アシタバ蟲森からの復讐蟲2
揺れに揺れる船。何かが落下した音が無数にして、シュナはゼロースの脇をすり抜けて甲板に飛び出した。
「何だこれ……どういう……」
床に散らばる魚の大群。船を取り囲む巨大な昆虫。
ギギギギギギという鳴き声に、唸るような低い羽音で
「ラステル!」
返事が無く、誰も見当たらなかった。足が悪いのに揺れる船、四つん這いのようにしか歩けない。
「シュナ姫様!」
ゼロースが絶叫のように名前を呼んだ。
船内に全員避難と言いながら、甲板に残ったセリム達。何故危ないのにラステルは残るのを許されたのだろう。ゼロースの心配よりもシュナはラステルを探した。
「ラステル!大丈夫なのか⁈」
叫んでも返事がない。蟲に蟲と思われている娘。蟲かもしれないと話した女。こんな蟲の大群が現れたら、無事ではない筈だ。
大きく船が揺れ足を止めた。海から登る鉛色の鱗が並ぶ大きな蛇に似た巨大生物。海にも蟲がいるのか?それとも魚の仲間なのだろうか。うねっているが海上へ頭も尾も現れない。ゼロースが
「シュナ姫様、戻ってください!」
呼ばれた事に気を取られて、誤って小さな魚を踏んづけて後ろ方向へ倒れた。奇形で盛り上がった背骨が床に強く打ち付けられる。あまりの激痛にしばらく動けず、態勢を整えて立ち上がろうとした。気がついた時には、目の前に
真っ赤な瞳が三つ。羽が作る猛風で薄目しか開けられない。
化物。
何という化物。
--シュナ、蟲に手酷いことをしてはなりませんよ
--蟲は草食です
--蟲と争えば世界は滅びへ向かうのよ
--酷いことはしてはいけない。当たり前のことなのに
--見た目は怖いですけど私達と同じです
鮮やかに脳裏に浮かんだ亡き母ナーナとラステルの言葉。
--見た目は怖いですけど私達と同じです
ゼロースの
「シュナ姫様⁉︎」
床を蹴って
パチンッと弾けるようにラステルの可憐な笑顔、あまりに怯えた悲しそうな表情。それから単にシュナが現れた事だけに驚いていた穏やかなアシタカが現れて、その姿がぼやけるようにティダに変わった。
「避難はどうした。この代償は大きく付くからな」
走馬灯ではなく本人。
ぐるりと反転した視界に覆い被さるように近寄ってきたティダの不敵な笑み。それが引きつった。体が浮いたと思ったら、目の前の床が真っ赤に染まりゴトリと床に何かが落ちた。
回転しながら落下してきた
「ゼロース!蟲に手を出すんじゃねえって言っただろう!」
健康的に日焼けした肌がみるみる土気色に変化していく。
「腕……どうし……」
「何故か止まったな、蟲ども」
ティダはシュナを見ずに周囲を見渡していた。あれ程うるさかったのに静まり返っている。ティダの腕を切り落とした蜂蟲も床に止まってジッとこちらを凝視しているが、殆ど動かない。ティダがコートを脱ぎ捨て、その下の上着を右手で引き千切った。滑り込むようにやってきたゼロースがそれを奪ってティダの肩を止血しはじめた。
「申し訳ありません」
「謝罪などいらん。大きな貸しだ。忘れるなよ」
口角を上げてティダが右手の拳を握り、ゼロースの胸に当てた。倒れそうな程顔色が悪い。尻尾にセリムを抱える
「シュナ姫!どうしてあんな危ない真似を⁉︎」
青白い顔をしたラステルに両肩を掴まれて揺らされる。何も言葉が出てこない。自分の軽率な行動でティダの腕が失われたことに激しい動悸と目眩がして、吐きそうだった。
「そなたが蟲は見た目は怖いが私達と同じだと言ったのを思い出した。私もそなたも化物に見えるが心はある。そうしたら勝手に……済まないティダ……なんてことを……」
大きな目をさらに見開いたラステルが茫然としてシュナの肩から手を離した。
「転んだようにも見えたがやっぱり蟲を庇ったのかよ。なんていう女だ」
左肩を抑えて眉間に深い皺を刻むティダがシュナの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。それから無表情で涙を零したラステルの頭に手を乗せた。
