空の散策

ガンの群れに混じりセリムは可憐に、大胆に空を舞った。午後の胞子が渦を巻く中を、まるで風に吹かれる木の葉の様に。

決してまっすぐ飛ばない、と思っていると同じ場所で殆ど止まっているようにもなる。

上下左右、風を自在に操っていると感じるほど自由だ。薄暗い蟲森がちょうど舞い上がる胞子の自光にセリムの機体が反射してキラキラ、キラキラとしていて視線が離せない。

一瞬も目が逸らさなくて、胸が躍る。


「危ない!」


風凧からセリムが落ちて思わず叫んだ。けれどもセリムは落下しなかった。風凧の下に掴まりぶら下がっている。そのまま一気にラステルの方へ急降下してきた。

眼の保護具から覗く、ガンと同じ澄み切った青と視線がぶつかる。激しい動悸がラステルを襲った。

ヒラタケに近づくと揺らめく胞子のようにゆっくりとした速さになり、セリムは静かに着地した。同時に風凧を脇に滑らすように置いた。重そうなのに随分軽々と扱う。

飽きたのだろう、ガンもラステルをヒラタケに残して解散した。


「凄かった。風と一体化しているみたいだった!まるで胞子みたいて。」

「ありがとう。乗ってみる?」


ラステルは差し出された手をじっと見つめた。彼も先ほど恐れたが、躊躇なくガンと自分についてきてくれた。それに応えたかった。


「うん。少し怖いけど。」

「大丈夫、胞子飛ばしも終わってきて優しい風が吹いてるから。」


ラステルは先ほどのセリムの真似をしてカゼダコに乗って中心にある二本の柄を掴んだ。

足で何かを踏んでいたが、下を見ると4つある。どれをどう踏んだらよいのだろう。


「どうしたらいいの?」


その問いかけにセリムは慌てた様子で両手を振った。


「見た目ほど簡単じゃないんだ。」

「勿論、一人で挑戦しようなんて思ってないわ。でも私も飛べそうだなって。」


大きな笑い声をあげてセリムが風凧の後ろに回った。


「ごめん、そうだよね。ラステルはどんなか知らないもんな。ラステルは何もしなくて良いよ。特にこいつ暴れん坊で練習も出来ないからさ」

「そうなの。楽しそうだったから少し真似してみたかったんだけど」

「上手くなるまでは乗せてもらっているだけの方が数十倍楽しいよ。じゃあ、行くよ、しっかり掴まっていて。」


風凧が押されてヒラタケから滑り始めた。落下と同時にセリムが飛び乗ってきた。後ろから抱きしめられるような体勢になる。高鳴っている心臓が余計にドキドキした気がした。

振り返ると、目の保護具の向こうでセリムは楽しげに目を細めていた。明るい青い瞳がきらめいている。

やはり想像よりずっと若い。同じくらいの年だろうか。最初に見かけたときはもっとずっと小さかった。あれから4年、こんな風に接することが出来るなんて思ってもみなかった。

ありったけの勇気を振り絞って、爆発しそうな心臓を押さえつけて、踏み出して良かった。

ラステルの手の上からセリムが柄を掴んだ。ほんの少し風凧が傾いたかと思うとぐんっと上昇した。ラステルは正面へ顔を戻した。体が真っ直ぐになり、風凧がゆっくりと前進する。穏やかな風が頬をそっと撫でる。

まだ新鮮な胞子が体に張り付くので払うのが大変だった。それが気にならない程に楽しい。

小刻みに揺れはするが、流されたりせずに飛んでゆく。


「大変そうだね。」

「胞子?仕方ないわ。森服は窮屈で好きになれなくて。」

「上まで行ってみる?」

「上?」

「蟲森の。」

「そんな所まで行けるの?」

「あそこに上昇気流がある。」


指を刺されたところをジッと目を凝らしてみてもラステルには違いが分からなかった。


「行ってみたい。私、この森の外を見てみたかったの!」

「そういう事なら任せて!しっかり掴まってて!」


ふわりと旋回して目的地まで来ると、機体がグンっと上昇した。同時にセリムの腕がラステルの腰に回された。あまりに急に激しく動いたので体が強張ったけれど、支えられて安心だった。

目を瞑って身を任せる。ずっと眺めてきた光景が沸き起こる。この人はいつも酷いことはしなかった。それどころか、苦しみ悶えているところを震えて怯えながらも手を伸ばしてくれた。


