崖の国と逆突風

本日中、夕刻までに逆突風がレストニアに襲撃する確率は八割弱。

巡回飛行を行う風詠トトリは、ダルトンとエスメラルダの報告と自身の考えをまとめ、悩みながらもそう報告する事に決めた。

メルテ山脈から吹き抜ける風の弱まり、ボブ山脈寄りの計測凧の僅かな振り子運動。

糸巻雲や複数のおたまじゃくし雲が数時間前から一気に増えた。

他にも逆突風の兆候は多いが、唯一の不安材料は三人一致しており、引き風が無く絶え間なく吹く強い守りの海風が弱まる兆候がまったく見られない事だった。 


「では戻るかの」


トトリが促しダルトンとエスメラルダが風凧を翻し、風車塔へ向う。

その時だった。

見慣れた風凧がシュナの森の方から勢い良く飛んで来るのがトトリの視界に入った。

他の風凧より一回り大きく、鷲の形を模した風凧オルゴーの姿。彼はそれを待ち受けた。ダルトンとエスメラルダも気が付きトトリに習った。

暴走凧オルゴーを操れるのは七名いる風詠のうちたった一人しかいない。


「トトリ師匠!今すぐ緊急対策令発動の合図を出してください」


最年少の風詠セリムが叫んだ。飛行装束に加え、国紋の飾られた兜に毒胞子を防護するマスクを身に着けたその姿は、彼が踏み入れることを禁じられている大地にいたことをありありと物語っていた。だがトトリも他の二人もそれを指摘することは無かった。そのような状況ではない、ただならぬ気配を感じたからだ。


「緊急とは、セリム?」


トトリは気を抜くと風に吹き飛ばされそうな凧を操り、大声で叫んだ。


「シュナの森西部からドドリア砂漠一体の上空で強烈な引き風が!今吹いているのは守りの海風に感じるけれど引き風です!」

「なんと。おい、ダルトン行くぞ」


トトリが躊躇なく腰元の発煙筒に手を伸ばすとダルトンが黙ってそれに従い、自らも発煙筒に手を伸ばした。

トトリが即決したようにダルトンもセリムに異論は無いようだ。むしろこれで最後の懸念材料が無くなったと安堵しているのは自分だけではないだろう。


「トトリ様、私はすぐに塔に戻り号令と観測準備を。」


エスメラルダも躊躇う様子は見せず、風車塔へ向かって飛んで行った。

トトリとダルトン発煙筒を高々と掲げ旋回飛行を始めた。発煙筒の色は赤。

今この瞬間にも逆突風が襲来してもおかしくない第一級の緊急信号。それがレストニアの空を染めていく。崖に作られた建築物の扉や窓が次々と閉じられていった。

畜産・農産を担う山岳地区ではリャパルの群れの誘導や牧草や田畑の保護囲い作りがすぐに行われていった。やがて風車塔と城塔から避難号令の鐘が鳴り響き、次々と観測凧が空に放たれた。


レストニアでは、慣れた、ありふれた光景。


信号を出し終えたトトリはセリムの元へ向かった。


「蟲森遊びはいただけないがお手柄じゃ、セリム」

「はい」


国が騒然とする中、彼はずっと同じ場所を漂いシュナの森の方を凝視していた。トトリにはセリムの次の行動が予測出来ていた。それでもまったく別の声をかける。


「セリム、一刻も早く戻ろう」

「トトリ師匠、僕はこのまま飛びます。防護は完璧だから」

「ふむ」


やはりとトトリは表情に出さないように迷った。いっそ観測を任せるか否か。

逆突風となると許可もなく風車塔を飛び出すこの困った弟子は、その分経験豊富だ。

若干17歳にして既に熟練の自分と同等かもしれない。観測技術という面においてはまだまだだが、試してみる価値はある。


「ならば最終観測はセリムに任せる。遊びではなく仕事だと忘れないように」


風速計や風詠道具の入った袋を渡すとセリムは少し困惑したようだった。だがすぐにそれらを受け取って真剣な顔で頷いた。


「では頼んだぞ」

「はい」


セリムが力強く返事をしてその場を離れるのと、トトリが頷いてその場を離れるのはほとんど同時だった。一度だけ弟子の後姿を見返し、その身の安全を風の神に祈った。


「トトリ様、セリムをまさか。」


風車塔の傍でダルトンと合流した。彼の顔にははっきりと不安の色が浮かんでいた。


「まだ早いとも思ったが、この際試してみたい」


ダルトンはセリムの姿を目で追って溜息を吐いた。


「セリムなら観測をやり遂げられるような気もします。仮に失敗しても大きく成長するでしょう。しかし城叔父やケチャ様が何と申すか」

「間に入るのにも慣れたわい」


トトリは笑いながら肩を竦めた。ダルトンの意見が正しい。風詠の仕事はしぶしぶ了承したものの、危険な仕事はさせるなと日頃から散々言われているのだ。なにせセリムはこの国の皇子である。三男坊にして末っ子、城では皆から目に入れても痛くないというほど溺愛されてきた。

だが皆の心配を余所にセリム自身は幼い頃から好奇心旺盛で未知や冒険が好きで仕方ないというやんちゃな性格である。

長のジークや兄弟達がその身を案じてきたが、誰にも止められないと思い知ったのか、近年はセリムを自由にさせている。

しかし姉のケチャ姫と幾人かの城叔父は未だに過保護で何か或る度にトトリに苦言を呈する。慣れたと言えば慣れたし、誰が何と言おうと無駄だとも思っている。

意志も我も強いところは父親であるジークそっくりだ。

城叔父や姫君に強く言われると多少は胃が痛むが昔ほどではなくなった。無論トトリ自身もセリムの行く末を懸念してはいる。

だが彼は大陸はずれの崖にある小さな国で満足するような子ではない。強く咎められる蟲森遊びをセリムが辞める気配がないどころか。年々来訪回数が増えているのはそういうことだ。


「それに誰にも止められん、あの子は。」


トトリには予感があった。セリムはいつか、それもそう遠くないうちにどこかへ飛んで行ってしまうと。日に日に強くなるその思いは師としてすべてを伝えきりたいという焦燥を掻き立ててならない。

今回のこの経験を得て弟子が何を学び、自分に何が足りないと感じるのか。

トトリは胸を踊らせた。


「待機しているエスメラルダを止めてきます。」

「見ろ、ダルトン。あのじゃじゃ馬を小気味よく乗りこなすものだ。いつみても良い。」


既にレストニアの上空は乱流吹き荒れる嵐風となっていた。その中をセリムは楽しく散歩するかのようにゆらゆらと舞っている。


「見事ですね。」


心底関したようにしばらくそれを眺めたあと二人は風車塔に着陸した。

間もなく猛毒の風が崖の国を襲おうとしていた。

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