シーン2

 紗央梨がレッカーを呼ぶ前の話となる。


 午前十時過ぎ、紗央梨と美紀を乗せた深緑のミアータは、アルバータ州とサスカチュワン州の州境を通り過ぎ、東へ向けてひたすら走っていた。


 このクルマは、一応『本格的ツーシーターライトウェイトスポーツカー』である。


 とは言え、紗央梨の運転はおとなしく、ひたすら、他の車に追い抜かれまくっている。彼女らの目の前には、ただ地平線があるのみで、空は青く、太陽が燦々と輝いている。


 ミアータは、セダンやSUVのように快適性を求められておらず、どちらかというと、道路状況をダイレクトに伝えられるようにつくられているので、ロードノイズ、振動を感じやすくなっている。速度を上げると、エンジン音、タイヤのロードノイズがかなり高まり、室内がうるさくなり、振動も大きくなり、さすがに快適といえなくなるからだ。運転している紗央梨自身は、クルマと道路の状況が直感的に伝わって逆に安心感を覚えることもあり、不快と思うことがないのだが、助手席の美紀はそうもいかない。運転しない美紀にとっては、自分の動きに関係ない騒音と振動は不快そのものであり、あまり大きくなると不平を紗央梨に言いまくるのである。


 おかげで、この深緑のミアータは、法定速度を守りつつハイウェイをかけている。


 紗央梨は、眼鏡をサングラスに変えて、運転をつづけている。まだ、午前中のため太陽が東側に位置し、まさに彼女らの目の前で輝いており、さらに乾燥した気候のため日差しがするどく、紗央梨の目にも強く刺激するのである。


 美紀は、助手席であぐらをかいて、左手の爪の手入れをしていた。


「ねぇ、きったかさん」


 美紀は紗央梨に声をかけた。


「なあに?」


「私、ネイルアーティストになれるかも。」


 紗央梨は、突拍子もない発言に少し驚く。美紀は両手を伸ばし、きれいにラウンドの輪郭に調って、薄紅にムラもなくコーティングされた十本の指を紗央梨に見せびらかした。


「すごいでしょ。この振動しまくりの『チャリ吉』の中で、ここまで仕上げたんだよ。」


 美紀の言うとおり、カナダのハイウェイはこの車に優しくなく、法定速度を守っていても振動を室内に伝えてくれる。救いなのが、今彼女らが走っているエリアはほとんどカーブがなく、まっすぐので、あまり大きな揺れがないことくらいである。


 紗央梨は、こんな車の助手席で爪の手入れを仕上げてしまう美紀の器用さに感心していたが、グローブボックスをすっかり美紀のネイルグッズ、化粧品で占拠されているのをみつけると、なんとも言えない気分になった。


「でも、『チャリ吉』、爪に優しくない!」


 美紀は、ついでに不平をこぼす。


「このドアの開けるところ、奥のところで爪が引っかかりやすそうなんだよ!長い爪をしてたらダメージを与えちゃう」


 車のドアハンドルのことである。この車のドアハンドルは特殊で、指を引っかけて横へ引っ張ることでドアが開くようになっている。ネイルアートですこし長めの爪をしていると、奥の方で引っかかりやすく感じるのである。美紀がこのドアを開けるときは、いつも何かしら緊張しているのは、このドアハンドルの奥を気にしているのである。現在のところ、まだ、美紀はネイルアートをこのドアハンドルで壊してはいない。


「それにね、私、オープンカーはデートカーかと思ったよ。」


 美紀のことばは続く。


「夏の海岸を二人でオープンにして、爽快に走れば素敵だなって思っていたけど、実際オープンにしてみると、日差しで肌をやられる、巻き込み風で髪はぐちゃぐちゃ、路面に近いからすぐ埃まみれになる、まったく女の子に優しくない!」


 紗央梨は、その美紀の不満を否定することはできなかったが、


――ロッキー山脈マウンテンズでめちゃくちゃはしゃいでいたのは誰だろうか?


