風詠のセリム

無数の渦が空を覆う。初めてこの嵐風を体感したのはセリムが十の時だ。

国に生まれた子どもは、特殊な事情がない限り模造風凧の訓練を受ける。同年代の誰よりもセリムが模造風凧を自由に操った。


王子である自分は風詠になることを大反対されたけど、後の師であるトトリに我儘を言って彼と本物の風凧に乗った。トトリの背に捕まり、目を凝らして風の流れを見れた時、やはり自分も風詠になれると思った。なりたいと衝動が込み上げた。


師がひらひらと飛ぶ様はあまりにも簡単そうに感じた。すぐに一人前になれると自惚れていたのに、打ちのめされる修行の日々。


弱い嵐風の中を師に介助してもらいながら飛んでみると、まったく思い通りにいかなかった。大きな渦と小さな渦が複雑に絡み合い、迷路のように入り組む風は、一定ではなくて気まぐれに道を変える。


 上下左右、大小様々な風を詠み切らなければ数秒たりとも飛んでいられない。崖に叩き付けられるか海へ真っ逆さまに落下してしまう。


風を詠む才能を有していても、風凧を自在に操りきれなければ意味がなかった。 幼い頃から国を守る風を見てきただけに、詠むことは容易かったが自在に操るとなると至極難しい。それが心底悔しくて、面白くてならなくて、セリムは周囲の反対を押し切って風詠を目指し、ついには喉から手が出るほど欲しかった称号を得た。


手に入れてから気がついた。本当に求めていたものは、何処にでもいけるという自由。


{いつもより渦が細かい}


あれから七年、何とか逆風にも乗れるようになった。だが一瞬でも気を抜き風を詠み間違えれば、あっという間に墜落する。ほんの一瞬、風凧の舵加減、翼の操作、揚力調整、どれか1つでも間違えても同じだ。


{あそこだけ物凄い勢いで風が引いている}


舵ベルトから柄舵に持ち替えて計流計と風笛を空に放った。更に観測の子凧を放ち風流盤を取り出した。柄舵に風流盤を固定すると、抵抗が変化して揺れるオルゴー。

ただでさえ気分屋のこの大鷲。セリムはひっくり返りそうな機体をなんとか持ち直して、両手でしっかりと舵を握った。


{片手だとうまく舵が取れない}


計流計と風笛の記録を取らなければ意味がない。

糸同士が絡まぬように気を配りながら計測記録を記入するのは予想以上に神経を使う。山脈を越えて吹き荒れる逆風は、普段の穏やかな空や少々機嫌の悪い風とはまるで感覚が違う。容赦無く牙を剥く、獣のような風。


{緊急用の保護網がかかった}


墜落しても最悪あの網に落ちるようにと訓練されてきたが、セリムは実際の飛行でただの一度も墜落した事がない。だが今回は最悪の状態が頭をよぎった。


{弱気になるなんて。師匠が認めてくれたんだ、やり遂げる}


普段よりもずっと広範囲に広げられた保護網から目をそむけて片手を離した。激しく揺れるオルゴーに言うことを聞けと叫ぶ。足で小翼を微調整しながら最適な揚力を探る。



{音強度二、三、二、二…。速度は速さだけでなく赤玉の動きを観察して…。記録できなくとも緯度を…。}


師の教えを反芻しながら記録を取っていく。時折オルゴーが暴れ、記録に手間取る。

様々な機能を搭載したせいで、誰も御せず埃をかぶっていた凧を蘇らせ、改良し再び大空へと解き放った。

だから。


{頼むから、もう少しだけ協力してくれよ}


徐々に音響度の振り幅が大きくなり、風速の波も激しくなっていった。一方でセリムも徐々に慣れてきて余裕が出てきた。風に混じりはじめ、増えてきた乳白色や濃緑の毒胞子。

城下を見ると何とか緊急避難は二段階目まで間に合ったようだ。普段よりも多い毒胞子の量に冷や汗が背を伝う。

第一段階までの避難だったならば家畜は大幅に減り、田畑も焼き払わねばならなかっただろう。国民総出で防護服を着用して、毒胞子の駆除に取り組まねばならない。最悪の事態を回避されたことで一先ず胸をなでおろした。


