旧、初恋の人
豆崎豆太
旧、初恋の人
西口の改札前に立ち、携帯を開く。着いたよーと彼女からメッセージが来ていた。
『今改札前にいる。何色の服着てる?』
『青。そっちは?』
『白いシャツにジーパン』
『そんなのいっぱいいるじゃん』
『ごめん』
『今横を通った背の高いお姉さんも白いシャツにジーパンだった』
取り敢えず、僕はおそらく十中八九、「背の高いお姉さん」ではない。苦笑いしながら雑踏の中に青い服の女の子を探す。
物産展の周囲を八の字に周って見つけた彼女は、今日も世界一可愛い。
白地に青い模様の入ったワンピース、青い鞄。リボンの付いたサンダル。最近染めたブラウンのショートカットがとてもよく似合う。かつて世界一可愛い女子高生だった彼女は、その後世界一可愛い女子大生になり、今は世界一可愛い社会人女性になっている。
「そんなに青くないじゃん」
開口一番に文句を言うと、彼女は木漏れ日が覗くようにふわりと笑った。
中野茜は、僕の元恋人だ。
彼女との関係が友達から恋人になり、恋人から友達に戻って五年が経つ。僕らは今も律儀に相互的な友達として振る舞い、数ヶ月に一遍、些細な用事で会う。
今回の目的は、最近開通した地下鉄東西線に乗ること。そのついでに、東西線の端っこにある古い動物園に行くこと。
ちなみに前回は市内に新しく出来た水族館にふたりで行った。その前は映画だった。これじゃあただのデートじゃないかと言っても黙殺されるに決まっているので、僕はそれを口には出さない。
「珍しく晴れたね」
彼女が駅舎の大きな窓越しに空を指すので僕はそちらを見上げてから笑う。
「嘘、ここしばらくはずっと晴れてる」
「そうだっけ? 君、雨のイメージしかないから」
僕と彼女は最近、会うたびにこのやりとりをする。今日は珍しく晴れてる。嘘、最近は降ってない。そうだっけ。君、雨のイメージしかないから。
彼女と恋人だった頃、二人で出かけるときははほとんど毎回雨に見舞われていた。電車で待ち合わせて街に出るとき、彼女は僕を見るたび頬を膨らまして笑った。君と会うときはいつも雨だ。彼女はその頃も、世界一可愛かった。
「どうする? 丁度お昼時だし、先にご飯食べようか」
僕が提案すると、彼女は何か肉が食べたいと訴えた。話が早い。なんでもいいとか言わない。僕は頭の中で駅周辺の店の地図を広げ、「肉」に該当するお店と料理をピックアップした。
「じゃあ東口に出よう。おいしい炭火焼肉丼がある」
女性に対しての提案としては些か配慮に欠ける部分があるものの、彼女に対する提案としては間違っていない。その証拠に、彼女は「賛成」と言って屈託なく笑った。話が早い。そしてやっぱり、世界一可愛い。
彼女は可愛い。
コーヒーのカップを両手で持つところ。
ごはんを食べるときいつもにこにこしているところ。
マシュマロが好きでひとつ頬張る度にとろけそうな笑顔になるところ。
照れると暴力的になるところ(彼女の右ストレートは強烈だった)。
僕の話を「何が楽しいのか全然わかんない」と言いながらにこにこ笑って最後まで全部聞いてくれるところ。
僕の知らない(そして聞いててもよくわからない)話をひひひと笑いながらだーっと喋ってくれるところ。
自分の好きなものにまっすぐなところ。
彼女は嫌いなものの話をしない。
嫌いなことを思い出す時間が無駄と言ってずっと好きなことの話をする。びっくりするほど脈絡がない。でも、だから彼女の話を聞いていていやな気持ちになることはない。好きなものの話をするときの彼女が僕は大好きだった。
彼女は僕の好きなものの話を聞いてくれる。つまんないわかんないと言いながら、こういうこと? じゃあこれは? と言いながら全部喋らせてくれる。
できれば僕が彼女を幸せにしたかった。でも僕は彼女の嫌いなものを含んでいた。僕の側にいると否応なしにそれを思い出すらしく、彼女はよく泣いた。
僕は彼女を幸せにしたかった。けれど、それはどうやら僕の役目ではなかった。
実際のところ、彼女は僕と恋人関係にあった頃よりも笑顔でいることが増えた。それなりに悲しくはあるが、まあ、この関係が最適解なのだろう。