 と、これまでの彼女とのドライブを振り返り、で美紀にツッコミを入れていた。


 ここまでの道のりで、この日差しがきついなかでも幌を全開させようっと提案するのは、ほとんど美紀であった。特にロッキーマウンテン内を走っているときは、その提案は何度もなく発動された。


 さすがにカルガリーを過ぎ荒野、草原地帯に入るとほとんど提案されてこなくなり、この二日間は幌を開けられることはなかった。


 ただ、幌を締め切ったミアータの室内は狭い。外は轟々と広々と続く大平原のなか、二人は狭苦しい室内でじっとしないといけなかった。


「退屈〜!」


 美紀はぼやく。ネイルも仕上げたし、飽きてきたらしい。


「ボーイング(退屈だ)!ボーイング!」


 美紀の日本人訛りの英単語が室内を響き回る。もちろん、紗央梨もその意味も知っている。


「ほうじゃね」


 紗央梨はぼそっとことばを返し、ステアリングを握りながら、右手の人差し指をコツコツと叩いてみた。


――確かに景色も、原っぱの地平線と、ハイウエイだけ。退屈になる気持ちもわかるわ。このハンドルステアリングもほとんど回っていないし、町を出て右手はまったくシフトレバーを握っていないかも。


 高速走行安定を保つためにステアリングを握って、右足はアクセルを踏んでいるだけで、マニュアルトランスミッションのシフトはいつも五速にはいったまま。あまりにも風景が一旦調で、悪環境に陥るので幌を閉じたまま。ミアータの最大の魅力であるハンドリング、オープン走行を封じ込められてしまっている。紗央梨は、面白みのない走行の安全に専念にしないといけなく、室内でネイルアートなんかできる美紀がうらやましく感じた。


「つまんない、つまんない……」


 美紀は、ダッシュボード中央部の上部、丸井空調吹き出し口の間にある二つの丸井ボタン、上から二番目のを押す。クルマのリトラクタブルヘッドライトが、ひょこっとボンネットのさきから展開し現れた。また、美紀がそのボタンを押すと、ライトはボンネットに収容された。美紀は、言葉に合わせて連打しはじめた。


「こら!美紀!」


 紗央梨の声で美紀は、連打をやめた。ヘッドライトはでたまま。


「なんしよるん、もー。めげるじゃない」


 紗央梨は、そのボタンを押し直し、ヘッドライトを元に戻す。


「そんなので壊れるわけじゃないじゃん。夜点灯するときは、開くんだから。」


 美紀は、へそを曲げていた。


「そりゃほうやけど、連打には耐えられるよう作られとらんとおもうよ。このクルマもおじいちゃんじゃし。」


 この紗央梨のクルマ『チャリ吉』は、二〇年もののクルマである。


「そんな大事なスイッチを、私につつきやすい位置にあるのもおかしい」


 また、美紀はそのボタンを再び押そうとする。


「美紀!」


 紗央梨は美紀を制止しようとすると、


「あ、白い煙」


 美紀はボンネットを指さし呟く。すぐに紗央梨はボンネットを確認する。ボンネットの左右の隙間からしろいけむりが漏れはじめており、サイドウィンドウ横にも白い煙が漂っていた。


「え?」


 紗央梨は、一瞬でその白い煙でこのクルマにただよらぬ不吉なことが発生しはじめていることに気づきはじめたが、どう対処して良いのか全く思い付かずにいた。彼女は、メーターパネルを見始める。左端にある水温計がHラインを振り切っているのを見つけた。


「なに!? ぼれえ温度があがっとる!?」


 紗央梨が叫んだ。


「え!? 何!?」


 美紀も、その紗央梨の姿を見て驚きはじめた。


「エンジンの温度計がふりきっとんよー!」


 紗央梨は、ハンドルをいつもり力強く握って、テンパっていた。『エンジンの温度計』は、『エンジンの水温計』である。


「きったかさん、はやく止めよう!」


 美紀は、紗央梨の肩をたたく。


「そ、そうじゃね、止めんといけんね」


 紗央梨は、クルマのスピードを緩めながら、ゆっくりとハンドルを右に切り、クルマを路肩に移動させた。紗央梨はエンジンをとめ、ハザードをスイッチを入れた。ちなみに、ハザードスイッチは、さっき美紀がつついていたリトラクタブルヘッドライトの上である。


