シーン7

 まだ町に着くまでに、紗央梨はちょっとした問題に直面してしまった。


 レッカー車内のエアコンもばっちし効いており、温度はひんやり程度。かなり大きめの排気量とわかるエンジンのノイズも室内に聞こえてはくるが、すこし。路面とタイヤの音も、振動も、ボディがしっかりしているのか、不快なほどシートに伝えてこない。紗央梨のミアータと比べるとめっぽう静かで振動もゆるやかであり、素晴らしく快適なレベルに入る。ただ、一点をのぞいて。


 紗央梨はその一点の問題に気づきはじめると、体を硬くしはじめ、口を少し開きつつ、口から空気を取り入れるように呼吸をし始めるようになった。


――臭い……。


 運転席に座っている作業員から、かなり癖のある体臭がただよっていたのである。紗央梨はその匂いが加齢臭であることにはきづいたが、その臭いは、彼女にとって心理的に受け付けられないたぐいの物であった。紗央梨は、センターコンソールの空調コントロールパネルをみてみると、やや強めに設定されており、エアコンディションも動いていることを確認した。エアコン吹き出し口から、フレッシュなひんやりな空気が紗央梨の顔に伝わってくるのだが、となりの作業員の体臭は、さらにそれを上書きするくらいに紗央梨の鼻についてきた。


 紗央梨は、体をこわばらせながら、なんとか体臭に我慢で乗り越えようとしていた。右隣の助手席の美紀をみると、無邪気に風景に夢中な様子であった。


――もしかして、美紀はこのことに気づいて、うちを真ん中にすわらせたとか?!


 と紗央梨は、美紀へ疑念を思い浮かべたが、それを否定するような要素は、残念ながら今の美紀には存在しなかった。紗央梨は、彼女にほのかな憤りの眼差しを送っていた。


 美紀は、その紗央梨の眼差しに気づいたのか、彼女へ振り向き、にたって笑みを浮かべた。


――気づいとったのね、美紀。


 紗央梨は、計られた事を悟った歴史上人物が受けた衝撃が、今ならわかりあえる気分だった。それと同時に、いくらミアータより広い室内とはいえ車の室内なのだから、彼の体臭は自分を通り越して美紀のところにも伝わるのではと、思い始めた。紗央梨は、きっと美紀をにらみ、


――ドゥー・サムシング・トゥ・ミー(うちのために何かしてよ)っと、なぜか英語で念を送りはじめた。


 数秒後の間、紗央梨が彼女ににらみを送ったころ、横窓から平原を眺めていた美紀は


「キャン・アイ・オープン・ディス・ウィンドー?(この窓開けていい?)」


 と、作業員に聞いてきた。もちろん、彼は拒否をしなかった。


――美紀!ぐっじょぶ!


 と紗央梨は、堅苦しい笑顔を美紀に送った。美紀は、ドアのハンドル近くにあるパワーウィンドウのスイッチを押し、窓を開けた。


 開いた窓から、車外の音とともに、乾いた空気が室内にどっと入り込む。紗央梨の体の周り包み込んでいた作業員の体臭も、右からくる外気で吹き飛び、一気に和らいでいった。紗央梨は、鼻呼吸できる喜びを噛み締め、静かに胸を撫で下ろした。


 その間、美紀はスマートフォンで窓の外の光景を撮り続けていた。シャッター音が、窓から入ってくる乾いた空気ともに、心地よく室内に響いてきた。紗央梨にとっては、ラジオから流れるポップソングより身体にしみこんできそうだった。

 

 数分後……。


「飽きた」


 美紀は、その一言発すると、スマートフォンをしまった。その瞬間、紗央梨にいやな予感が走った。


 美紀は、すかさずパワーウインドウのスイッチを右手の人差し指でひっかき上げて、窓を閉めはじめた。


 紗央梨の顔は、心地よさに浸っている余韻のまま、引きつっていった。


――美紀! なん血走ったことしとんのよ?! 窓、閉めちゃだめじゃん!