駅の東口は大型リニューアルの効果あってかひどく混雑していた。人波を縫うように出口を目指す。
昔彼女と交際関係にあった頃、駅前の七夕祭りに出かけたことがあった。その時もやはり、道はそれなりに混んでいた。僕は彼女とはぐれないように、もちろん下心ありきで彼女の手を掴んだ。彼女は僕の手を二秒で振りほどき、代わりに僕の脇腹を小突いた。「小突く」という可愛い言葉がそぐわない、強烈な突きだった。
「茜、大丈夫?」
背後に呼びかける。大丈夫、いる、と返事が帰ってくる。あの頃と同じように手を延べたらあの頃と同じように脇腹を小突かれるのだろうかと思案していると、服の袖、二の腕のあたりをつままれた。僕はもちろん狼狽する。
混んでいるからだ。混んでいるから、特徴の無い服装をしている僕を見失わないために、彼女はただそれだけのために僕の服をつまんでいる。それだけ。しかし、しかしだ、君は君の立場を忘れてやしないか。君は僕の元カノだ。弁えてくれ。
薄いシャツ越しに彼女の指先の体温が届くような気がして、そこから懸命に意識をそらす。考えを声に立てれば友人という地位をすら剥奪される事態が想定されたため、僕は心の中でだけ文句を述べ、速やかに般若心経を唱える作業に移る。色即是空、空即是色。臨兵闘者皆陣烈在前。
所詮は地方都市の小さな駅、数分も歩けばその人混みは抜けることができた。僕は何事もない顔で右方向のエスカレーターを指し、彼女は頷いて僕の隣を歩く。
「すごい混んでたね」
「地方都市のくせに都会ぶっちゃって」
「駅ビルって何かさあ、おみやげを買わなきゃいけないような気にさせられるよね」
「わかる」
僕と彼女がかつて暮らしていた地元の駅は、簡単な駅舎にコンビニが一軒と自動販売機、券売機、改札だけがくっついている小さなもので、駅ビルというもの自体が旅行の象徴に近かった。
見慣れた駅中のお土産品店は今やその喧騒に押され、大型ショッピングモールに顧客を取られた商店街さながらに寂れてしまっているようにすら見えた。大丈夫と僕は思う。大丈夫、僕はそちらの味方です。これからもちゃんと通います。ときどき。
紹介した炭火焼肉丼はどうやら彼女の眼鏡に適ったらしかった。彼女は行儀よく口を閉じたまま言葉にならない声を上げ、可愛らしいハートマークを撒き散らす。一口がとても小さい。肉一枚を口に入れようとすると必然的に米の入るスペースが減るため、最終的に米が余ってしまうのではないかと僕は余計な心配をした。
炭火焼肉丼の辛味噌味は、美味しかったと思う。多分。
日本一標高の高い地下鉄駅、と誇らしげな看板を見て僕は少しの間考えこむ。いやもちろん、電車が途中から完全に地上に出ていたのは気がついていた。この動物園は山の上にあるのだから、ここに来るならば山を登ってしまうのは仕方がない。しかして地下鉄の定義とは。
「アイデンティティの放棄だ」
彼女が真面目な顔で言う。僕は頷く。乾燥のために唇が切れているのを確認し、鞄の中をひと通り探ってリップクリームを持っていないことを確認する。
「この辺ってコンビニとかあるかな」
「何か買うの?」
「口切れた。リップ買う」
「なんだ、リップクリームなら持ってるよ」彼女は肩から提げた鞄に手を突っ込み、リップクリームを取り出して僕に差し出した。「使う?」
「いや、いい」
いいっていうか、やめて。僕はやはり口にはしない。いやまあそりゃキスくらい昔は何度となくしたわけで、というかその先のあれやそれもシてたりはするわけで、リップクリームくらい今更何をという感じでもあるのだが、それはそれこれはこれだ。第一、今は恋人ではない。
というか君は何か、もしかしてそれは僕以外の人にもすることなのか。君はある程度親しい友人ならばリップクリームを貸せちゃうのか。それともやっぱり今更とでも思っているのか。
これもやはり声に立てれば鳩尾に重い一撃を入れられそうだったので、僕はただ内心で頭を抱えるに留める。一度別れておいて今更意識してくれとは言わないが、もうちょっと垣根がある方が健康的なんじゃなかろうか。