「私、何か悪いことをした?」


 美紀は心配そうに、紗央梨に声をかけた。どうも、さっきのリトラクタブルヘッドライトのスイッチをつついたのが影響したのかと心配をしていた。


「ううん、美紀のせいじゃないけぇ。はぁ、このミアータもおじいちゃんじゃろ。いつガタが来てもおかしくないし。」


 紗央梨は、美紀を安心させようとしていたが、どことなく緊張感がその声の裏に響いていた。


「ちょっとみてくるね」


 紗央梨がステアリング下にあるボンネットオープナーレバーを引っ張ると、ボンネットが軽く開いた。彼女は、ハイウェイの後続車の有無をサイドミラーで確認しつつドアを開け、クルマのフロントノーズへゆっくりと歩いた。


 日差しが、直接紗央梨の顔や腕に差し込むのを彼女は感じた。先ほどモクモクと上がっていた白い煙は、すでに消え去っていた。紗央梨は、クルマの前に立つと、サングラスをずらし上げ、さっきのレバーで開いたボンネットとバンパーの隙間に手を差し込み、指でロックを外し、ボンネットを持ち上げた。ボンネットは熱くなっていたが、やけどするほどではない。紗央梨は、ゆっくりとエンジン内を確認しつつ、ボンネットを全開にさせる。


 見知らぬ外国の地で、慣れないクルマのトラブル。事故ではないにしろ、クルマが動かなくなるという事態。紗央梨は、古いクルマなので、こういうトラブルがある程度覚悟はしていたが、まさか所有して三ヶ月足らずで起こることには予想外であった。


 熱しきったエンジンが陽の下に姿を露わにされていた。紗央梨は、エンジンの熱気と大地の乾燥しきった気候と強い日差しの板挟みになりつつ、事態の把握に思考を専念した。


――不安しか思い付かない!!草刈り機のエンジンとは、訳が違いすぎる!!こんな、大平原のど真ん中で、人里もなさそうなところで、なんで起きるの!!人が来ても、どうやって説明すんの!!


 紗央梨の背中に汗が流れはじめる。この暑さではなく、これからの不安や緊張での汗が身体中からわき出ていることに彼女は気づいた。


 紗央梨は、ボンネットスタンドはずし、ボンネットを閉めた。車内の助手席をみると、美紀が不安そうにこちらを見つめていた。


――美紀を不安にさせてはいけない。


 紗央梨は、美紀に微笑みながら、まだ運転席に戻った。


「どうなの? きったかさん」


「大丈夫じゃけ、もう一回動かしてみましょう」


 紗央梨は、作り笑いを振りまき、キーをまわしエンジンをかける。クルマのエンジンは軽やかな音ともに始動する。が、クルマの水温計は、振り切ったまま。その針をみると、紗央梨の頭の中に色々な不安が走馬燈のようにながれ、彼女は耐えきれず、すぐにエンジンをきった。紗央梨の作り笑いが消えた。


「き、きったかさん?」


「ばりやばいよぉ。エンジン付けたら、このミアータにとどめを刺しそう」


 紗央梨が、ステアリングを強く握りながら、今に涙がでそうな瞳で、美紀を見つめ返した。


「えー!!こんな所で取り残されるの!?」


「うちだって、やだよ!」


「どうすんの!? 私、ここでひからびたくないよ!早く、動かしてよ!」


「オーバーヒートだよ、きっと! 動かしたら、ミアータが死んじゃう!」


「その前に、わたしたちが死んじゃうよ!!」


 二人はにらみ合った。少しの間を開けず、紗央梨は美紀の額に汗が流れているのを見つけた。美紀も、紗央梨の鼻筋に汗が流れているのが目に入った。


――暑い。


 彼女らは同時にそう感じた。初夏の晴天下の昼頃、エアコンも起動させず、締め切ったこのクルマの狭い室内で大人二人が興奮して騒いでいるのだ。その状況は、二人ともすぐに把握した。


