毒蛇の巣への出航2

 焦点が遠くなったセリムの顔の前にティダは手をひらひらさせてみた。反応無し。パズーが駆け寄ってきて、大狼ヴィトニルの様子を恐々とうかがいながらセリムの顔を覗き込んだ。


「あー、よし早く出航しよう。セリムはそっとしておこう」


 パズーが引きつった顔でティダへ懇願の視線を投げた。


「いや、やる事がまだある。どうしたんだこいつは」


 ティダはセリムを親指で指差した。パズーが素早く首を横に振った。


「何でもない。早く行こう。早く!」


 大狼ヴィトニルがセリムに軽く吠えた。伝心術の扉はとうに閉じている。無表情でわなわなと震え初めたセリムに嫌な予感がした。付き合いが長そうなパズーの忠告を聞いておけば良かった。まだ間に合うとセリムに背を向けて帆船へ乗船することにした。


帝狼ていろうだって!僕に名はつくのか?それにリーダー直下⁈僕はスコールが囲う小さな群れではなく大群入り!なんという光栄の極み!しかし、どういうことなんだ?大きな群だと何が違う?人が大狼を率いるというのはどういうことだ?ティダ、お前はどう育った?ずっと聞きたかったんだ!王の大狼ヴィトニル、僕も背に乗っても構わないのか?その毛な……んぐっ」


 追いかけてきて、弾け飛ぶようにセリムが喋り始めた。セリムの口をパズーの手が塞いだ。しかしそれを振り払ってセリムが王狼ヴィトニルの前にしゃがみ、くっつきそうな程顔を寄せた。友を見捨てる訳にはいかないのでティダは一先ず足を止めた。


「ヴィトニル、もう一度話しかけてくれないか?聞きたいことが山程ある。蟲と同じ原理なのか?蟲もまだ解明出来ていないのに!なあ僕も何とか狼になるんだよな?海は泳げるのか?エラがあったりはしないよな?"若輩へ共に背を見せよ"ということは僕も……んんん」


 パズーが再びセリムの口を押さえた。しかしまたすぐに振り払われた。セリムがパズーに文句を言わず、王狼ヴィトニルに詰め寄っていく。ティダはパズーに目配せした。パズーが肩を竦めて大きく首を振った。仕方なしにラステルへ視線を投げた。スコールの尾をさわさわと撫でるラステルが小さく首を横に振った。それから苦笑いを浮かべた。


 二人揃って手に負えないと顔に描いてある。王狼ヴィトニルの手前笑えないが、込み上げる笑いを堪えるのは一苦労だった。どうだ、御してみろよとティダは王狼ヴィトニルに向かって口角を片方上げた。


「小さな群れのリーダーは君たち大群のリーダーに従うということでいいんだよな?直下とはどういうことだ?僕も小さな群れを囲うことを許されるのか?それなら僕がラステルやパズーを囲うのに。なあ教えてくれ王たる大狼ヴィトニル。知りたいことが山程ある。スコールは何処から来た?君も元はそこにいたのか?」


 少しずつ後退する王狼ヴィトニルと、砂浜に手をついてジリジリとにじり寄っていくセリム。猫のような大きな目が興味と好奇、そして喜びに満ち満ちている。王狼ヴィトニルが拒絶の為に前脚で威嚇しようとした瞬間、セリムがサッと立ち上がってティダに飛びかかってきた。あまりに突然過ぎて危うく逃げそびれるところだった。


「何か事情があるのかもう話しかけてくれない!君なら大狼の全てが分かるのだろう?教えてくれ!僕はリーダー直下なのだから必要な筈だ!帝狼ていろうだなんて素晴らしいじゃないか!大……っ?」

「教えてやるから一旦黙れ」


 熱気を帯びて迫ってくるセリムを追い払おうと腕を振った。トンッと一歩後ろに飛ぶとセリムが背筋を伸ばして直立した。


「ありがとう。あまりにも衝撃的でつい興奮してしまった。よろしく頼む」


 破顔したセリムの海のような深く青い目が早く話せ、聞きたいと訴えてくる。これは掌で転がす好機。王狼ヴィトニルが遅いと言わんばかりに尾でティダの背中を叩いた。割と力強く。


「大事な話だけしようセリム。俺とヴィトニルはお前を信頼して直下とする。庇護対象ではなく信頼し、自らと幼き仲間を守れると認めたということだ。かつ後継を育ててくれる偉大で力も知恵もある者しか直下にはなれない」