「お前を化物と罵った愚行への罰だな。二人して良くやった。ヴァナルガンドが丸腰で静かに語りかけろと言ったが暴れすぎて無理だろうと困っていた。ったく
船の揺れが止まっている。船べりに所狭しと止まっている蜂蟲、そして消え去った他の蟲達。海でうねっていた生物も見当たらない。
立ち上がったティダが床に置いていた
ティダは更に腰の短剣を鞘から抜いて床に突き刺し、屈んだ体でズボンの裾から筒のささったベルトを取り出した。それから靴も脱いで放り投げた。普通の靴よりも重そうな音がしてゼロースが持ち上げようとしたが、かなり力を入れないと持ち上がらないようだ。その間に左右のポケットから細い棒も何本か取り出して床に投げていた。
「うへー、あいつ幾つ持ってるんだよ」
自身の腕を切り落とした蜂蟲に向かってティダが右腕を上げて歩いていく。
「何しに来たんだか知らんが手負いで丸腰。これで話を聞かないなら化物として駆除する。船が襲われる理由は思いつかん」
ティダの後をアピが追った。それからアピがティダの頭の上に乗った。震えて黄色い三つ目をしているアピに真紅の鋭い眼光の蜂蟲。ティダが右手で頭上のアピを掴み前に出した。
「子を怯えさせる恥晒し。ヴァナルガンドと何の話をしたか聞いていないが病人を責め立てたのなら愚かである。不用意に力を振りかざし、自分を庇った者を殺そうとした。その善人を救おうとした俺の腕を切り落とした。振りかざした暴力を止める自制力も無いのか。わざとなら、殴られようとする者にそのまま手を挙げるなど侮蔑する」
淡々と述べてはいるが、ティダの静かな声には迫力があった。
「何であんな上から目線なんだよあいつ……」
震えるパズーが呆れたようにため息をついた。
「でも聞いているみたい。悔しいって感じがするわ」
ラステルがしまったという顔付きでシュナを見た。
「シュナ姫、あの……」
「前にも聞いたが、誤解せずに済んで羨ましいな」
ラステルが目を細めて溜まった涙を堪えている。
「ティダはああ言ったが単に同情しただけだ。醜い化物というだけでほんの108回も殺されかけたからな」
嘘だがある意味正しい。権力争いの末の謀殺だが、単に異形で疎まれていたというのもある。ラステルが何の迷いもなくシュナのゴツゴツした手を取り、悲しそうに首を横に振った。
「数と圧倒的実力差で有無を言わさず襲いかかる。人を見張ると聞いたが人よりも下等か。釈明があれば聞きたいところだが生憎俺はお前らの声など聞けん。よって弁明の代わりは住処への帰還と交換しよう。大人しく素直に去るのならば、悔い改めたとし全て水に流す」
ティダの前の蜂蟲がギギギギギギと鳴きはじめた。無数の真紅の瞳はティダ一人に注がれている。
「侮辱され過ぎて怒ってるんじゃないか?交渉下手かよあいつ」
「ええ多分怒っているわ。どうしてこんなにも分からなくなってしまったのかしら……」
ラステルが悔しそうに唇を噛んだ。それから
「蟲とラステルが仲が良過ぎて嫉妬して、セリムが何かしたんじゃないか?」
冗談かと思ったらパズーがセリムへ投げる視線は真剣そのものだった。
「まさか。何を言っているのパズー」
「ラステルが好き過ぎて蟲の家族になるとかあいつはラステルに骨抜きだ。さっきもずっと自分から離れるなってうわ言。絶対そうだ。目が覚めたらシュナ姫にまで焼きもち焼くな。心が狭すぎる」
うーん、とラステルが首を捻った。
「確かにセリムは変だけど……」
「セリム殿は確かにお妃様への恋慕がかなり強い……」
鳴く蜂蟲が増えていってゼロースの言葉が遮られた。
「身に覚えがあるとすれば作戦に使おうと子蟲を盗んだ。盗まれたがな。そいつは俺の部下の子蟲殺し。俺の不手際である。しかしこの船全体、ましてやお前らを助けろと言ってノアグレス平野を駆け回った男とその妻ごと沈めようというのなら理由は違うのだろう。だから謝らん!俺の愚行は責められていないと判断する!」