 紗央梨は、無言のまま、イグニッションキーをまわして電源を付け、すかさずセンターボックス前にあるパワーウィンドウのスイッチを両方押しつける。両横ガラス窓が同時にドアに沈み込むように開らきはじめた。美紀は、無言で同調するように、身体をくねらせ、背もたれの後ろの奥に上半身を潜り込ませ、後ろ窓の周囲にあるファスナーを引っ張りはじめた。透明ビニールスクリーンが垂れるように開いていき、彼女はそれをリアプレースバーの後ろの台に延ばすようにおいた。クルマの室内が、一気に風通しがよくなる。それでも外気の温度が高めなので、暑いことには変わりがないが、最悪な暑さを免れた。このときの二人がとった行動の息は、素晴らしくぴったりだった。このクルマをフルオープンにするときのプロセスを、少しアレンジしただけだった。


 両者とも、シートに腰を沈ませ、大きく深呼吸して、外気を味わって、落ち着かせていった。そして、お互い見つめ合い、先ほどの息の良さに気づき、二人から笑いがこぼれはじめた。


「さて、きったかさん、これからどうすんの?」


 美紀は、閉じた扇子の先を紗央梨に向け、微笑んだ。その顔には先ほどの不安は見当たらない。


 紗央梨は、スマートフォンを取りだし、


「たちまち、タツオさんに聞いてみるよ。」


 タツオさんとは、紗央梨がこのクルマを譲り受けるときに、クルマを修理、補修を行った車修理工場の店長であり、日本人である。バンクーバー郊外のノースバンクーバーで二十数年細々と経営している。


「おぉ!たつおっちね!」


 美紀の目に希望が振り落ちてきた。ちなみに、美紀は、このクルマの納車のときに紗央梨にといっしょにタツオさんの車周工場へついてきただけで、まったく彼と会話をしたことがない。


 紗央梨は、バンクーバーは日常営業時間に入っていることを確認し、電話をかけた。日本人アクセントは少し残っている感じだが流ちょうにしゃべる壮年の男性が応答した。


「メイ・アイ・スピーク・タツオ?(タツオさんはおりますか?)」


 と紗央梨は少し緊張しながら、訊いた。


「私がタツオです」


 その日本語の返事で、紗央梨は安堵を感じた。


「よかった!タツオさん!紗央梨です。この前、よしえさんとミアータの修理を頼んだ紗央梨です。」


「あー、広島弁のお嬢ちゃん。久しぶりだね。元気していたかい?」


――私、広島弁の女でしか、覚えられていないかも。


 小さな不安が紗央梨の中によぎった。


 とりあえず、紗央梨はことの経緯をタツオに話した。案の定、今サスカッチャワンにいることをタツオにひどく驚かれ、むちゃしているねーとつげられた。電話している紗央梨の横、助手席では、美紀が聞き耳を立てていた。タツオが状況を電話越しで把握すると、彼は紗央梨に指示を与えた。その指示通りに、紗央梨はまた外へでボンネットを開けて、ラジエーター、クーラントタンクなどのチェックを行った。美紀も追うように、外へ出て、紗央梨の行動を見つめていた。


 紗央梨は、ラジエーターの中もラジエーターリザーブタンクも空で、白い煙を出しているのをみてからすぐに路肩に止めたと、タツオの伝える。彼はラジエーターのどこかに漏れがあるだけで、まだエンジンは無事であろうと推測した。どちらにしろ、直ちに工場で修理が必要と述べた。


