崖の国レストニア

眼前に広がる砂漠の向こうに青々とした森が広がる。蟲森とは異なる本物の森。さらにその奥には鋭い岩肌突き出る山が続く。

人が通れるように整備された細い道が岩山の合間を縫って行くのが分かる。強い風が吹き付けて雲の速度は速いというのに、オルゴーは穏やかに進んでいる。

セリムには風の流れが見えるという。目を保護するゴーグルのレンズ越しに目を凝らしても、ラステルには何も見えない。

岩にぶつかって生まれる乱流から崖の国へ向かう風を選んでいるのだ。セリムのその技術に改めて感銘を受ける。

そんな風に、オルゴーの事や見た事のない景色について、背中越しにセリムが1つ1つ教えてくれた。蟲森散策の時とは逆に、何故何病がラステルに発症したけれどセリムは丁寧に分かりやすく教えてくれる。

初めは背中越しに当たる大きな胸の温もりが気恥ずかしかったが、空の旅が始まれば未知の世界への興味に気持ちが移った。なんて楽しい時間だろう。


「それにしてもラファエさんは度胸があるな。まさか女の子2人で崖の国を訪れたいなんて言うとは思ってもいなかったよ。」

「姉様は古い考えに縛られないところがあるの。」

「聞いたよ。」


早朝、先に崖の国へと向かったのはラファエだった。そして夕刻、今度はラステルの番。

秘密の来訪をどう手配したのか、ラファエの得意な口術で婆様たちを丸め込んだのだろう、という事だけは分かる。

蟲森を恐れ、嫌うラファエがそれ以上に得体の知れない外界へ行こうと計画するなど夢にも思わなかった。

一歩を踏み出せなかったラステルにとっては嬉しい以外の何事でもない。

日も沈み、花紺青に似た色が広がる夜に燦々と輝く星々にちょうど満ちた白銀の月が煌めく。

時折村を抜け出して、蟲森の隙間から見ていた狭い視界とは違う、拓けた世界の美しいこと。


「疲れてない?セリム。」

「流石にこの距離を2往復は初めてできついな。今すぐ寝台へ飛び込みたいよ。でも、君にずっと見せたかったんだ。」


セリムが指をさした風景に息を飲む。


月明かりに照らされたその国に目を奪われる。いつだかセリムが絵に描いて見せてくれた崖の国。

何もかも分からなくて沢山尋ねたものが、本物がここにある。

段々に開拓された街、回る風車、空に放たれて揺れる凧、街を両断して流れる大きな川、崖と崖を繋ぐ水門、街を照らす灯台、そして月明かりが道を作る光を反射して波を打つ海。


「崖の国レストニア。ここが僕が暮らす、海の加護を受けた土地。早く昼間を案内したい。」

「私も、早く見たい。」


感激のあまり胸が苦しくて涙が滲んだ。もう二度と会えないと思っていたその人と、焦がれながらも踏み出すのを恐れていた世界。


「ラステル?」

「ありがとう。」

「あそこが僕の家だ。」


指差したのは眼下でも一際高く大きい建物だった。水門に続くその建築物が家だという事に驚く。

しかしセリムは反対側へと飛んでいった。セリムの住まいよりも大きな崖から斜めにせり出す塔。巨大な風車に無数に上がる凧。

あれがきっと風車塔だ。裏側に回ると篝火が道を作り、最後は円状に轟々と炊かれている。人影が幾人かいて、手を振っていた。


「オルゴーと僕らを囲い火で消毒するからまず風車塔へ寄る。家まで水門通りを赤鹿で渡ってそれから父様とご挨拶だ。休めるまでまだまだかかるけどごめんね。でもこの気候に天気、きっと気持ちいいよ。」

「私なら大丈夫よ。こんな素敵な光景見たら疲れなんて感じられない。」

「なら良かった。降りるからしっかり掴まってて。」


セリムが片手を離して私の腰を強く抱いた。驚いたと同時にオルゴーが斜めに急降下して身をすくめた。思わず目を瞑って身を委ねる。

段々と近づく熱気にそっと瞼を開くと篝火の道の真ん中を進んで、炎の手前でオルゴーが止まった。

一歩間違えると大惨事である。セリムは毎度このようにして帰国しているんだと、距離といい、蟲森を訪れる苦労を今更知った。


「熱いけど、我慢して。まず軽く跳ねて。オルゴーも僕らも海風で胞子が死滅しているはずだけど念には念をなんだ。」

「はい。」


村でも火を使う。薬液が主であるけれど。胞子は乾燥に弱いというのは蟲森でも外界でも共通認識なのか。ラステルが素直に跳ねるとパラリと一粒胞子が落ちた。熱気で黒く壊れたのを確認すると、セリムが手を伸ばした。繋がれようとした手が降りた。

火の向こうから名を呼ばれたからだ。何人かの男が口々にセリムに声を掛ける。


「セリム様、遅くて心配しましたぞ。よくお戻りになりました。」

「すまない、つい飛ぶのが楽しくてゆっくりしてしまった。」

「セリム様も困ったお方だ。」

「我らの心持ちなど意に介してくださらぬ。」

「本当になあ。」

「そこまで言う事ないだろう。僕が帰って来なかったこと、あるか?」

「つい昨年ではないですか、研究塔で寝ていたと翌朝帰還したのは。蟲に食われてるのではと皆一同恐れたのをお忘れか!」

「でも帰ってきたさ。さあ、通しておくれ。客人も疲れている。」


火の向こうから何人かの男が口々にセリムに声を掛ける。セリム様という呼び方が気になって、問いかけようと口を開きかけた。それより早くセリムが私の手を握った。

同時に篝火が何個か消された。火を持った壮年が道を作っている。


「行こう。早く防護服を脱ごう。暑くてかなわないや。」


レンズの向こうでセリムの目が微笑んだ。その頭上に乗せられた兜が向こうへずれた。

そうだ、先程のセリムの住居に掲げられた旗には共食いする双頭竜が織り込まれていた。

おそらく崖の国レストニアの象徴なのだろう。それを堂々と身につけるセリムの身分が決して低くない事をラステルは今更知った。






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