海風に吹かれて
寄せては返す水しぶき。ラステルは瞬きも忘れて食い入るように波を見つめた。
「どう?これが海だよ。」
「広いわ。それに凄く綺麗。セリムがこの国のこと沢山教えてくれたけど、この海っていうのが一番想像もつかなかったの。地平線、大地じゃないから海平線かしら?どこまで続いているのかしら。」
「僕らの国では水平線って呼ぶ。アスベル先生が別の大陸があるって言っていたよ。」
「別の大陸。」
「この地だけでも広いのに、他にもあるんだって。どうやって行くのだろうな。」
じっと水平線を見つめる海色の瞳に波が揺れる。ラステルはセリムの手を引いこうとして腕を止めた。
気配に気が付いて「ん?」と首を傾げたセリムの笑顔が陽に照らされて眩しかった。ふと気が付くと、遠くを見つめているその目に時折寂しさを感じる。素顔だから余計にかもしれない。
服装もそうだ。銀の糸で刺繍を施された純白のターバン、共に巻かれた青い宝石の装飾。白いフェルト生地の衣装にも黄金と群青の宝石でつくられた腰巻をし、繊細な彫刻を施してある銀に光る豪華な鞘に納めた剣。そもそも素顔もまだ数度目。
だから知らない人のようでより寂しいのかもしれない。
「ラステルに海の中を見せたいと思ってこれを持ってきたんだ。」
セリムがいつも蟲森で身に着けている眼球の保護具に似てるレンズを掲げた。顔を覆えるくらい大きいそれをお面のように被せて、ニッと白い歯を見せて笑う様は、まだ幼い少年のような無邪気だ。
「それで中を覗くの?」
「いい具合の洞窟があるんだ。小さい頃に発見した秘密の場所。」
「秘密なのに、いいの?」
「勿論さ、ラステルは特別だから。」
さりげない台詞に胸が弾んだ。彼と出会ってからこういう事が多い。妙にざわざわして落ち着かなくなる。けれどもちっとも嫌じゃない。不思議な感覚。
「本当は一緒に潜るか途中まで海に入って、とも考えたんだけど、時間がない。それにこの服装だからなと諦めたんだ。正直、暑くて堪らないから早く脱ぎたいよ。」
「お仕事があるんでしょう。ありがとう。わざわざ時間を見つけてくれて。」
「それもあるけど、夜になると暗くて見えないからね。」
さあこっちだ、とセリムが手を差し出した。砂浜は歩きやすいが素直に手を取った。手袋越しではない生身の肌に、また心臓が跳ねる。砂はだんだんと粒が大きくなり、足場が不安定になっていった。これを見越していたのかと理解する。
温暖な天候だからだけでない、汗ばむ掌が恥ずかしいのに、覚束ない足元のせいでつい力が入る。その度にセリムが強く握り返して、私を導く。
「珊瑚は装飾品としても利用するんだ。綺麗だろう。」
「珊瑚・・・。これがあの海の植物なの?」
「そう。これから生きているのを見るんだ。」
セリムが足元の珊瑚をいくつか拾い上げて、腰巻につけている小さい袋にしまった。
同じように拾い上げたいと考えたが、異国の物を勝手に持ち去るのは忍びなくて止めておいた。
珊瑚が無くなり石と岩に変わる。そんなに遠くない場所に洞窟があった。岩の隙間から射す太陽の光が柱のように伸びている。濡れた岩壁が星のように煌めいていた。息を飲むほどに美しい、昨夜の夕日沈みかける空の散策とはまた別の綺麗な光景。
「いつもこんな綺麗な世界を見ているのね。」
ほうっと息が漏れた。
「それは君が蟲森で暮らしているから感じるんだ。僕が初めて蟲森を訪れたとき、特に胞子飛ばしに遭遇して、その美しさに窒息すると思ったよ。捻れカザフからの絶景も、近くで見た玉蟲の深く優しい新芽色の瞳も。」
「初めてよ、そんな事言う人。」
唄子連の視線を思い出して気分が落ちる。視界を遮るだけではない、足元を絡めとり、時に皮膚に侵入する新鮮な毒を好むものなど村には誰もいない。
「この海だって、獰猛な海獣が支配する危険な領域さ。どちらかというと避けられている。僕らは同じさ。」
返事に迷っていると、セリムが足を進めた。自分達はよく似ているとは思う。禁じられた地へと踏み入られずにはいられない。
けれども・・・。
遥か遠く、誰もが恐れる大地へ踏み入れるセリムと生活圏の延長にある蟲森へ散策に出る自分は同じなのだろうか。
村で感じる疎外感。蟲森にいる時の何とも言えない安心感。ラステルには何の目的もない。
一方セリムはどうだろう。好奇心が強く未知への探究心が強い。まるで何も知らない赤子のように知識を欲している。
蟲森を訪れるのはこの国の為だ。熱心に蟲や植物を調べている事に、この国へ訪れるまでなんの疑問も持たなかった。
王子だから故に。国を、民を愛しているからこそ危険を冒していたのだ。
「ラステル?」
「ううん、何でもないの。」
「いや、僕は好奇心が強いだけだ。君は蟲森を好いている。同じではないか。」
見透かされていた事にズキリと胸が痛んだ。今まで一度も見たことのない、酷く寂しげな表情だった。
「ラステルと違って、あの森を好きとは言えない。でも知りたい。恐れよりも好きになりたいという気持ちの方が強い。それじゃあ駄目かな。」
セリムが困ったように凛々しい眉毛を下げた。駄目なわけない。それだけでいい。丁度良い言葉が見つからなくて、返事の代わりに握った掌に力を入れた。
「もう少し行ったところに溜まりがある。滑るから気をつけて。ほらっ!」
ぐるりと視界が回転した。ぐっと腰を支えられて転ばずに済んだ。そっと頭を上げると、まだ見慣れないセリムの顔が目の前にあった。
よく見知った、いつもは眼球保護具のレンズの向こうにあった青。それに似合わない熱を帯びている。
「ごめんなさい。」
「謝らなくていい。僕らは分かち合えてる。きっと。それだけで十分だ。」
引き寄せられてそっと抱きしめられた。ほんの一瞬だけの抱擁を終わらせたくなくて、離れそうになったセリムの背中にそっと手を添えた。
自然と体が動いていた。
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