犬猿の仲と手厚い歓迎

 少し前


***


 セリムは相対するアピとアスベルを見守った。怪我した迷い蟲を即殺したアスベルは有無を言わさずアピを殺しにかかると思っていたが、セリムに問いかけてこんな風にアピを観察するくらいには冷静を保っていてくれている。そのアスベルに上から目線で価値観を押し付けるつもりはない。


「セリム、この蟲は何だ?蟲と親しくなったとは手懐けたということか?」


 アスベルはアピから目線を逸らさない。おまけに腰元の剣をいつでも引き抜けるようにしている。しかしセリムもアシタカの姿を見てからずっと体を動かす準備をしているので同じだ。


「僕の家族です。蟲は化物ではありませんでした」


 ピクリとアスベルの眉毛が微かに揺れた。何か言いたげなラステルの腰をトントンと叩いてセリムは待てと伝えた。汲んでくれたのかラステルは唇をきつく結んだだけだった。


〈ゴヤアピスを殺した奴だ。でも長く苦しまずに助かった。殻も使ってもらった。こいつに嫌われていて怖いぞ。ゴヤアピスは凄く痛かった。でもセリムは先生って言ってた。セリムはゴヤアピスの輪にも入っているからセリムに従う〉


 アピもセリムの気持ちを汲んで目を真っ赤にしながらもジッとアスベルを眺めている。怖い怖いと恐怖が押し寄せてくる。ゴヤアピスの輪?ラステルの故郷かもしれない地。グルド帝国領地にあるという蟲森。何故セリムがそのゴヤのアピスの輪にいる?アピはアスベルに夢中なのかセリムが心の中で問いかけても返事をしない。


「先日この国に大量の蟲が現れた」


 偽りの庭、アシタカの昔の部屋で休んでいた時に感じた祝福と感謝を蒔く家族の想い。きっとそれだ。


「どうでした?」


 セリムを見ずにアスベルは眉間に皺を刻んだ。


「美しい夜だった。森の上から煌めく結晶を投げて帰っていった。ユパがお前が何かしたその礼だろう、化物ではない筈だと言った。ならば我が祖国や旅中で見た村々は何故滅っされた」


 わなわなと怒りを抑えようと震えるアスベルの瞳に憎悪がたぎる。セリムは思わぬユパの信頼に胸が詰まった。


〈殺された。殺された。みんな殺された。牙には牙だ。知らないけどそう言ってる!〉


 ギギギギギとアピが鳴き始め、アスベルが剣の柄を握りしめた。


「拳を振り下ろされた人が抗うのと同じです。人の理屈と蟲の理屈は違う。彼らにとっては人の罪に等しい反抗をしただけです。アスベル先生の大陸は何か恐ろしい所業を犯した」


 セリムはアスベルの腕を握って押さえつけた。本気なら振り払えるだろうがアスベルはなすがままだった。


「私は知らん!何故巻き込まれた!大陸が丸々滅ぶほどの罪などある訳がない!人だけでなく他の生き物もいたんだ!」


〈死んでないや!悪い奴だけやっつけた!あとは見逃した!巣にだって入れてあげたんだ!嫌だよセリム。セリムの近くは人の言葉がはっきりするから怖いよ。おこりんぼは嫌だ〉


 アピがセリムの胸元にしがみついた。


「先生、これからこの大陸の時代が変わる。落ち着いたらアシタカに頼んで見に行きましょう。先生の故郷。滅んでなどいないらしいです。歴史もそれを証明している。人は強い。そして蟲もとても優しいんです。この子は先生が殺した蟲の痛みを感じてます。蟲はそういう風に繋がっているんだ」


 ラステルがセリムからアピを引き剥がして胸に抱きしめた。それから優しく撫でた。アスベルの体から力が抜けた。

 

「そのままで良いです先生。悲しみも憎しみも消えない。けれども貴方はそれに染まりはせずにこの子を見逃した。蟲が人里に襲来したら即座に殺せという自身の教訓を破ってまで耐えた。僕の誇りオルゴー。貴方は僕を共生へと導いた一人です」


〈偉い子なのか。なら嫌いな匂いだけど安心だ。セリムがいると皆おこりんぼにならない〉


 アピがラステルの手から飛び出してアスベルの頭上を旋回しはじめた。まだ目が赤いがだいぶ薄くなっている。


「本当に不思議な子だ、お前は。それに……」


 やっとアスベルがセリムを見てくれた。ギラギラする憎しみの目はそのままだが諦めたという様子だった。アスベルがラステルへ向き合った。セリムが促す前にラステルがグッと胸を張った。


「蟲に蟲と間違えられているセリムの妻ラステル・レストニアです。故郷はホルフル蟲森タリア川ほとりの村、家族は養父の唄子ヴァル。そしてホルフルの民大蜂蟲アピス。兄弟の中で一番出来損ないで末蟲すえむしの姫と呼ばれています。理由はさっぱり分かりません。でも多分人です。ご報告とご挨拶が遅れてしまったご無礼をお許しください。そして秘密を共有してください」