 右側ドア窓は、紗央梨の必死な心の叫びを無視して、完全に閉めきられてしまった。エアコンの風が、紗央梨に伝わってきたが、それ以上に作業員の体臭が徐々に鼻についてきた。紗央梨は、息を止めて、美紀に振り返った。


 美紀は、胸の谷間に差し込んでいた扇子を取り出し開き、自分へ仰ぎはじめた。彼女エアコンの風を楽しむかのようにへらへらと緩ませた笑顔を漂わせた。


――なんで、美紀は平気なん!?


 紗央梨は、美紀はこの臭いに気づいていないのではと、さっきの見解とは違う疑念を持ち始めた。この臭いは、ほんのこの三十センチメートル以内でしか有効でないのか、それとも、美紀にとっては不快レベルではないのかと、紗央梨の頭の中で推察が巡り回った。


 人はにおいによって相性が決まるって、何かの女性雑誌の恋愛コーナーで掲載されていたのを、紗央梨は思い出した。数年前、彼女が地元福山市で美容院で受付待ちのところで手にした雑誌だった。


――確か、女性は体臭で、恋愛異性対象を決めているのが、何十パーセントとか書かれとったが……。


 彼女は今まで匂いで恋愛対象を選んだことがなかったが、


――これは、ありえん!


 きっぱりとこの臭いが対象外であると宣言した。


 紗央梨は、横目で改めて作業員の男性を見た。彼の両袖は、まくり上げ、無数の金髪の体毛が覆った両腕が露わになっていた。彼女はそこから体臭が漂っているのではないかと思った。彼の膝から紗央梨の膝まで、約十五センチメートル。彼女から美紀まで膝まで、約三〇センチメートル。紗央梨は、明らかに中央にすわっていたが、作業員と美紀の体格差で、それぞれの間に違いが生まれていたのだ。それに気づいた彼女は、少しずつお尻をずらすように、美紀の方へよっていった。だが、五センチくらいのところで、つまってしまった。シートベルトのバックル部分が、それ以上の彼女の移動を邪魔していた。シートベルトをこんなに疎ましく思ったのは、彼女にとって初めてだった。周りに聞こえないように、軽い舌打ちをした。


 次に紗央梨は、上体だけでもできるだけ、美紀の方へ傾けた。


 美紀は、紗央梨が奇妙な姿勢をしていることに気づいた。紗央梨の頭が、妙に自分の方へよっていたのである。


「きったかさん、何こっちに来てんの? 暑苦しいー」


 美紀は、左手で紗央梨の上体を起こすように押した。


――なんで、わかってくれんの!? 美紀の鬼!


 紗央梨は、無言で罵倒しつつ、美紀の非情な行動に抵抗をみせた。


――これ以上彼の方へよりたくない!


 紗央梨は泣きそうになる感情がこみ上げてきた。彼女の目には。作業員の腕が実際より毛むくじゃらで大きく見えていた。エアコンがよく効いた室内のはずなのに、紗央梨にイヤな感触な汗が身体中から少しにじみ出てきた。


 その数分後、前面右方向に街の案内標識が現れると、レッカー車は減速をし始めた。左方向に反対車線の向こう側にはサービスエリアらしき建物が現れた。ハイウェイ上の車線の数が二つから四つに増え、前方に大きめの交差点が現れてきた。増えたレーンは、左折右折のためのであった。レッカー車は右折ウィンカーを点灯させた。


「ハイウェイをでるんだ、もうすぐかな?」


 と、美紀が呟く。


――うんうん、もうすぐだ!