{五、一、二、五、五…。赤玉は垂直螺旋、風速最大!}


だが風は穏やかだった。観測を打ち切ったのは失敗。慌てて記録を続けようとするとふいにオルゴーに振動を感じた。


巨大な津波。


予兆のない落雷。


唐突に押し寄せてくる強風こそ、不定期にこの国を襲撃する逆突風。

崖を守護する海風を薙ぎ払い、蟲森から有毒な胞子を運び込む悪魔。

体制を崩してしまいオルゴーと共に数メルティ吹き飛ばされた。回転するオルゴーから振り落とされないように柄舵にしがみつく。

反転する世界。

思うように舵が取れず機体は浮力を失い旋回しながら落ちていった。目眩がする中、必死で風を視る。


{あそこが上昇気流!}


墜落すかけた機体を何とか目的の場所に誘導する。

オルゴーは高く、高く、舞い上がった。ここまで上空へ行けるのは珍しい。後は体制を立て直して、風車塔へ戻れば良いのだが、更に上を目指した。

誰にも言えないが、セリムは逆突風が嫌いじゃない。忌諱されるこの凶暴な風は崖に造られ、山脈と森の守護を受けるが故に他と隔絶されるレストニアを外界と繋ぐ。

自由で気ままで、どこまでも飛んでゆける風は正直羨ましかった。


{観測も予報詠もはまだまだ修行が足りないな。}


セリムは観測凧を回収しながら高く高く舞い上がった。満点ではないが観測を無事に終え安堵が全身を包む。見下ろせば国民の避難も家畜や田畑の保護も十分。

厄災である毒胞子がレストニアに降り注ぐ。

風に踊り、落下していく色とりどりの胞子。かつてアスベル先生が雪のようだと言ったのを思い出した。

海の向こうより流れ着いた異人。アスベルが教えてくれた、もっと気候が寒冷な地域では雨が冷えて固まり雪と呼ばれる物質になって空から降り注ぐ、という話はセリムには大変興味深かった。

似ていると言われても分からないのが悔しくてたまらなく、今尚悔しい。

けれども未だに雪というものが降る地域を訪れたことは無い。この大陸ならば、はるか北のドルキア王国ややグルド帝国まで行けば雪が降るという。

遠いだけではなく両国ともレストニアが属するエルバ連合と睨み合いが続いている。いつか訪れる事が叶うとしたら、争いが治った後だろうか。

世界には知りたい物事が多すぎる。しがらみを捨て、風に乗ってどこまでも飛んで行ければ良い。けれどもセリムは国を守る風詠の仕事に誇りを持っていて、この国が大切で、取捨選択しかないのならばレストニアと共に生きる。

振り注いだ毒胞子はその芽を出すことは叶わない。海により、または人の手によって死滅させられる。触れればその毒に肌が爛れ、吸い込めば肺を犯し死を招く毒胞子。それは人と決して共存できない存在。

けれども風詠が生まれたように新しいものが生まれれば何かが変わるのではないか。

何故手離さないと、手に入れられないのか。


千年以上もの間、互いを拒絶してきた蟲森と人界を繋ぐ何か。少ない生活圏を奪い合い、傷つけ合うのを止める希望。


どこにも行けない自分の壮大な探究心は時に胸を焼け野原にするほど身悶えさせる。蟲森へ足を運び、蟲森に茂る胞子植物たちを研究せずにはいられない。

国に利益をもたらしているとはいえ、遠回しに反対され、挙句に蟲森遊びなどという揶揄。


{先生は今どこにいるのだろう。}


せめて逆突風の起こる原理の解明を成し遂げたいというのがセリムの具体的かつ誰もが認め応援してくれる夢。それは歴代の風詠と風学者が追いかけてきた目標であり、成し遂げられなかった次世代への課題である。

死をもたらす毒胞子に怯えて暮らす国の為になること。


{このままドドリア砂漠へ行ってみるか。折角の機会だ。}


結果をすぐに持ち帰り、風車塔で他の風詠や学者達との議論に入らねばならなければならない。だが重要な情報を得られる自信はある。

それに逆突風の吹いた後の国外の状態を一度見てみたかった。

セリムは意を決し、信号弾を胞子の揺れる空に放った。

青い煙が空高く昇っていく。

予想通り、東の風車塔からちかちかと明かりが放たれた。


{スグモドレ、キケンダ。}


第一観測室からの点滅信号を確認したが、セリムは大きく手を振って風車塔から離れていった。

 





