シュナの森とドドリア砂漠
メルテ山脈とボブ山脈の山間に広がるシュナの森。大木茂るこの古い森は海風と同じくらいレストニアを蟲森の浸食から守ってくれる天然の砦。
シュナの森の先にあるドドリア砂漠の乾燥で蟲森から襲う毒胞子は弱毒化し、シュナの森で力尽きる。
森に群生する木々のほとんどは弱毒化した毒胞子に浸食されないくらいの抵抗力を有している。
アスベル先生とともに研究した結果からすると、森の大半を占めるナゴ樹は表面の樹脂、次に多く群生するオットコ樹は油分、といった具合にシュナの木々は水分をほとんど失った毒胞子が着床することも発芽することも許さない。
まだ解明できてない植物も数多く、それが生活に役立つだろうとセリムは考えている。ただ風凧以外の手段でシュナの森までやってくるのは時間と労力が掛かるうえ、レストニアは日々の生活だけでも余裕がない。
風詠もその技術習得が難しいために人手が足りない。国で行われている植物研究や風学も山のようにあり、問題や課題は山積みだった。
そしてなにより、人は蟲森も毒胞子も拒絶し関わらないことで生き延びてきた。だからわざわざ人手を割いて遠いシュナの森や、ましてや広大なドドリア砂漠を超えて蟲森に踏み入れようなどという考えは露程も考えられないことだ。
セリムも先生に出会わなければ、どうだったかと疑問に思う。
{西部の引き風がどうなったか確認しよう。まだ日が高い、この風なら砂漠を超えられるかもしれない}
最近あまりにも蟲森を訪れているので方々で文句を言われ、もとい心配される。
だが、どうしても確かめたいことが蟲森にはある。住む世界の違う蟲森には未知のものがあふれている。それらがあらがえないほどの探究心をそそる。
{オルゴーはまた速くなった。パズーと試行錯誤したかいがあったな。ただベルト舵を主にするように改良するのは白紙にしないとな。あれだけ強い乱流にはある程度しっかりした柄舵でないとやっぱり難しい。でも普段が乗りにくいからな。帰ったらパズーに相談しよう}
城の第二倉庫で埃をかぶっていたオルゴーを掘り起したのはセリムとパズーだった。元は小型戦闘機。エンジン回路が壊れ、修理が出来ず希少な最後の小型エンジンで風凧へ改良したものの誰も操縦することができずに倉庫で埃をかぶっていた。
この機体をパズーと共に改良しなんとか飛べる風凧に変えようとしたのはもう十年以上前のことだ。
あの頃のセリムは機械技師として働く兄のクロトワの後ろをついて回って、自分も同じようになるのだと本気で思っていた。難しくて理解できない本をあれこれ開いて、必死に兄の真似事をしたものだ。
工房を訪れるうちにパズーと友達になった。兄の後ろをついて回るのがうっとおしかったのだろう、兄は工房にあふれる屑材料をくれた。それを二人であれこれ試作するようになった。
工房の技師たちからは、良く分からないものを二人で真剣に作っていたのに途中から遊びだすのが微笑ましくもやかましかったと今でも笑われ、からかわれる。
今でこそ笑い話だが、煩くすれば優しく諌められたなんてことはなく、鬼の形相をしたクロトワに怒鳴られてつまみ出されていた。
そのうちパズーと二人で、工房から城の倉庫に拠点を写し自分たちの工房、といっても忍び込んでいただけだが、を作るのは自然な流れだった。
やがて城の所有物に、それも貴重なものを勝手にいじくる暴挙に出た。
それこそがオルゴー後のである。
秘密工房はすぐに城叔父のミトに見つかってこってり絞られた。一生懸命改良しようとした小型戦闘機は無残な姿になっていたそうで、それは叱られるでは済まない事態だったという。自分たち的には順調に改良していたつもりだったが。
報告されて父親に大目玉をくらうと覚悟していた。パズーに至ってはそれ以上に恐怖だったらしい。
監督不足だとクロトワが庇ってくれて無残な機体はクロトワとミトの目にしかさらされず、おまけにクロトワ自身がオルゴーを完全な風凧に改良した。しかも手伝わせてくれた。雑用ばかりだったのは言うまでもないが。