 セリムは思わず「あー」っと声を漏らした。また勝手な事を。この軽々しい口はどうにかしないとならない。アスベルが理解不能という様子で固まっている。


「ラステル……」

「セリムの先生よ!お父様やお兄様やお姉様にも話すわ!嫌よ私、家族にペジテのお姫様なんて大嘘つき続けるの!他の人には黙ってるけど絶対嫌!信頼出来る人に心を閉ざすなんて絶対に嫌!」


 ぷいっと顔を背けたラステルも可愛いなとかつい変な事を考えてしまった。それからこんなだとまた尻に敷かれると戦々恐々とした。アスベルが噴き出した。


「信頼をありがとうラステルさん。セリムをよろしく頼む。直動的なのは似た者同士のようだが気をつけなさい。大事な秘密はせめて人の耳がない閉ざされた場所でするものだ」


 諭されてラステルがしゅんと萎れた。またアスベルが愉快そうに笑ってセリムの腕を叩いた。


「さっぱり分からん。俺は後でユパから聞くからな。お前がきちんと説明をしてやるんだぞ」


 アスベルが赤鹿に跨った。


「勿論です先生。ラステルが崖の国を背負って何をしてくれたのか聞いて欲しいんです!」


 セリムも赤鹿に跨りラステルを引っ張り上げた。連れ立って歩き始めるとアピが赤い目をしたままアスベルの上を飛んでついてくる。


〈偉い子の話は?〉


 アピが囁いたのでセリムも「一番大事な話だ」と囁き返した。


***


 久々の赤鹿でセリムは楽しくて丘を駆けさせた。パズーとリノがアンリ長官とダンを連れて歩いている。少し離れたところをクワトロとヴァルボッサが馬と赤鹿の手綱を握って歩いていた。セリムはその横を通り過ぎた。目が合ったクワトロがウインクを投げたのでラステルを隠した。油断も隙もない兄だ。絶対にラステルに近づかせたらいけない。


「あら大丈夫よセリム。特訓したから自分の身は守るわ!」


 ラステルが拳を前方に繰り出した。


「おいおい兄を殴るのは止めてくれ」


「誤解よ!すんでで止めるの!」


 今度は反対の拳を前に突き出すとラステルがふふふって肩を揺らした。


「兄さんああ見えて結構出来る人だよ。君と戯れるのを楽しんでまたラステルに触るから近寄らないでくれ。無視するといい。あとお兄様と呼ばなくていいよ」


「ヤキモチ?」


 面白そうに振り返ったラステルの若草の瞳がセリムを覗き込んだ。キスしようとして顔を止めた。また怒られそうだ。


「そうだとも。そういう顔をされるとキスしたいんだけど、してもいい?」


 ラステルがぼぼぼっと真っ赤になった。アピの目よりも真っ赤で紅葉で染まるシュナの森と同じ色だ。


「外で、人前で、そういうこと言わないで。はしたないわ」


 ラステルが前方に顔を戻した。俯くのでペジテ大工房の民族衣装に合わせた横流しの髪から覗く白い項が見える。触りたいなと手が動いたがそれも止めた。


「軽くなら普通というか、そのくらいしないと大事にされていないと怒る。それが崖の国の乙女心らしいよ」


 そうなの?とラステルが振り返って疑り深い目線を投げた。


「君に従うよ。人前や外じゃなきゃ良いんだろう?外交時に君を宝物として扱うのは受け入れてくれ。それが崖の国だ」


 赤みが消えていたラステルの頬がまた桃色に染まった。


「セリムって色んな人が中にいるみたい。変なの……。分かったわ。約束する」


 ラステルが憂いた笑みを浮かべて顔を前に戻した。どちらかというと年の割には幼いラステルの大人びた雰囲気にセリムはつい惚けた。赤鹿がその動揺を察したのか速度を上げた。


「……師匠はもの凄く忙しいけどラステルさんと結婚したのに」


 目と鼻の先まで近づいたリノの発言が耳に届いてきた。赤鹿をどうどうと抑制するとセリムはリノ達をぐるりと見つめた。


「師匠!アシタカ兄ちゃんって王子だったんですね!ラステルさんのお兄さんってことですよね?忙しくても結婚できる方法を教えてあげないと結婚出来ないみたいですよ!」


 何の話だ?