「えー、持って帰らんといけないんですか?」


 紗央梨は、バンクーバーまで戻らないといけない事に落胆の意を漏らした。


「え!もどるの?」


 その紗央梨のことばを聞いた、美紀も少し残念そうに聞き返した。だが、電話越しのタツオは笑いながらそれを否定した。


「ははは。うちで直して欲しいって言うのはありがたいけど、そりゃ無理だ。そこへつくまで三日はかかし、今そのミアータは、トーイング(レッカー)でリペアショップ(工場)まで運ばないと行けないコンディション(状態)だから、こっち(バンクーバー)まで戻ったら、めちゃくちゃコストがかかってしまうよ。それだけでも、それより新しい型の中古ミアータが買えちゃうよ」


「そ、そうですね。でも、こん前の修理の時にわからなかったんですか?」


 紗央梨は、すこし不満げにタツオに訊いた。電話越しに、タツオの苦笑いが聞こえた。


「はは、面目ない。その時は、ラジエーター系は錆もダメージもなかったし、正常に動いていたから、クーラントの補充、締め付けくらいしかしていなかったな」


 タツオのことばに紗央梨は、浅い溜息を漏らした。とはいえ、紗央梨は、状態が非常によかったとは言え、自走できずにいた二〇年物のこのクルマをここまで、しかも低価格で復活させたことには感謝していた。


 タツオは、話を続けた。


「近くの町の修理工場(リペアショップ)までトーイング(牽引)してもらい、そこで直してもらいなさい。ミアータだから、どのショップでなおせられし、早ければ、一日で終わるよ」


「で、でも、どうやって?」


「『BCAAびーしーえーえー(BC州自動車協会)』に入ってるでしょ、クルマを手渡すときに、念のためBCAAに入っておきなさいって、言ったじゃない」


「あ、こっちの『JAFジャフ(日本自動車連盟)』みたいなのですね。ちゃんと勧められたとおり入ってますよ。でも、BC州外でも大丈夫なんですか?」


「大丈夫、大丈夫。『BCAA』はカナダ国内、アメリカでも使えるよ。でも……」


タツオは、少し声のトーンを落として


「けちったりして、ベーシックに入っていないだろうね?」


 紗央梨は『BCAA』に申し込む時を思い出していた。三つのプランがあり一番安いのでも『JAF』と比べて若干高額であったが、タツオさんの助言もあったし、その時の『BCAA』のカウンターの人の進めもあって、紗央梨はその上の年会費百十ドルのプラン『Plus』に加入していた。ただ、日本の『JAF』年会費の倍以上はしていたので、紗央梨は、一〇分ほどそのカウンターで悩んではいた。


「も、もちろん! そのひとつ上に入りました!」

 紗央梨は苦笑しながら、元気よく答えた。


「はは、偉い偉い。一番安いやつは、たった“五キロ”しか無料(タダ)で牽引しないからねー。」


 タツオはすこし胸をなで下ろしていた。それの息使いが電話越しで紗央梨にも感じた。それに応じるように彼女の苦笑いが続いた。


 世界第二位の国土を持つカナダ。いくら人口の八十パーセントがアメリカの国境付近に集中しているとは言え、都市郊外にでると次の集落まで五十キロメートル以上は離れていること状況が結構あり、その間ガソリンスタンドもないことが多い。車で旅行することがある場合は、『BCAA』の一番安いコースの『ベーシック』プランは、無料牽引がたった“五キロメートル”しかないため、牽引が必要なトラブルにはほとんど役に立たないのである。ひとつ上のコース『プラス』は、百六十キロメートルまでの無料牽引が含まれている。百六十キロメートルもあれば、たいがいどこからでも、どこかの修理工場がある町にたどりつける。