動物園の裏側にあるコンビニへ赴き、リップクリームと飲み物を買った。彼女も彼女で飲み物を買っている。
彼女は昔、会計が嫌いだった。どうも対面のレジそのものが嫌いらしかった。だから彼女と付き合っていた頃、会計は僕の仕事で、後から彼女の分の代金を受け取っていた。
君も難なく会計ができるようになったんだねえと茶化しそうになった自分を押しとどめる。過去を茶化したくなるのはたぶん、支配欲とかそういうもののかけらだ。僕は君をこんなに知っている。その発露はちょっと美しくない。
コンビニへの道中、おもちゃの押し車を押している子供を見て「伊能忠敬だ」と思っていたら、隣を歩く彼女が同じことを言った。僕はやはり、頭を抱える。彼女と共有してきた時間の長さが、こういう甘ったるい事象をいちいち発生させる。
あの時さあと彼女は言った。
何年か前、それより更に何年か前の話をしている時だった。
「本気で別れるつもりは無かったよ、私」
彼女の言う「あの時」、つまり別れ話に発展する会話で、彼女は僕に「もう別れる」と言った。月に一度程度は言われる、いわば聞き飽きた癇癪だった。ただその時の僕は別件で疲れていた。彼女の癇癪ははいはいと適当にあしらって終わる種類のものではなかった。僕は別れを承諾し、毎日していたメールをそこから何日も送らなかった。
「でもその次に会った時のアキが、冷たかったから、それで諦めたんだ」
それはそうだろうと思った。僕はその時、彼女の顔をほとんど見ていないから。
顔を見れば未練に負けてしまう気がして、そうなっては意味が無いと、僕は彼女の目を見ず、話もほとんどせずにその場を去ったのだ。唯一の失策は本を借りたまま別れ話をしてしまったことだが、その程度は許容範囲と見ていい。
涙ぐましい尽力の甲斐あってか、僕と彼女は正しく恋人関係を破棄した。
その後彼女には新しい恋人ができ、こともあろうに僕に向けてその惚気を撒くなどしてそれはそれで大変な迷惑だったのだが(おかげであまり好ましくない内容の夢を見た)、今や僕らは誰から見ても全く正しい友人だ。
僕が未だ彼女の一挙手一投足に心を振り回されていることを除けば。
入場券を買って入った動物園で真っ先に見たのは土産物店だった。入口と出口が同じだからこういうことになる、と僕は誰にともなく思う。ディスプレイされた巨大なパンダのぬいぐるみに、彼女がふらふらと近寄っていく。
「猫だ」
「ああ、猫だね」
僕は曖昧に頷く。ジャイアントパンダは中国語で「大熊猫」と書く。個人的には釈然としないが、猫だ。ちなみに熊猫はレッサーパンダを指す。ジャイアントパンダは大きい熊猫なので大熊猫。レッサーパンダを猫とするのは、まあ、わからなくもない。ジャイアントパンダに比べれば。
僕に携帯を押し付けてパンダの作り物の隣に並び、指を二本立てて彼女は笑う。液晶越しに見る彼女は、頭の天辺からつま先まで世界一可愛い。いたずら心で連写すると、なんでそんなに取るのと文句を言ってまた笑う。それがやっぱり世界一可愛い。
次に彼女が近寄っていったのは、土産物の詰まった冷蔵ケースだった。ずんだ餅やごま蜜団子など、定番のおみやげが並んでいる。消費期限前に捌けるのかが心配だ。
「これあれでしょ、枝豆すり潰して砂糖混ぜたやつ」
彼女が見慣れているはずのずんだ餅を指して言うので僕は「他県民ごっこをやめろ」と混ぜ返す。私は今日、埼玉から来ていますと彼女が答える。他県民ごっこをやめろと僕は繰り返す。君は在来線で三十分の近所に住んでいるはずだしずんだ餅も見慣れているはずだ。
園内で彼女はおおいにはしゃぎ、動物園のすべてを歩きまわって満足気に笑った。鳥のコーナーは二周した。網の隙間から侵入したのであろうすずめが我が物顔で餌を食んでいた。雀に取られる分の餌は果たしてどう計算され管理されているのだろうか。
山の上というロケーションのせいか、園内には野鳥もそれなりに居た。僕はそれらの見分けがほとんど付かないけれど、彼女があれはメジロでこっちがエナガでといちいち説明してくれた。きっと明日には覚えていないだろうと思った。
「双眼鏡を持ってくればよかった」