〈セリムが離れておこりんぼになりたくない。繁殖期なのに姫が逃げるから祭りにならない。バムバムが助けてくれる。遊ぼう〉


 また訳が分からない事を言っているなアピの奴。パズーが悲鳴を上げた。そして走り出した。


「ひいいいいっ!子蟲君!なんでまた僕の方へ来るんだよ!」


〈バムバム楽しーい!風も沢山楽しい!〉


 アピは相当パズーが気に入っているらしい。みるみる瞳が若草色に変化していく。


「遊んでくれってさ!君のことが大好きなんだよ!」

「僕が遊んであげるよ!待てよパズー!小さい蟲一匹とも遊べないなんて情けないぞ!」


 セリムと殆ど同時にリノが叫んだ。小さくなっていくパズーにアピが懸命に追いついて顔にくっついた。気の毒な程恐怖の混じった悲鳴が轟いたがセリムは腹を抱えて笑った。治りきっていない傷が痛んで呻いてしまった。


「大丈夫セリム?」


「大丈夫ですかセリム様?」


「セリム様?」


 ラステルと揃ってアンリ長官とダンも心配してくれた。


「大丈夫だ。それより何の話をしていたんです?」


 問いかけにダンが気まずそうにしてアンリ長官が拒絶の笑顔を見せた。後でパズーに聞けば絶対に教えてくれるだろうとセリムは拒否を受け入れた。その時空気の匂いが微妙に変わった。見上げると少し雲の流れが変わっている。


「雨が来る。その前に城塔へ行きましょう」


 その発言にアンリ長官は怪訝そうにしただけだったが、ダンが目を輝かせた。


「雨の中を歩いてみたいです!」


 思わずセリムは目を丸めた。


「城の者に傘を用意させよう。それに濡れても良い服も。あと温かい湯や飲み物も支度しといてもらう。確かにペジテ大工房では出来ない事だ」


 大人でさえこれなのだ。セリムもペジテ大工房の街中で胸が踊った。


「いえ、お構いなく!我等は遊びに来たのではありません」


 アンリ長官が毅然きぜんとした態度で首を横に振った。


「いいえ。短い時間ですが楽しんでください。ああ言ってましたけどパズーがこの国を案内しますよ。互いの国の良いところを伝え合う。思い出はこれからの激動に必ず必要になります。アシタカもギリギリまで滞在してくれましたから安心して過ごして下さい」


 アンリ長官の表情が柔らかく変わった。こうよくよく見ると大人の女性だ。幼い子供まで護衛人になれるという平等な国だと勘違いしていたが、そうだペジテ人は若く見えるという。挨拶そこそこでペジテ大工房を出立し、アンリ長官ともダンともろくに話せていない。なるべくジークやユパとの話し合いを早く済ませて彼等にこの国を案内しようとセリムは決心した。


「ん?人だかりだ」


 パズーの背中にアピがしがみついて隠れていた。リノも庇うようにしている。その横を群衆が通り過ぎた。


「セリム様!お帰りなさい!」


「ラステル様!」


「ペジテ大工房からのお客様だ!俺達も留学出来るんですよね!」


「堂々と帰って来た!王は二人を認めたんですね!」


 次々と歓迎と出迎えの声が上がるがあれに捕まると抜け出せ無くなりそうだ。老若男女勢揃い。どこから湧いて出たんだ?まだ帰国してからそんなに経っていない。


「セリム。客人は俺が案内しておく!さっさと城へ行け!」


 後ろからクワトロが叫んだ。


「ラステル、しっかり掴まってて。アンリ長官、ダンさん、また後で!」


 セリムは大きく手を振りながら一気に人垣を避けてレストニア城塔の裏手へと回り込んだ。非難の声と罵声が轟々と上がるのが微かに届いた。


 赤鹿からラステルを下ろすとセリムは赤鹿を撫でて押した。賢いから勝手に小屋へと帰っていくと告げるとラステルは感心したように赤鹿を見送った。


「人気者ねセリム」


「君がついた嘘のお陰さ!嘘も方便ってね」


 ここなら誰も居ないだろうとラステルを抱き寄せた。ヒュッとラステルの拳が顔目掛けて飛んでくる。セリムは反射的にラステルの足を軽く払って体制を崩させて横抱きにすくい上げていた。


「まだまだだねお転婆奥さん。悪かったよ。部屋に入ったら許してくれよな」


 セリムは隠し通路の扉の鍵を探った。


「いいえ。こうなると予想済みよ」


 ラステルがセリムの首に腕を回した。それからそっとセリムの胸元に頬を寄せてきた。


「私、嬉しい。帰ってこれたのも、あんなに歓迎されてもらったのもとても嬉しいわ。ユパ王様私のことラステルって」


 隠し扉をくぐり抜けて地下へと続く階段を降りながらセリムはラステルの額に唇を軽く押し付けた。


「姉さんもいるから明日の朝までもっと沢山の歓迎を受けるよ。だって君は僕の一番の誇りオルゴーだからね」


 潤んだ瞳でセリムを見上げたラステルは可憐だった。今度は唇に軽く唇を寄せて、その後深く口付けした。最初の夜と同じでこの帰国がきっとまた困難に立ち向かう支えとなる。だから今は幸福に酔いしれるべき時だ。


--幸せで胸がいっぱいな時間。大切な想いの結晶


 家族の若草の祈り歌が聞こえた気がした。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る