。現に今がそう。使命感とやる気と自信が溢れるが、途方もない疲労感も感じてならない。特にこんな、一人だけの夜は。
「昼間ティダから連絡がありましたよ。これからドメキア王国に入るという報告がついで。何がどうなったか知らないが、アンリと結婚すると僕に自慢してきた。敵対心丸出しで可笑しかった。あんなに自信家なのに嫉妬深いとはね」
え?と間抜けな声が聞こえた。シュナではなくアンリの声だ。
「何だ、居たのかアンリ。もしかしてラステルさんも?」
「意外に気がつくのが遅かったわね、アシタカ」
続きがありそうだが、上から重ねるようにラステルの声がした。
「私達大親友になったし、ここは危ないらしいから三人で離れないのよ。あとスコールさんとアピ君。部屋の前には番犬が沢山いるわ。二匹だけ大狼だけど。シュナ姫とアシタカさんの話に口を挟めなくて、盗み聞きみたいになってごめんなさい。私達、順番にアシタカさんとお話ししたかったの」
言い終わってからラステルが「あー」とやらかしたというような声を出した。
「人の話を遮ってはいけないってお父さんに注意されたの。ごめんなさいアシタカさん。セリムのことで相談があるの。でもアンリが先だったわ。アンリ、どうぞ」
どうぞ、と言われて改まると話にくい。しかも何か話題の途中だった訳でもない。アシタカは思わず吹き出した。それから、ラステルという女性はこのような人だったのかと笑みが漏れた。蟲の民、蟲の女王ではないかという
信じることは難しい、しかし先に心を開けという父ヌーフの叱責がした気がした。ラステルに心を閉ざして不信感を突きつけていたアシタカに対する、ラステルの返答がこれ。笑いがおさまらない。アシタカはしばらく笑い続けた。
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