「次回は必ず持って来よう」
また二人でここに来ることがあるのかどうかはわからなかったが、僕は相槌として提案する。彼女はそうだねと言って、まだ鳥から目を離さない。いつか水族館に行った時も熱帯魚の水槽の前から動かなくなったのだが、今回は展示動物ですらない。
自分より生まれの遅いラバを見て、彼女は「人生の後輩だ」とコメントした。少なくとも彼らは「人生」を歩んではいないと思ったが、僕は適当に肯定した。
キリンは遠かった。ゾウは大きかった。僕はゾウの糞を乾かして燃料か何かにしている地域のことを思い出していた。
西ローランドゴリラ(学名ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ)と東ローランドゴリラのどちらがイケメンかというような話をし、カバの餌やりを見、水族館と動物園のどちらにも展示されているペンギンについて議論した。素晴らしく生産性が無い。
「あ、猫がいる」
言って彼女が指差したのは狼だった。さっき同じセリフを言った時はライオンだった。パンダ、ライオンと来てついに狼まで猫扱いする。
「どちらかと言えば犬だと思うんだけど」
僕が指摘すると、彼女は急に真面目な顔を作って「犬だってネコ目イヌ科なんだよ」と言う。僕は僕の無知を詫び、彼女は満足そうに笑う。でもやっぱり、どうかと思う。
彼女の言動は突飛で、ともすれば電波系に分類されかねないのだが、その実、かなりの割合でそれなりに真っ当な知識に根差している。ただ、根から直接花が咲いてしまっているので会話は時々困難だ。
彼女が満足するまで動物園を歩きまわり、アイデンティティを失った地下鉄に乗って帰途につく。乗り換えの手前で喫茶店に入った。暗くて狭い店内は、華やかさこそ無いもののしっとりとして趣がある。
アイスティーを頼むと、わざわざ小さなココットにガムシロップのポーションが入れられて出てきた。僕はその必要性についてしばし考え、気を取り直してポーションをつまみ上げる。
しかし、つまみ上げたポーションは中身が空だった。僕は首を傾げる。
「どうかしたの?」
聞かれてポーションを手渡す。空であることを確認して彼女は笑う。
「もう入れたんじゃなくて?」
「入れてない」
まごうことなきゴミが出てきた。僕が小声で言うと、どれ、と彼女は簡単に僕の前からアイスティーを持ち上げる。僕は彼女の方を見ない。彼女の唇がストローを咥える場面など見たくはない。というか後ろめたくて見られない。
「うん、甘くない」
目の前に戻されたアイスティーを見る。どうしてそう無防備なのだと抗議したい気分になり、それをやめる。彼女は声を立てずに笑っている。
「なんで君はそう、毎回毎回面白い目に遭うの」
「好きでやってるわけじゃない」
「いつかの時もさあ、ホットココア頼んでるのに機械故障で冷たいの出てきたよね。二人で頼んで、君の分だけ」
実際には冷たい方を僕が引き取って飲んだだけだったのだが、そういう瑣末なことは今は問題ではない。彼女と出会ってもうすぐ十年になる。二人で重ねてきた時間は、そう短くはない。
「何年前の話をしてるのさ」
「わかんない」
それはいつかの冬だった。そのときもきっと、つまらない用事で出掛けていた。喫茶店のポスターにあるスパイス入りのホットココアが美味しそうで、二人でそのお店に入った。頼んだのはホットココアで、出てきたのはアイスココアだった。彼女はその時も、店員に聞こえないよう声を落として大笑いしたのだった。
「んじゃ、気をつけて」
駅の喧騒は健在だった。それも当然、まだ十七時だ。僕と彼女は些細な用事で会い、大抵は半日程度を一緒に過ごして別れる。昼食と、お茶と、その他。
「ありがと。またね」
彼女が半身でこちらを振り返って手を振る。やっぱり世界一可愛い。
改札の向こうに消える背中を見る。彼女が振り返ったことは、ここ五年、ない。
ついでに、無事に帰宅した旨の連絡も、ここ五年、ない。
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