シーン15

 酒屋リカーストアにより大量のお酒を購入した後、ジェーンの赤いピックアップトラックは紗央梨たちを載せて町を離れることになった。ジェーンは運転しながら、紗央梨たちに自分たちの家の状況、町のことなどを語ってくれた。


 助手席の紗央梨は、聞き逃しがないように言葉一句一句食い入るように聞き入っていた。彼女の話し口調は非常に優しいトーンでゆっくりと、しかもなるべく簡単な単語を使うように、はっきりとしゃべってくれていた。


 ジェーンの家は、この町から南東へ車で三十分ほど離れたところにあり、小さな農場を家族経営している。平均より少し小さめの農地だが、食肉用の牛を飼っていたり、そのための飼料となる穀物も生産しているとのことだった。


 後部座席左に座っている美紀は、絶えずにたにた笑みを浮かべ、ジェーンの話はほとんど耳に入っていない様子だった。どうも、今晩酒が一杯飲めることが楽しみで楽しみで仕方がないようだ。美紀の右隣にいるキーラは、その笑顔を珍しげに、黙々と見つめていた。


 紗央梨は、後ろに目があるわけではないのだが、その美紀の様子をひしひしと感じ取っており、ため息を漏らしていた。


 実のところ、ジェーンもなにやらたのしげで、美紀と同じオーラを漂わせていた。先ほどの酒屋リカーストアにおいても、美紀の先導もなく、率先してカートを山のようにしながら、酒を購入していた。


 きっと、この人も『呑べえ』さんなのかもしれない。そんな一抹な不安を紗央梨は抱えていた。


 ジェーン赤いピックアップは、町を離れ、家屋もまばらで、基本地平線のみの草原地帯に入り込んだ。午後三時過ぎ、まだ陽が高く、空は鮮やかな青を見せていた。まわりは、牛の放牧地、穀物畑が広がっている。紗央梨たちが、ミアータを緊急停車していた場所と風景が似ているが、違うのが道が狭く、アスファルト路面状態はよいとはいえないが、彼女の車はその路面から振動をほどよく吸収して、室内を快適保っていた。


 今年の夏は早いとジェーンは言った。ここ数日は、六月にしては高めの気温で、今日は特に暑いそうだ。


 日本はもっと暑いよね?っと、ジェーンが紗央梨に訊いてきた。


「イエス、アンド、モア・ヒューミッド。(そうですね。さらに湿気が多いです。)」


 紗央梨は、優等生っぽい口調で答える。


 カナダに来て、どのくらいなるの?


「フォー・マンズ。(四ヶ月です。)」


 上出来だね、よくしゃべれているよっと、ジェーンは紗央梨の英語を褒めてくれた。けど、まだ、堅苦しいね、って、付け加え、どんどんしゃべっていけば、上達するよっと、アドバイスをしてくれた。


「アイ、ホープ・ソー。(私もそう願ってます。)」


 紗央梨は自信なさげな同意の言葉で返す。


 そのジェーンの言葉を聞いたのか聞いていないのか、後部座席では美紀が、キーラにどんどん日本語でしゃべりかけていた。日本語で。持ってきた扇子を取り出して、閉じたり開けたりして、見せていた。キーラは、スムーズに折りたたまれて棒状になっていく扇子を、感嘆の声をあげながら、不思議そうな目で見つめていた。


「By the way... (ところで、)」


 と、ジェーンが話を切り返した。


 匂いに敏感な方かな?と紗央梨に聞いて来た。


「ライク、アン・オールドマン?(おやじみたいなの?)」


 紗央梨がおそるおそる切り返すと、ジェーンは豪快に笑い出した。


 「I don't like it too!(私もその臭いは嫌いだよ!) Don't worry, that is totally different. (心配しないで、あれは全く違うものだから。)」


 その臭いでないことに紗央梨は安堵したが『全く違うTotally Different』という彼女の言葉が引っかかった。


 ジェーンさんが気にかけている事って、何かの臭いに間違いなさそう。でも、なんじゃろ?


