色とりどりの珊瑚
転びそうなのを支えるために腕を伸ばした。たまたま腰の位置に腕を回した。安定させようとしたら抱き寄せるようになった。
言い訳を並べてみたが、どれも違う。
一瞬を終わらせたくなくて、少し力を入れていたのはわざとだと自覚している。離そうとした時、ラステルの両手が背中に触れたので抱き合うような形になった。
僅か1月少々会えなかっただけで、心底焦がれた。新型マスク開発を常に考えてる日々。
風詠の仕事がない限りはほとんどを蟲森で過ごし研究棟に泊まり込む。兄達に叱られても止められなかった。
あれほど満ち足りていた仕事も研究も、蟲森の散策も、色褪せてつまらなかった。ラステルと会う前ならば何も感じなかっただろう。
「最近、元気ないですね。」
似たような台詞を何度も掛けられた。自分で思っている以上に落ち込んでいるのだ、と気が付いたときに、蟲森で酷く懐かしい姿を捕えた。
再会した時の喜びは予想外に大きな波で、何故という疑問が浮かんだ。ラステルがレストニアに来るのが嬉しくて、手配や観光計画に夢中で保留にしていた疑問。
ふわりと鼻梁を掠めた甘い香。華奢で細い柔らかな身体。自然と腕に力が入った。それからお互いごく自然に体を離した。
ほんの僅か近寄れば触れそうな程に顔が近い。柔らかそうな淡い紅色の唇、滑らかそうな白い頬。紐をほどけばさらりと滑らかいだろう細い髪。
あの日からずっとこんな風に抱き締めたかったんだと理解した。かあっと身体中が熱くなる。
世間ではこれを、きっと。
「ありがとうセリム。」
「いや、無事で良かった。」
「滑るね。もっと気を付けるわ。」
「ああ。」
少し紅潮した顔を伏せて、はにかむように笑ったラステルの手を、 そっと掴んで再び歩き出す。名残惜しいけれど、今日の目的はラステルに秘密の宝を見せる事。そろそろ大工房ペジテからの使者を迎える役目があるので、もうそんなに時間は残されていない。名残惜しくもラステルをパズーとテトに託さなければならない。時間が足りない。
「ここなんだ。少し待って。」
入口からさほど遠くない壁に斜めに穴が開いている。そこに持ってきたレンズを当てた。物心ついた時に浜辺に探索にきて発見した、誰にも教えていない秘密の場所。
軽く覗いて確認してみる。深い青に陽の光が柱のようにそそぐ。色とりどりの珊瑚が宝石のようにキラキラ、キラキラと揺れる。その合間を楽しそうに魚が遊泳し、海藻は踊る。
海に出れば魔物が出ると伝えられ、網漁や釣りは行われても船漁に出ることはない。こっそりと潜った事があるけれど、この国で他にそんな事をする民は居ないだろう。1度見つかってユパに酷強く叱責を受けた。あれはいくつの時だっただろうか。
「覗いてみて。屈まないとだけど。」
「…うわあ。」
レンズを覗いた途端、感嘆の声が上がった。くすっぐったさと満足感が胸を占める。花が咲いたような笑顔をこちらに向けて、凄い、凄いとラステルがはしゃぐ。その姿が珍しくて思わず笑みがこぼれた。じっと目を離さないラステルの横顔をいつまでも眺めていたい。
蟲森で会う時とは違って、ラステルが自分を質問攻めにするという構図は初めてだ。知らないものを知る楽しさと、知識を披露して喜んでもらう快感が良く似ている。薬を開発するとか、風詠として推測や結論を報告するとか、そういうのではない。ごく普通の会話の延長線にあるこの楽しさは、かつてアスベルと共に過ごした日々に感じていたものだ。
しかし、彼とは徐々に相いれなくなってしまった。アスベルが世界を愛するには、未知を愛するには、その人生は壮絶すぎた。故郷を蟲に破壊され、海を渡って逃げてきたアスベルからすれば当然の事だろう。ラステルとも、この先どうなるのか。
どうしたいのだろう。
「海の中ってこんな風になっているのね。色彩に溢れていて、不思議な世界。」
「だろう。」
ん?とラステルが面を上げて、少し顔を傾けた。若々しい芽生えたばかりの色に、眉尻を下げた自分が映っていた。情けないな、と口角を上げてみる。
戸惑った表情で自分を見つめるラステルから視線を逸らせない。もう一度抱き寄せたい衝動に駆られ、代わりにグッと拳に力を入れた。
「あれは何、これは何ってラステルも聞くだろう。」
「いつもの逆ね。」
細い肩を揺らして笑うラステルが眩しい。薄暗い洞窟の中だというのにチカチカと星空を背負っているようだ。
「何故珊瑚が光るのか、魚はどれだけ種類がいるのか、遠いところはどんな風なのか、知りたいとは思わない?」
「ええ、そうね。とても気になるわ。」
「それだよ。」
「何?」
再びラステルが疑問符を頭上に浮かべた。
「僕が蟲森へ行く理由。風も、海も、蟲も、森も、僕は知りたくて仕方ない。」
「行動力があるから、余計にそうなのかもしれないね。私は中々遠くまでいく勇気がないわ。こんな風に連れてきてもらって初めて疑問を持ったのだもの。」
「ラステルが蟲森へ散策に出るのは、違うんだろう。君は単にあの森を好んでいる。」
「ええ、多分そう。 」
「うん。」
何が言いたかったのか分からなくなり口をつぐんだ。波が岩に当たる音だけが洞窟に響く。ラステルが体を起こしてセリムと向かい合った。
「でも来たわ。この国に。」
「ラステル?」
「貴方を信じているからというのもあるけれど、連れてきてもらったけど…来たわ私も。」
言葉を選ぶようにゆっくりと喋るラステル。この話の終着点によっては、二人は遠く離れてしまうのではないだろうか。不安が胸を締め付けて、心臓を暴れさせる。けれども期待の方が大きい。生まれ落ちて17年、多分ずっと待っていた。
「正直怖かった。今もね、セリムが隣に居ない時間はそうよ。そんな風に皆怖いのよ、未知が。だから大抵は近寄らない。」
「ああ…。」
「当たり前が安心するから。踏み出さない。」
熱を帯びているように見える真っ直ぐな眼差しに吸い込まれそうだった。続きを聞きたくない。希望を打ち砕かれたくない。
ゴオンと小さい鐘の音が聞こえてきた。そろそろ時間だ。
「ねえ、セリム。」
もう一度、今度は少し大きく鐘の音が響いてきた。
レンズを穴から持ち上げて水を切る。逃げ出したい衝動と、最後まできちんと向き合いたい気持ちがぶつかり合う。
手を引こうか一瞬迷った。先にラステルが両手にそっと触れた。強く握りしめて、深く呼吸をする。
「ねえ、セリム。私変わってるの。あの毒々しい人が生きていけない森が好き。」
「ラステル、僕は好奇心が止められない。」
お互い自然と笑っていた。そして一歩近寄った。
「私達、たとえ違くても、分かりあえる。きっと。ううん、そうなりたい。」
「さっき僕が言った台詞だ。」
「返事をしたかったの。」
再び鐘が鳴った。
始まりの祝福の音色だと良い。
そんな風に考えながら、セリムはラステルの頬に両手を添えて、そっと持ち上げた。濡れて艶めく瞳が閉じられたのを合図にそっと顔を寄せた。
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