 夢中という様子でセリムがふむふむと頷く。何やら自尊心が傷ついていそうなので、くすぐるのは楽勝。素直に下についてくれるようだなと胸の中でほくそ笑んだ。


「俺はまだお前の力量を知らん。何処まで何を任せて良いのか采配しかねる。そこで軽く手合わせしようではないか。そして名を与えよう」


 途端にセリムが顔をしかめた。人の下につくのが気に食わない、それは予想と少し違った。方向転換が必要かもしれない。


「手合わせの前に教えて欲しい。大狼の生態、語り合い方、故郷に食事。エラは無いんだよな?サメの歯と類似するのはどうしてだ?心が繋がったのは蟲とも縁があるのか?名を与えるというのは儀式か何かか?何を元に名を決めるんだ?ティダ、君はどうやって群に入って帝の名を得たんだ?大狼は沢山いるのか?ヴィトニルは人の君と生きている。そして別の大狼が偽りの庭にいた。だから僕はスコールと会うまでは絶滅種なのかと勘違いしていた」


 質問が増えた。目が据わっている。幸いにもティダの下につくことなんて全く気にしていないようだ。七面倒なことに知的好奇心が満たされないのは相当嫌らしい。大狼を途轍もなく気に入った様子。セリムの大狼に対する好奇心に底はなさそうだ。月狼スコールを連れてきたのは諸刃の剣だったかもしれない。


 ここでティダが上手くセリムを御せないと月狼スコールの尊敬が減る。下手すると知らぬ間に堕ちたかと侮られる。ふむ、とティダはセリムをどう制御するかと思案した。


「そうだヴィトニル、僕と海を泳がないか?しなやかな筋肉は力強く波を蹴るだろう。泳げるのか?その雄大な姿を見たい。もし泳いだことがないのならば僕が指南しよう。君ならあっという間だ!魚は食うのか?でもその前にやはり君にエラがないのか確かめさせてくれないか?犬とは体躯が少し違……何だよパズー!邪魔をしないでくれ!」


 パズーが散歩に行きたい犬のリードを引っ張るようにセリムの腕を引っ張った。王狼ヴィトニルはセリムに迫られてうんざりしているが、自ら蒔いた種だと受け入れている。しかしもう語りかけるつもりはないと扉を固く閉ざしていた。ティダに全部押し付けるつもりだ。男らしくないぞと王狼ヴィトニルをチラリと見たが、背中を尾で殴られただけだった。


 同時に投げつけられた視線、そこに含まれる意味にティダは頭を掻いた。


「落ち着けセリム。これから船旅だ。ほらあんな巨大な船を風で操るんだから楽しそうだろう?あの船を風で力強く壮大に操作できるんだ!ティダも大狼もこれから一緒に行くし、少しずつ一つずつ聞けばいい。短い説明でこの誇れ高い大狼を理解出来るのか?」


 まるで泣き出した赤子をあやすようにパズーがセリムに告げた。よし、あいつはやはりセリムの世話係。気の置けない相手、そして付き合いの長さというのは大切だ。パズーがセリムとティダの間に入った。セリムが巨大帆船に目を向けて瞳を輝かせた。しかし一瞬だけで眉間に皺を寄せてティダへ唇を尖らせた。世話係は毎回役立つ訳では無いようだ。


「船は楽しみだ。しかし今は大狼なんだ。ティダは教えてくれると言った。男に二言は無いだろう?」


 まるでおもちゃが欲しいとゴネる子供だ。ティダを挑発しているのは計算だろう。王狼ヴィトニルが先程の仕返しと言わんばかりに鼻先でティダの体を小突いた。


 それからまた尾で背中を殴られた。先程よりも強く。


「そうだ。その通りだ。二言なんてない。だから後でゆっくりと、多く、長く話してやろうという訳だ。聞きたいことが山積みなんだろう?今は時間が足りない」


 何でもかんでも信じる男かと思っていたが、セリムが懐疑の視線をティダに注いだ。王狼ヴィトニルがティダを見上げる琥珀色の瞳。その親愛に胸が射抜かれる。


 覚悟を決めろと訴えている太陽に似た目に、ティダは素直に頷けなかった。


「ならば少しにしよう。一問一答。詳細は後で語り合おうではないか」


 不信に満ちたセリムの瞳は変わらない。経験なのか本能なのかは不明だが、セリムという男は偽りに騙されない男だとは思っていた。実際そのようだ。


 月狼スコールに侮蔑されずに華麗にセリムを制御する。素直に要求を飲む姿を月狼スコールに見せる訳にはいかない。月狼スコールの目がティダとセリムどちらが真のリーダーとなるのかと観察している。今乗り切ってもセリム相手ならば、いつか綻びるだろう。


 ティダはセリムに一歩近寄って胸倉を掴もうとした。さらりと避けられた。思わず舌打ちが出そうになった。最初からでないとならないようだ。


 ティダの本音を王狼ヴィトニルは察し、腹を括れと先にセリムへ踏み込んだ。


 覚悟を決める。


 ティダは偽物の笑みを捨てた。セリムが少し目を丸めて微笑んだ。不信感がパッと消えて無くなった。驚きが沸き起こったが、同時にやはりなとも感じた。


「先に大事な話がある。耳を貸せセリム」


 手招きするとセリムは素直に少し腰を下ろしてティダに耳を出した。セリムの腕を掴んでいたパズーを引き剥がし、月狼スコールの方へと放り投げた。意図を汲んだのか、セリムは黙ってそれを眺めるだけだった。