 紗央梨も同調する。もうすぐクルマから降りられれ、この空気から解放されるという、希望が彼女をさらに喜ばせた。


 レッカーがほぼ徐行スピードになったとき、だだっ広い地平線がつづく大平原の中の大きな交差点にさしかかった。信号がない。日本の高速自動車道をある程度しる紗央梨にとって、高速を降りずに、交差点にぶちあたるのに違和感を感じた。さらに驚きを感じさせたのだが、思いっきりハイウェイを横切る道路がある交差点で、さらにそのための信号が存在しない。これには、美紀も気づいた。


「こんなだだっ広い交差点なのに信号がないよ!すっげー田舎。」


 と、彼女は正直な感想を声にして出す。


 レッカー車が右を曲がり、南の方へ向くと、ほとんど平原と地平線と道路だけの風景であった。中央分離帯もなく黄色い線だけで分離している片側一車線の道路が、ずっとまっすぐと南の地平線へ消えていた。地平線までの間に、道路周辺に、ほんの数点ほどの建物が疎らに見えてはいたが、町はここら辺にないことは間違いなかった。


「え?」


 と、紗央梨は思わず小さな声を上げた。


「わぉ!」


 同時に美紀が扇子を閉じた。「まだまだ、道が続いてる!」それを握りながら右腕を伸ばして、前面を指し、彼女は歓喜に似た驚きの感をだした。


 しかし、またまだ先が不明な道路が続き、町まではほど遠いことに、紗央梨は呆然とした。


 すぐに、右前方向数百メートルくらいのところに、トラクターを十数台を並べて展示している倉庫のような建物二棟が現れた。その一棟自体も二つの倉庫を繋ぎ合わせたかの用に大きく、牧場の納屋のような建物にも見えた。その周りの敷地が非常に広い。頻繁に車両が通るところと建物の周りは砂地に近い地面だが、その周りには草原が広がっており、トラクター、トレーラー、農機具がいくつも展示されていた。隣人との敷地との間には塀も木々も印も何もないので、のんびりさをさらに醸し出していた。


 紗央梨も、そこがハイウェイから最も近い機械類の整備工事であることにすぐに気づいた。そこで降ろされるかもしれないと、彼女は思った。これだけ田舎だから農機具と自動車は同じところで整備されることは、十分あり得ると彼女は感じた。ただ、農機具並みに整備されるという一抹の不安、同時にこの悪質空気から解放される安堵が、相反する感情が紗央梨を襲った。


 だが、その両方とも希有に終わった。レッカー車は加速し、そこを通り過ぎるように、南へ直進していった。


 その工場近くまでくると、美紀が驚嘆の言葉を上げた。彼女が驚いたのは、そこで並べられているトラクター、農機具の大きさであった。日本の農家でよく見られるトラクターは軽自動車より若干小さいサイズだが、ここに並べられているのはそれをひと回り以上も大きかった。


「さすが大陸サイズ!」


 美紀は、声上げてスマートフォンを取り出そうとするが、レッカー車は何事もなく通り過ぎていき、トラクターを美紀の視界から消え去ってしまった。


「ちぇ」


 美紀は舌打ちし、スマートフォンを元に戻した。


 紗央梨もトラクターのサイズには驚いてはいたが、我慢へ気が回っていたので、表面に出す行動ができずじまいであった。まだ、においの我慢が続くことには愕然とはしていたが、とりあえずトラクター修理工場でのミアータが修理が避けられたことに、彼女は安堵した。


 すぐに、目前の風景は草原ばかりとなり、遠くの方で沼地など見受けられるが、基本、平坦な原っぱが続く。左側には細い電柱が定間隔に並んでおり、ずっと南の方へ道路に並行して続いている。


 代わり映えしない風景だったが、背の高いアンテナ塔のような物が見えると、その向こうに、ぽつぽつと焦げ茶の何か動く物を彼女らはみつけた。レッカー車がそこにちかづくと、彼女らは、それらが牛であることに気づいた。


 原っぱに放牧された牛が、道路付近までの敷地まで、徘徊していたのだ。さすがに道路と原っぱの間、正確に言ったら、電線が立ち並ぶ向こう側には鉄線が張られており、牛らが道路に出てこないように守っていた。その向こうがわには囲いの様子がなく、牛はその奥の草原を無制限に、草を食べ回っているかのように見えた。