あまりに蜂蟲の声が大きくなっていくので、静かな声だったティダは叫びに変わった。子蟲を盗んだ?何の話だ。
「引かないなら争うのみだ!生存競争は自然の摂理!生き残る為なら何でもする!俺の背に乗る無数の命とその先の未来、それと化物の子一匹とじゃ比較にならん。いいか、化物としか思っていない!理不尽に暴れ出し他者の領域を踏み
蜂蟲が一斉に羽を広げて飛びはじめた。その場で空中静止しティダを睨むように凝視し続けている。
「あんなこと言われたら怒るだろ。思いやりとかないのかよ。しかもカールに殺された子蟲ってティダが連れてきたのかよ。どういうことだ?」
パズーが震えながらシュナを見た。ラステルもシュナに目で問いかけている。
「知らん。元々、蟲の後方にいる第二軍へ蟲を襲わせるという作戦だった。ティダが扇動すると言っていたからその道具にということだったんだろう」
"道具"と口にした途端、ラステルの瞳が
シュナの顔の横を風が通り過ぎ、ベシャリとアピがラステルの顔に張り付いた。
「子蟲君!また何をしているんだよ!」
パズーがラステルの顔からアピを引き剥がした。それから触れるのが嫌なようで勢いよくラステルに押し付けた。
「この子蟲はラステルの護衛と聞いた。意味があるのだろう。この状況でティダの面倒も見て子供なのに偉いな」
シュナは恐る恐るアピの胴体部の産毛に触れてみた。確かにふわふわだ。しかし可愛いとは程遠い。触覚がシュナの手をペチペチと叩いたのでシュナは手を引っ込めた。
「ありがとうアピ君。分からないけどきっと大切なことなのね」
離せというようにアピが身をよじったのでラステルが腕を緩めた。飛び立ったアピがシュナの頭の上に乗った。突然過ぎて避ける隙もない。前脚がさわさわと髪をかいてくすぐったかった。嫌われている訳ではないらしい。
「俺と争うならロトワの大狼も黙ってねえからな!」
ティダが叫んだと同時に
「引け!一旦引いて回復してまともに話せるヴァナルガンドを通して正式に告発せよ!それならこの腕どころか心臓を捧げることも考えよう!この世は因縁因果、無知と誤解とはいえ理由が正しければ許しを乞わずに黙って刺されるのが大狼だ!しかし納得せずには死なん!俺は大狼の帝を名乗る、この世の頂点!生き様には常に矜持を抱く!」
空気を揺らすほど
蜂蟲は
「推測では真の謝罪など出来ん!一方的な
素足を床に踏み鳴らしたティダがずっと頭上に挙げていた右手を下ろし、胸の前で拳を握った。
「待て!何をしている!」
寝ていたセリムが苦しそうに起き上がって、掠れ声で叫んだ。
「無茶するなよ。こんな高熱で……」
「セリム……、無理しないで……」
セリムを支えたパズーとラステルにセリムは、力なく小さな微笑みを向けた。セリムの紫色の瞳と目が合う。波が押し寄せるように懐かしさと穏やかな青が現れ、ラステルと良く似た若草色に変化した。
一瞬だった。紫色の目になったセリムが、ラステルとパズーをそっと押し退けてティダの方へと歩き出した。
「待てティダ、何がどうしてこうなった。腕はどうした!静かに話せと……」
ティダの前に蜂蟲が集まっていく。
前方の蜂蟲の左側の前脚が、隣に飛んできた蜂蟲に引き千切られて、緑色の体液の飛沫が床を染めた。蜂蟲が次々とギーッという悲鳴のような声を上げる。重なるようにセリムが吐くように体を丸めて左肩を抑えた。
蟲は同族と繋がっている。セリムはそれに加わっているから自らを蟲の民と称したのか。シュナはラステルが話した"蟲に蟲と思われている。蟲かもしれない"という信じがたい発言を今更ながら理解した。
「ヴァナルガンドが蟲と話すというのはこういう事か。大狼の開心術と似てるな」
高笑いしたティダと、その後の余りにも信じられない光景に驚愕してシュナは目を丸めた。
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