「これでお前達は大丈夫だ。」
クロトワが優しく言ってくれて心底安心した記憶は今も鮮明。今思えば兄もあの放置された機体をいじりたいと思っていたに違いない。もちろんセリムが兄に溺愛されていたことも要因であることは否定しない。
完成したオルゴーを見てパズーはいつか自分もこんな機体を作るのだと目を輝かせた。だがセリムは違った。この風凧で空を自在に飛ぶのはどんなに爽快だろうという思いで胸がいっぱいになった。
日頃から風詠は国の尊敬を一身に集める存在だったし、風詠遊びは子供達の一番人気で簡易風凧に乗るのは好きだった。因みにパズーは大嫌いだった。
機械技師の前は薬草園で調薬師に憧れていたし、その前は漁師、その前は羊飼い。興味の対象が変わりやすい時代だったのだと今でも思う。
忘れ去られていた錆びた戦闘機が風凧へと生まれ変わり、オルゴーが自分に乗れと叫んでいる気がしてならなかった。
完成した新しい凧を試しても、誰も乗りこなせなかった。ただ唯一、セリムだけは違った。
まるで選ばれたかのように風に乗れた。あんなにも胸が高鳴ったのは後にも先にもあれが唯一。だからセリムは周囲の反対を押し切って風詠の道を選んだのだと思う。
懐かしい回想をしているとドドリア砂漠へと着いた。眼下に広がる砂漠はいつもと特に変わりないように見えた。
{急に気温が上がっている。}
砂漠を少し過ぎると、熱気が全身を襲ってきた。逆突風の予兆を感じて引き返した数時間前よりもかなり暑かった。
{関係あるのか、ないのか……。気温は四十八度か。酷く暑い。普段の変動が分からないから参考にはならないな}
普段よりもずっと風は穏やかだった。流れが停滞する場所を避けて推進力を得られるような風路を探しながら砂漠を進む。
空路の選択肢が少ないため、毒胞子がゴーグルに張り付かないように避けるのに苦慮した。
{思ったより新鮮な毒胞子が多い。早くしないと視界を覆われる。}
焦りはするが風は思い通りに吹くわけではない。セリムは仕方なくエンジンペダルを踏んだ。風を切り裂くように機体が一気に進む。
{僕もまだまだだな。風に乗るのが風詠。師匠の域までは程遠い。風が悲鳴をあげている}
研究塔が見えてくるとエンジンを切った。オルゴーを屋上に固定する。貯蓄してある海水を使ってゴーグルを拭った。それから階段を下りて研究塔の三階に入る扉を開ける。
囲い火を焚いて服についた毒胞子を熱し無毒化しなければならない。慣れた作業はいつまでたっても好きになれない。もっと自由でありたい。
防護服もマスクもゴーグルも外すことは叶わない。胞子の残骸が無いことを確認して奥の部屋に踏み入れた。三階にある観測凧や計測道具を選び箱に詰め、ため息を吐いた。
{植物採取までする時間はないか。}
蟲森へ向かうにはより軽量にしないと飛べないだろう。1階に降りて荷物を減らさなければ。まずトトリから預かった道具類はすべて作業台に乗せた。採取瓶や鏡検鏡、反応紙に濾過器具、それからナイフを置いていくことに決めた。オルゴーに乗せられる荷物の量を考えるとまだ手荷物が多い。セリムは護身銃と腰元の鞭を見比べて悩んだ。
{いざという時に役に立つのは銃だけど……。}
結局、鞭はそのままに銃を作業台に置いた。信号弾や閃光弾中心に使用しているとはいえ銃は好きではない。父親との最低限の約束なので持っているが極力使用するのも避けている。
{何かあったら大目玉だな。まあ、危険に遭遇すれば帰れないか}
あまり危機を持てないのは自分の悪いところだと思う。セリムは階段を上がり道具を入れた箱を抱えて再び外へ出て行った。ほんの少しの間に風は穏やかさを見せ始めていた。
{表情が変わるのが早いな。}
やはり一人で観測しようとすると情報がきちんと収集できない。それはいつもながら残念で寂しいことだった。観測凧を三機空に放ち自動計測器を繋げた。
それからオルゴーで上空へと向かった。
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