「怖かった?もう大丈夫。目を開いてみて。」

「怖かった!でも平気よ!だってね--。」


貴方と一緒だったから。

続けようとしたけれど、目の前に広がった景色に言葉を奪われた。


「うわあ、森のずっと向こうまで見える。こんな風になっていたのね。」


一面に広がる乳白色の大地。その先に高く連なる巨大な岩の塊。

婆様達から聞いた砂漠や山がこれなのだ。山の合間には蟲森とは全く違う明るい緑色の植物が生い茂っている。蟲森ではない森。

そして何より、見知らぬ空。蟲森の灰色と七色の輝きとは別物。セリムの目と同じ色が砂漠や山よりも遥か遠くまで続いている。

そこに浮かぶ眩しい丸い明かり。

これが太陽。

どこまでも広がっている全くの別世界。

高過ぎて登りきれない蟲森の木々よりも更に上空。死ぬまで目に出来ないはずだった。


「泣いてるの?」

「ええ、ええ。だって。素晴らしいわ。想像していたのと全然違う。」

「僕が初めて蟲森に足を踏み入れた時も涙が出たよ。余りにも違う。でもきっと、世界にはもっと他にも素晴らしい光景かあるんだ。」


焦がれるような声に自然と頷いていた。


「風になったみたい。」

「僕もそう思う。それで風詠になった」

「風詠?」

「僕の国の仕事で、大雑把に言うと風を予測するのが役目だ。」 

「風の予測…?」

「僕らは風を詠むって言っている。だから風詠。国を守る大事な仕事なんだ。」


誇らしげな声だった。恐らくそういう職業なのだろう。土の中で暮らすラステルには想像が出来なかった。雨が降るのが事前に分かれば助かるが、湿気で何となく予想できる。そういったことではないのだろう。


「私は唄子。」

「唄子?」

「大雑把に言うと蟲から色々分けてもらうために唄うのが役目よ。」


セリムを真似して言うと彼は、ははっと笑った。


「全然想像できないや。さっきのガンを呼んだのも?」

「あれは少し違うの。仲間だと錯覚してもらうの。凄く難しいし、怖がって誰もしないわ。殻や卵、蟲が集めた植物。そういった生活に必要なものを得るのに生まれたのが唄子なの。」

「唄って頼むのか。蟲って意思疎通できるんだな。僕達はずっと誤解してた。」

「違う、奪うのよ。蟲が怯む音を利用して、その隙に。」

「君が?さっきはそう見えなかったけど。」


相当驚いた声色だった。風凧が大きく揺れた。思わずセリムにしがみついた。セリムの手が優しく労わるように肩を抱いた。


「ごめん、大丈夫?」

「うん大丈夫。私はね、少し変わっているの。森を生身で歩けるのも私だけ。だから秘密にしないといけないの。」


いつの間にか森に近いところを飛んでいた。ガンの群れがこちらを窺がっている。その意味が分かるようで分からない。


「私たちの村はね、きっとあなたの国とそう変わらないわ。生きてきた環境が違うから、知恵や技術は違うけど。森も蟲も嫌いなのは一緒。それなのに…。」


彼等にだってきちんと気持ちがある。痛い、悲しい、苦しい、愛しい、嬉しい、楽しい…。

心がある。

それを人は理解できなくて、恐れ、避ける。

村が嫌いなわけではない。むしろとても大切に思っている。だがら、とても虚しい。一方で別の村になら、こういう人もいるかもしれないと期待していた。

そしてセリムを見かけ、話をして見たいと思った。ずっと思っていた。蟲に手を差し伸べるような人、初めてだった。

まさか外の世界の人だとは思ってもみなかったけれど。


「蟲森遊び。」

「え?」

「僕がここに来ることを国ではそう呼ばれてる。遊んでるつもりはない。知りたい事が沢山ある。まあ、僕は変わり者なんだ。」

「そう、なんだ。」

「世界は広い。君がいて、出会えた。蟲森が好きなんだね。僕は恐怖の方が強いよ。」


その響きは村でラステルを蟲姫と呼ぶのと同じ類に感じられたし、違うようにも聞こえた。

ラステルにはそれが分からない。不安な思いで後ろを振り返るとセリムと視線がぶつかった。真剣な瞳にラステルが映っている。


「常に恐怖を抱えて生きるなんて窮屈すぎる。自由になる為にはこの世界を知らないといけない。僕は、ただそれだけ。」


元居たのキヒラタの上に風凧が降りた。キヒラタが迎え入れてくれた様に柔らかな着地だった。


「だから君とは違う。人は変わる、可能性は無限大。また君に会いに来てもいいかな。」


先に降りたセリムが手を差し出した。沈む太陽に照らされセリムの姿は黒い影になった。焼け爛れたような真っ赤な空。

こちらを静観しているガン達の紅色に染まった無数の瞳。

ラステルは全身に響く警鐘を張り切ってそっとセリムの手を取った。

それで十分だと思った。

多分セリムも。

しばらく二人で握手をしたまま向かい合った。胸に抱いた不安は徐々に消えていった。何だか離し難かった手を下ろしたのは群れていたガンが散りじりになったのが見えた時だった。

低い歯ぎしりのような鳴き声が私を呼び戻すように聞こえ、こちらに向かってくるかと気が気ではなかったけれどガン達は去っていった。

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