「それで近くの修理工場までは、無料ただで運べられるよ。というわけだから、現地でなんとかして貰いなさい」


 タツオの提案は、もっとも無難なものであった。


「はい、わかりました。でも、タツオさん」


 紗央梨は、タツオの提案を受け入れることには問題がなかったが、もう一つの望みがないか模索していた。その望みは、


「この辺りに日本語のわかる修理工場ってありますか?」


 少し間が開き、


「うーん、ごめん。知らないな」

と、タツオの答えた。それは、紗央梨に十分な諦めを与えてくれた。


「そうですか……」


「カルガリーやレジャイナような大きな街なら日本語が分かるところがあるかもしれないが、どちらもそこから軽く二百キロ以上離れているんじゃない? どちらにしろ、最寄りの町で直してもらうしか方法がないとおもうよ」


「やっぱり、そうですよねー」


 紗央梨は、さらに現実を突きつけられて、泣きそうな気持ちになっていた。


――こんなカナダの田舎で、タツオさんのように日本語がわかる人に修理してもらうは、やっぱり無理かー。期待しすぎやな。と、紗央梨は残念な気持ちともに、バンクーバーが日本語にすごい恵まれていることに気づかされてしまった。


「……ありがとうございます、タツオさん。とりあえず、『BCAA』に聞いてみます」


「語学学校での勉強の成果を発揮するときだよ。頑張ってな」


「はい」


 紗央梨は、心持ち気を落としていた。彼女は、確かに二ヶ月ほどバンクーバーダウンタウン内の英語語学学校に通ったが、カナダに来る前に比べて素晴らしく上達したという自信がなく、さらにまだ不十分さを感じていたのである。


 タツオはその紗央梨の心情を察ししたのか、


「もし、修理工場に着いてわからないところがあったら、私に電話をかけなさい。その人と話をしてあげるよ」


 そのタツオの提案は、紗央梨の気持ちに光明を与えた。


「ありがとうございます!」


「それまでは、なるたけ自分たちで頑張りなさい。それじゃね。」


 タツオの優しい助言は、紗央梨に勇気を与えてくれていた。


「わかりました!ありがとうございます」


 紗央梨の声が元気を取り戻したのを確認すると、タツオは電話を切った。


「たつおっちは、やっぱり来てくれないのかー」


 紗央梨の電話の様子を端からじーっと見ていた美紀は、タツオが来ないことを把握していた。


「そうじゃね。とりあえず、『BCAA』に連絡して、近くの町までレッカーして貰ったほうがええじゃろって」


「『BCAA』? 何かそんな名前のジュースがあったような……」


 美紀には未知の単語だったようだ。


「日本の『JAF』みたいなサービス」


 紗央梨は、最もわかり易いように答えた。


「ジャフ?」


 今まで自動車を保有したこともなく、さらに運転に携わる仕事もしたことがない美紀にとっては、日本最大のロードサービス『JAF』でさえも、未知の単語であった。


 紗央梨は、小さな溜息をつき、


「来たら、すぐにわかると思うよ。呼んでみるよ」


 紗央梨は、再び運転席に戻り、シート後ろのハンドバッグから財布と取り出した。美紀も後を追うように、助手席にすわった。


 紗央梨は、財布から『BCAA』会員カードを取り出し、裏に書かれている電話番号を確認し、スマートフォンを右手にじっと見つめていた。彼女は、電話をかけるのにためらいを感じていた。


 この旅の道中、紗央梨は何度もホテルなどの予約を英語で電話でとっていたので、電話での会話は多少なりとも慣れていたところで、相手が機械ではなければ、人であればゆっくりとしゃべれれば、なんとか彼女のつたない英語の発音でも、相手は理解してくれることを学んでいた。ただ、今回はそのパターンとは違い、これから見知らぬ土地で英語で見知らぬ人へ助けを呼ぶ、という新たな試練を含まれていたのだ。たった数十秒ほどためらいであったが、この緊張のおかげで彼女には数十倍以上の長さに感じられていた。ゆっくりと息を呑み、決意し、紗央梨は電話をかけた。


 電話先では、録音された女性の音声案内が流れる。どうやら、自動応答マシーンに繋がる用になっているようだ。声は、複数の選択肢と番号を案内してきた。紗央梨は、スマートフォンをテンキーモードに切り替え、ロードサービスを要請する方向へ番号を押しながら進めていった。数ステップを進むと、録音音声ガイダンスは、紗央梨のBCAA会員番号を求めてきた。