 観測台でセリムの返答を待っていたポックルは、オルゴーの姿が見る見るうちに小さくなっていくので大きなため息を吐いた。


「行ってしまいましたね、エスメラルダさん」


ポックルは望遠鏡から目を離した。エスメラルダに浮かぶのは呆れ顔。


「本当にセリムったら自由なんだから。」

「でもまた役に立つ情報をたくさんお土産に持って帰ってきますよ。」

「だから皆、怒るに怒れないのよね。特にあなたたち風学者が喜ぶから。」


年上のエスメラルダに睨まれポックルは肩を竦めた。


「先に会議始まりますよね。準備してきます。」


逃げようとポックルは観測結果の書類を抱えた。年上で熟練の風詠に本気でなくても睨まれたりするのは、立場は違うとはいえまだまだ新米のポックルにはそれはそれは恐ろしい。

エスメラルダにとってはちょっとしたぼやきだろうが、幼馴染の代わりにそれを聞くのは心臓が痛くなる。

厳格なエスメラルダが苦手だった。

ポックルがノブに手を掛けようとしたと同時に、扉が勢い良く開いた。飛び込んできたのはパズーだった。


「ポックル!セリムは?初突観測って聞いて。オルゴー調節したばっかりなんだよ!」


息を整えながらパズーは窓に張り付いて外を凝視した。大きな鼻が窓にぶつかって潰れるのもかまないようだ。


「観測が終わってどこかに行ってしまったわ。今から蟲森までは行かないとは思うのだけど」

「エスメラルダさん・・・。すみません、あの、その、オルゴーの飛行状態を確認したかったんですけど遅かったですね。」

「急な決定だったからね。それにしてもオルゴーをまたどこか改良したのね?」

「ええ、あの、少し翼の長さと角度を。」


両腕を腰に当てて、まるで悪戯した子どもを叱るようなエスメラルダの非難の眼差し。戦々恐々といった様子だがパズーは正直に答えた。ポックルはそーっと部屋から出ようと体を動かした。


「機体周囲の風の流れが違うと思ったからもしかしたらと思ったけど、すがすがしいほど力強い風乗りだったわ。」

「上手く風を捕まえるから多少は大丈夫かなと。」

「長距離用に、ね。」


振り返るとパズーの顔から血の気が引いていた。意外にもエスメラルダはくすりと笑った。


「直線の伸びがすごく良かったわ。私の機体調整もメルビンと相談して頼むかもしれないわ。その時はよろしくね。」

「はい!」


認められたパズーは心底嬉しそう笑顔を浮かべた。だが喜びは束の間だった。


「この後の会議で呼ばれるわよ。セリムの帰りが遅いと延々説教ね。」


天国から地獄とはこのことに違いない。今日も厳格なトトリを筆頭とした風詠達や彼の師のライトにこってり絞られるのだろう。

そのいつもの様子が脳裏にありありと浮かぶ。ポックルは戻って、吐きそうな顔つきになったパズーの肩を軽く叩いた。


「勝手するとそうなるんだぞ。」

「貴方も関与しているんでしょう。ポックル?」


指摘にひっと声が漏れた。全部パズーに被してしまえ、なんて甘過ぎた。パズーが裏切り者とじーっと横目で睨んでくる。

エスメラルダが大きく鼻から息を出して、またかという表情を浮かべた。


「度胸があるのかないのか、あなたたちって不思議な子ね。」

「セリムに頼まれるとつい、です。」


毎度のように師や先輩達に雷を落とされ縮こまっているパズーの姿を思いだすと少々気の毒だ。怒られるのはいつも彼でセリムではない。ポックルもちゃっかり説教を避けられているのは、パズーの貧乏籤の才能であろう。

それでもパズーが断らないのはセリムを恐れているからではない。自身の技術に自信を持ち、披露したくてうずうずしているからだ。

それに加えて、セリムに頼まれると断りにくい。

セリムはそういう奴だった。人望があるというのも少し違う。彼はそういう人を動かす力を持っている。王子として育ったからか、自分たちが王子として扱ってしまうからなのか。

我が強いのにそれを感じさせない、不思議な男。

ポックルはまた国を飛び出して蟲森へ向かっているだろう幼馴染の早い帰還を、海風の神に祈った。

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