「牛がいっぱいいるよ! きったかさん」


 美紀が指さす。紗央梨は、気力が抜けた声で、


「あ、ほうじゃね……」


 と応答する。彼女はシート背もたれにぐったりと背中を預けまくっていた。我慢しつづけ、牛などどうでもよいくらいの気分であった。


 美紀が紗央梨の様子が少しおかしいと感じ始めると、


「きったかさん? どうしたの? 気分悪いの?」


 と少し心配げな眼差しで、紗央梨に声をかけ始めた。


――やったぁ! これはチャンス! と内心、喜びを上げる紗央梨。


「ちょっとつかれたかも。美紀、すこし窓を開けてくない?」


 と、紗央梨は残った力を振り絞るかのうような細い声で、美紀にお願いする。


「うん、わかった」


 美紀は快く承諾し、助手席のパワーウィンドウのスイッチを押す。助手席窓が少しずつ開いていく。外の新鮮な草原の空気が室内に少しずつ入ってくる、と紗央梨の期待の喜びも少しずつ増えていく。


 だが、同時に牧場特有の匂いがすこし漂ってきた。


「う! くさっ!」


 と美紀は叫ぶ。


「何、この匂い!」といって、パワーウィンドウのスイッチを逆にした。すぐさま、窓ガラスは上昇し、ぴっちりと閉まっていった。


「……」


 その光景を見ていた紗央梨は、声も上げることもできず、唖然としていた。まだ彼女の周りにはとなりの加齢臭が漂っていた。彼女は、すでに何か言う気力をなくしてしまった。


 先ほど、車内に流れ込んだにおいは、牧場、農場特有のもので、牛の飼料に混ざっている独特の“くさみ”がだった。このエリアは、例年平均気温より高めの暑さがこの数日続いており、今日がピークだった。そのため、飼料の発酵が活発となり、このようなくさいにおいを漂わせていた。農場経験がほとんどない、都会っ子の美紀にとっては、そのにおいは不快的そのものだった。


 地方出身の紗央梨には、そのにおいには抵抗はなかった。彼女の実家は、兼業農家で米を主体とした作物を培ってきており、彼女自身も休日になると時々手伝っていた。それがらみで他の農場、牧場をよく知っていたので、こういうにおいには慣れているところがあったのだ。美紀が毛嫌いしたにおいは、逆に紗央梨にとっては懐かしさを覚えいていた。


 美紀は、紗央梨が気分悪かったこともすっかり忘れ、先ほどのにおいにぶつぶつと文句を言っていた。美紀も、そのにおいがあの牧場から漂っていたことを理解しているようだった。


 さらに進んで数分後、同じように高いアンテナ棟のような物が見えると、またその周りにも茶色牛、黒い牛が無数放牧されていた。


――この辺りは、畜産農家が多いんだぁ……。美紀は、しばらく空けてくれそうもない。はぁ、、もう好きにして……。


 紗央梨はあきらめの窮地に立っていた。


 しばらく進むと、右方向に、大きな看板が見えてきはじめた。作業員は右腕を伸ばし、『Maple Creek(メープルクリーク)』の看板だ、と紗央梨と美紀に教えてくれた。あの向こうに街があり、このレッカー車の行き先だど笑顔で解説してくれた。真っ平らの大平原の地平線の上に、小さくまとまった緑の集合体が広がっているのが見えた。その緑は、住宅地の中に立ち並ぶ木々で、広い範囲でまとまっていることはそれだけ住宅が密集していることを指していた。彼女らにも、あそこに町があることに容易に判別できた。


 ちかづいてきた看板には、『Welcome to Maple Creek(メープルクリークへようこそ)』とかかれていた。


「ほー、あれが『メープルクリーク』かー。どんな町なんだろうね? きったかさん」


 美紀は、ついに見えるレッカー車到着地点に心を躍らせていた。紗央梨が気分が落ちていたことを全く気にしていない様子だった。


 紗央梨は、ほんとにあの町にこの古いミアータを見てくれるところがあるのかという不安をほんのすこしだけ抱えていたが、基本的にはこの車内から解放することに期待を膨らませていた。


 その町までは、もう二、三キロメートルほど先なのだが、紗央梨には遥か遠くの存在に感じられていた。

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