 ここで、紗央梨は引っかかる。


「あれ?」


「どうしたの?」


 美紀は、怪訝に紗央梨の顔をみる。


 紗央梨はもう一度音声ガイダンスをリピート再生させてよく聞いてみる。どうも、会員番号を「言いなさい」と案内をしているように、紗央梨には聞こえていた。彼女のこの四ヶ月のカナダ生活の経験では、ここは会員番号をテンキーでプッシュすると予想していた。


「えっと、ナンバーを言えって……」


「普通そうじゃないの?」


「じゃけど、向こうは人じゃなく、機械みたいなんじゃが」


 紗央梨は美紀に説明するが、同時に、すこしだけ彼女に不都合な予感が襲った。


――なんか、誰かの体験記で聞いたことがあるような……。


「あー。機械が音声認識するんだよ」


 美紀は、あっけらかんと言う。『音声認識』ということばは、紗央梨に精神的プレッシャーを急激に与えた。


「あ、やっぱり...…。もちろん英語だよね……」


 オペレーターじゃなく、機械に向かって英語、しかも口頭で問い合わせをするのは、紗央梨には初めてだった。


――これって、ちゃんとした英語の発音をせんといけんやろうな...…。


 紗央梨は、美紀の方をみると、彼女は憎たらしいほど、期待満々の笑顔を振りまいていた。


――ひとごとだと思って、美紀。紗央梨は、軽く美紀に憎たらしさを覚えた。


 紗央梨は大きく深呼吸し少しため、スマートフォンを顔の目の前にもっていき、BCAAの会員番号を英語でしゃべった。思いっきり、日本語的発音で。


 番号を言い終わると、数秒ほど無言となる。そして、音声ガイダンスは


「Sorry, I understand what you said. Please sey it again (ごめんなさい、なに言っているのかわかりません、もう一度)」


――えー! やっぱり聞き取ってくれんかった!?


 紗央梨に、さらなる緊張が走る。


 彼女は、いやらしいほど英語発音ぽっくアレンジして、ナンバーを発生した。


 美紀は端から見ているのだが、紗央梨が何をそんなに緊張してまで、英語の数字をしゃべっているのわからずにいた。彼女の目は、非常に不思議そうなで眼差しであった。 


 今度は、電話先の自動応答マシーンは、紗央梨がしゃべった数字をなんとか認識し、本人確認のため、紗央梨の連絡先電話番号の確認をし、イエスかノーか聞いてきた。紗央梨は、「イエス」と答えると、機械はスムーズに認識してくれた。さらに、音声ガイダンスは、紗央梨の住所まで無表情に音声再生し、確認を求めた。紗央梨は、自動音声応答マシーンが、ここまで確認をおこなうことに驚いた。


 これらの確認がおわると、音声ガイダンスは、紗央梨が何を要請しているのか、(英語で)述べなさいと聞いてきた。もちろん、まだ電話先はオペレーターではなく、機械。


――きたっー! ここから、本番だ!


 紗央梨に、いっそうの身が引き締まる思いに襲われた。


「えっと、アイ・ニード・レッカー」


 と紗央梨はしゃべった。英語ガイダンスの反応は、


「Sorry, I understand what you said. Please sey it again (ごめんなさい、なに言っているのかわかりません、もう一度)」


 英語で流れた。


「えええー!! プリーズ、レッカー」


 再び、機械は、


「Sorry, I understand what you said. Please sey it again (ごめんなさい、なに言っているのかわかりません、もう一度)」


 英語で流れた。


「オーバーヒート」


 と、紗央梨は大きな声でしゃべる。


 またまた、機械は無機質に、


「Sorry, I understand what you said.(ごめんなさい、なに言っているのかわかりません)」


 英語で流れた。


 どんどんあふれてくる焦りが、紗央梨を、今にも泣きだしそうな顔にしていく。かといって、美紀に助けを求めるわけにはいかないと紗央梨は思っていた。美紀の英語レベルは、紗央梨よりもかなり下回っているからである。なんとかして、紗央梨だけでこの困難をクリアさせないといけないと、使命感が覆っていた。


