初恋未満

 昔の話をしよう。

 今から十年ほど前、僕がまだ十五歳で、すれっからしの情欲なんかとは縁遠かった頃。自分の中に燻る劣情をそれと認識せず、ただ「恋の端っこのあまりきれいじゃない部分」として取り扱っていた頃。

 その頃も彼女は世界一可愛い女の子だった。暑いからと言って肩にかかるくらいまで短く切りそろえた髪を、暑いからと言って無理やりに括った女の子だった。海老の尻尾みたいな形に括った髪の向こう側の首に、第一胸椎の浮いているのが見えた。それに鼻を寄せた時の匂いを僕は今でも鮮明に思い出せるけれども、その記憶が正しいという保証はどこにもない。

 たぶんその日も暑い日だった。彼女以外についての記憶はあまり明確ではない。ただ、汗をかいていたんだからたぶん夏で、暑い日だった。

 僕たちの通っていた高校にクーラーなんてものはなく、だから僕たちはクソ暑い盆地の真ん中で、ただ馬鹿でかい扇風機の恩恵を受けながら暮らしていた。ちなみに、冬はドラム缶の中で焚き火をしているだけといった風の、煙突のついた、ストーブというよりは炉とでも呼んだ方が近いような物体で暖をとっていた。平成も十年代後半の話である。

 彼女の髪が結び目の近くで少しよれていた。髪のひと束が、くるりと溜まるような曲線を描いて飛び出ている。別に、彼女についての粗捜しをしていたわけではない。ただ、僕はどんな些細なことでも、彼女に話しかけるきっかけがあればそれを使わずにはいられなかった。

「髪がほつれてる」

 僕が言うと、彼女は僕を一度見た後で、手で探るように後頭部をぺたぺたと触った。そうして指先で髪のほつれている部分を確認すると、そのままおもむろにヘアゴムを引っ張り、髪を解いた。

 その時僕が少し息を止めたのは、彼女に対する過剰な礼儀の表れであり、悪意とかでは決してない。ただ、彼女から溢れるシャンプーの匂いを嗅いではいけないような気がしたのだ。なんとなく。

「めんどくさいから、きみ、やって」

 彼女はそう言うと、僕にヘアゴムと、ポケットから取り出した木櫛をよこした。僕は少しの間硬直した後、友人として正しい態度をどうにか引っ張り出して身に纏った。つまり、彼女から櫛とヘアゴムを受け取った。彼女は、こちらの都合など少しも知っていてはくれない。

 僕は左手で大雑把に彼女の髪をまとめ、右手に持った櫛でそれを梳った。髪を触らせるのが平気なのか、あるいは髪を触らせるのが平気なのかは知らないが、彼女は膝上丈のスカートから伸びた脚をなにげない形で放って、僕に頭を預けていた。

 襟足をまとめようと動かした手の、甲が彼女の首筋に触れた。汗に湿って冷たい、細い、彼女の首を、できるだけ見ないように手を動かす。彼女の汗の匂いと、それから女性用のシャンプーの甘い香り。

「できた」

 僕が彼女の頭の天辺を軽くはたくと、彼女は少し唇を曲げて僕を見た。それからすぐ笑顔になって「ありがとう」と言った。


 彼女と僕が付き合い始める、ほんのすこし前の出来事だった。

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