 セリムがソワソワした様子で真っ直ぐティダを見据えた後にもう一度耳を差し出してきた。全身から期待が滲んでいる。苦笑が出そうだった。


「俺はこの世の全てを掌に乗せ、囲う。救いようのない屑はなぶり殺し食い殺す。一人では成せないからどんな手を使ってでも手駒を増やす。手段は問わねえ。しかし俺はお前をどうも手駒とは割り切れん。王狼ヴィトニルがセリムを俺の友にさせたいと望んだ。俺は正直迷惑だ。ついでに質問の嵐も面倒だ」


 静かに秘め事のように囁いた。実際他の奴になど聞かせたくない。


「救いようのない屑、そのような者は居ない筈だ」


 渋い顔でセリムが囁き返した。この世の穢れを目の当たりにしたセリムを見たい。ティダとは全く異なる答えを出すだろう。一般世間とも全然違う道。セリムはそういう男だ。そう感じることが王狼ヴィトニルの言う"フェンリスも何度でも変われる"ということだ。


 王狼ヴィトニルが力強く三度吠えた。


--人里で生きろフェンリス。


 月見酒の席での友の声が蘇る。あの言葉は正確には"人と向かい合って本気で生きろ"だろう。正直、変化を受け入れたく無い。しかし親愛なる唯一の親友にして家族、王狼ヴィトニルを無下にするのは男が廃る。ティダよりもティダを理解してくれて寄り添ってくれるこの世でたった一人の者。


「セリム、俺とお前では見える世界が違う。永久とこしえに大狼。永狼えいろうに破壊のヴァナルガンドと名付けよう。俺はお前にその名を付ける。俺の価値観や生き方を壊すだろうからな」


 本人に対して、それも女ならいざ知らず男にこんなあけすけな台詞。人に対しては何年振りだろう。嘘偽り、道具としてならいくらでも吐けるが本心となるとむず痒くてならない。


「俺と月狼スコールの為に引いて欲しい。それから今後の為に力量を知っておきたい。面倒だから質問は一日一つくらいにしてくれ。後、全てを語るほどお前を信頼していない。


 一点の曇りもない信頼の眼差し。屈託のない無邪気な笑顔。ティダはセリムから離れた。今度は大きく周囲に聞こえるように声を出す。


「分かったか?答えてやるから手合わせしろ。勝ったら好き放題質問に答えてやろう。不敗の俺を砂に転がせたらな」


 この言葉がどういう意味なのか即座に理解してセリムは愉快そうに、そして嬉しそうに微笑した。


「ああ分かった。言っておくが容赦しない。それで良いんだよな?」


 先程までとは打って変わって、呆気なくセリムは引いた。不満もなさそうに。何の計算や打算も見受けられない様子で。本当にこんな男はどうやって育ったのだろうか。


 ティダはいつも通りの態度で投げ飛ばしたパズーに近寄った。横を通り過ぎた時、セリムが照れ臭そうにはにかむのが見えた。背中がむず痒いし心底うんざりした。こんな歯が浮くような本心からの台詞、極力口にしたくない。


「おいパズー。全然こいつを制止出来てないじゃないか。折角お前に腹を見せる振りをして奮い立たせてやったっていうのに役立たずな世話係だな」


 パズーが鳩が豆鉄砲を食らったようになった。


「こんな妙な奴、世話係でもいないと迷惑だ。ついでにお前の軟弱さも確認する。先にかかってこいパズー」


 複雑な表情を浮かべてからパズーが逃げ出した。


「逃げ足は速め!己の力の小ささを知り無理はしない。それが俺!」


 叫びながら月狼スコールの前まで逃げたパズー。かなりガッカリした様子だ。


「誰が軟弱男に心を開くか。うっかり隙を見せたようなのも全部嘘。早く見る目を養えひよっこが。その価値があるとは思ってるんだからな」


 ぶすくれながらもパズーはティダに羨望の眼差しを向けた。期待をしているのは本心だ。しかし別に知られたいとも吐いた言葉を信じてもらいたいとも思わない。虚構に真実を織り交ぜ自分に有利になるように、目的が果たせるように話す。


 真の腹の底を見せる相手はこれより王狼ヴィトニル永狼ヴァナルガンド


 何故かラステルがすごぶる嬉しそうにパズーの腕を掴んで何かを耳打ちした。


 セリムがから近寄ってくる気配がした。ティダは大人しく肩を叩かれた。セリムが全て理解したというように満面の笑みで砂浜の向こうの方を顎で示した。


 ティダは軽く鼻を鳴らし、舌打ちを一回、そしてもう一度鼻を鳴らした。


 合計三度。


 王狼ヴィトニルが満足そうに目を細めてくれた。

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