 と言う間に、どうやらも目的地へ着いたみたいで、さぁ、我が家はあれよっと、ジェーンが左前方を指さした。


 紗央梨と美紀は、その指の方角へ視線を滑らした。その向こうに二、三の家屋が見える。草原には茶色、焦げ茶、白い身体と様々なボディをした牛が何頭かたむろっており、さらにその中央あたりの軒だけの建造物に何十頭の牛が日陰を求めて、ひきしみあっていた。


「すげー、ここも、牛がいっぱいいるねー」


 美紀が声を上げた。「こっちの牛は茶色いのが多いんだねー」


 紗央梨も、同じ事を思った。意外と毛色にバラエティがあるんだなっと、感じていた。彼女の実家のつきあいがある日本の畜産家は、顔から足、しっぽの先まで、真っ黒な身体の和牛をもっていたからだ。


 しばらくすると、左側に木で作られた枠だけのゲートがあり、右側に木の板の看板が掲げられていた。


「Reeth Ranch (リース・ランチ)」


 紗央梨はすぐさまつぶやくように発音していた。これが、ジェーンさんの牧場の名前かぁと、紗央梨のその響きに感心していた。


「Yap, this's my ranch! (ここが私のランチよ!)」


 このジェーンの言葉で、紗央梨と美紀はとんでもない勘違いをしていたのに気づいた。


 『ランチ』って、『昼食ランチ』じゃなかったんだー。二人の共通の焦りは、カナダに四ヶ月もいながら、『エル』と『アール』の聞き分けをまだできていないことであった。多くの日本人がまず最初にぶち当たる壁に、彼女らはもれなく当たっていた。


 今思えば、『アール』の次の『エー』も、『lunchランチ』の『ユー』の発音『ア』とも、全然違う感じで、ジェーンさん発音しているし! 紗央梨は、改めて思えば聞き間違えているとこまだあることに気づいた。


 二人は妙な勘違いしていることに、恥ずかしく思い始めた。話の流れには全く問題なかったのだが、所詮なまじ四ヶ月の現地英語勉強の限界を痛感した一瞬であった。


 このとき、彼女らはもう一つ勘違いしたままであったことがあった。『Runchランチ』は、固有名詞ではなく、『牧場』もしくは『放牧場』を意味そのものである。実際、よく聞き取ればわかることなのだが、紗央梨も相手の表情とボディランゲージだけで読み取っている節があり、すべて正確には理解していない。彼女らの英語力は、日本にいたときと比べ断然と向上しているのだが、それ以上に表情と身振りで意思を読み取る能力の方が向上していたのだ。


 赤いピックアップトラックは、未舗装状態の乾いた小道をゆっくりと走り、奥の家に向かっていた。


 はて、さっきジェーンさん、匂いに敏感かどうかきいてたよね……。紗央梨は、ジェーンの言葉を思い出した。


 車は、家の玄関口までたどり着き、停車した。


「Hey Girls! We arrived. This is our house! (みんな、ついたわよ! ここがわたしたちの家よ!」


 大きな家だなぁ、と関心しながら、紗央梨と美紀はその家を車の中から家を見つめた。


 家は二階建て、幅が広く、バンクーバー市内で見かける一般家庭の一軒家と比べるとその倍以上の大きさがあった。これがバンクーバー市内であると豪邸クラスの大きさになるのだが、この家屋はそんな豪華さは全く感じられなく、地味な作りをしていた。


 まぁ、日本もカナダも農家の家は、普通の家庭の一軒家の倍以上の大きさを持っているものだ、基本、農家の家屋は大きいだけで、壮観さは持ち合わせていない。でも、この家から光景は壮大な風景だ……。


 この家からは、お隣さんの家屋が見えないのだ。周り草原だけしか見えない。こんな光景は、日本の北海道くらいにしか存在しないのではと紗央梨は感じた。


 ジェーンは車を停車すると、エンジンを切りシートベルトはずすと、すぐさまドア開け、降り立った。紗央梨も、シートベルトはずし、足下の奥に置いたバックパックを取り出し、後部座席の美紀に声をかけた。


 「美紀ぃ、ついたわ……よ」


 紗央梨は後を見ると、言葉を失った。彼女の視線の先には、後部座席左側の窓に寄りかかって、放心状態になっている美紀がいた。右側のキーラはその様子を、きょとんとした顔で見つめていた。


 「く、臭いよー……」


 美紀は、気力を振り絞るように、かすかな声でつぶやき、締め切った窓の方へ顔を向けていた。


 ジェーンの家は、畜産牧場である。カナダでは小さい規模かもしれないが、日本の畜産規模と比べると大きめに当たり、五十頭近くの畜牛が飼育されおり、それだけの飼料が保管されており、糞尿もそれだけ発生してくる。加え、ここ数日間の季節外れの熱波がその飼料の発酵を促進され、この農場には畜産牧場特有の臭いが強烈に覆っていたのである。特に、温かくなり始めた気候は強くなる。


 都会育ちの美紀には、とうてい受け入れられない『臭い』であった。


 紗央梨はその美紀の惚け状態を見てすぐさま把握し、大きく溜息をついた。さて、どうやって美紀を引っ張り出そう。そう考えながら、自分のバックパックを背負いながら、社外へ出た。


 ジェーンは後部左ドアを大きく開けて自分の娘キーラをチャイルドシートからはずし抱きかかえようとした。美紀は、小さな身体をさらにこじんまりとさせ、右ドアに寄りかかり、顔に外気がかかるのを避けるようにしていた。ジェーンもこのとき、美紀の様子に気づき、紗央梨に声をかけた。


「Parhaps, she is a city-brad? (もしかして、彼女は都会っ子?)」


 「イヤ。(そうです。)」


 紗央梨は肯定しておいた。町へ来るときも、美紀はあの臭い嫌がっとったなー。それに、あからさまに嫌がらなくても、失礼って思わないんだろうかっと、あきれていた。


 ジェーンが、完全にキーラを抱きかかえると右ドアを閉め、美紀一人だけ車内に残した。密閉になったことを確認すると、美紀はすぐさま安堵の息を吐き、大きく深呼吸をしはじめた。


 紗央梨が、後左ドアを開けた。早くもなくゆっくりでもなく、まるでハイヤーがドアを開けるかのごとく。ただ、そのドアには美樹が寄りかかっていた。


「うわわわ……」


 美紀がそのままなだれ込むように、外に上体を投げ出し、手をばたばたさせてバランスを崩した体を保とうとしていた。彼女の目下は、乾燥しきった硬い土の地面で、1メートルの高さ。落ちたら痛い。顔に傷つく。


「よっと」


 紗央梨が、柔らかな美紀の上体を受け止めた。左腕に、右のふくよかな胸の感触が伝わり、微かに甘いにおいが漂ってきた。男だったら、どきっとして、いちころなんだろうな……。そんな、冷静な判断をする彼女であったが、ともあれ美紀の地面直撃を防いだ。


「あぶないよ。美紀」


「突然開けたのは、きったかさんだから!」


「さっさと出んさいよ」


「そんなこと言ったって、きったかさぁーん、くしゃい」


「主語をはしょるな、うちがにおってるようじゃん」


「だって、この臭い、くしゃすぎだよー」


 美紀は涙をあふれさせながら、しがみついてきた。


「そうじゃね、美紀にはちょっときついかもね-。でも」


 紗央梨は美紀をなだめるようと、その小さな肩を握ると、


「我慢しんさい。無料ただで泊められんのよ。ありがたいと思いなさい。ただでさえ、修理代、予定外の宿泊延長で、お金かかってんのよ」


 力をぐぐっと込めはじめた。バンフでの延長は明らかに美紀のおかげ。


「痛い! きったかさん、痛い!」


 紗央梨は、痛がっている美紀を素早く車から降ろさせた。美紀はよろよろと車外にたちずみ、鼻をすぐふさいだ。


「くしゃい」


 紗央梨は、後部座席下の彼女のバックアップを拾い渡すと、勢いよくドアを閉めた。


「現実を見なさい。こういう農家が、あんたの胸をそこまで育てたんだから、感謝しないと」


「いや、おぱっいは関係ない! その前に、きったかさん、セクハラ!」


 鼻声で言い返す美紀。「それに、私、そんなに牛乳飲まないもん!」


「え? 肉をうちよりたべるでしょ」


「そうよ、きったかさんも肉をたべなよ! だから、そんな胸なの! わたしみたいに、男を魅了するおっぱいになろう。いっしょに肉食になろう!」


 美紀は、紗央梨の反応が無言で、遠くを見るような目で自分を見つめているのとに気づいた。


「な、何よ?」


「……別に」


 紗央梨は、美紀がこの牛たちが『乳牛』だと勘違いしていることに……。このまま、黙っておこう。

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