 美紀はその様子を眺めていたが、紗央梨の表情からかなりの苦戦をしいられているのを感じ取っていた。かというて、美紀も変わってあげるほど英語スキルがないのを自覚してており、ただみているだけの自分に悔しい思いをかみしめていた。彼女は無言のまま、閉じた扇子を握りしめ、紗央梨へ応援のまなざしだけでも送れるように、目をそらさず見つめていた。


 紗央梨は、どう言えばいいのか思考を巡りまわしながら、もう一度ガイダンスに挑んだ。だが、自動応答マシーンのほうが諦めたのか、いつの間にかオペレーターにつなぐ方向へ進んでいた。現在、全てのオペレーターが塞がっているので、このまま待つようにと音声ガイダンスは伝えた。


――やっと生の人と話せる!  希望の兆しがわき上がり、紗央梨は、大きく息を吐き胸を撫で下ろし、安堵の笑みを浮かべた。相手が人であれば、なんとかコミュニケーションをとれるという期待に似た自信が彼女にはあった。彼女の笑みを確認した美紀も、同調したかのように大きく息を吐き、ほっとしていた。


 数分後、電話はオペレーターと繋がった。ハスキーな声の女性が無表情に迎えた。


――すこし聞きづらいアクセントの英語だ。紗央梨に、さきほどの抜けた緊張が三割強ほど戻ってきた。


 紗央梨は、気を取り直し、ゆっくりと英語でロードサービス救援を頼みたいことを伝えた。


 すると、オペレーターは紗央梨の『BCAA』会員番号を求めてきた。


――さっき、自動応答マシーンにむかって、一生懸命しゃべった数字は、何だったんやろ。


 あの自動音声応答マシーンの機能への疑問と無駄な努力を費やしてしまった残念感を紗央梨は一瞬感じたが、早く救援を呼ばねばならない役目を思いだし、再び番号を唱えた。


 さすがオペレーターは、自動応答マシーンとは違い紗央梨の英語を難なく聞き取ってくれ確認してくれた。それから、オペレーターは、紗央梨が非英語圏の女性であることを認識したのか、非常にわかりやすく、答えやすいように、現在のクルマの状況、何が必要なのか、位置情報をゆっくりと丁寧に質問してきた。紗央梨は、その彼女の言葉にしたがい、答えていった。電話先の向こうからオペレーターがキーボードをリズミカルに叩く音が、かすかに紗央梨の耳に入ってきた。その響きは、紗央梨はかなりの安心感を覚えた。


 オペレーターの女性はレッカー車が空き次第向かわせることと、およその予測到着時間を紗央梨に伝えた。紗央梨は予測時間に僅かながら難色を感じたが、それしか方法がないとわかっているので、


「オッケー、サンキュー」


 と、相槌を打ちながら答えた。


 オペレーターは、到着直前に作業員が紗央梨へ連絡することを伝え、他に用件がないことを確認すると、


「Thanks you for using our service. Have a good day. Bye bye. (ご利用ありがとうございました。良い一日を。バイバイ)」


 と、定番の別れの挨拶を述べて消えていった。


 紗央梨は、すべての緊張から逃れたかのように、大きく息を吐き、運転席のシートにうなだれた。


「すごい、きったかさん!めちゃ苦戦してたけど、なんとか乗り越えたね!!さすが!」


 美紀が感激の握手をしてきた。


「ありがと、美紀。なんとかレッカーを呼ぶことができたよ。ちかくの町まで運んでくれるって!くたびれたよー。」


 紗央梨は、美紀の手を握り返した。


 実際は、『BCAA』のサービススタッフではなく、同じ『CAAシーエーエー(カナダ自動車協会)』系列の『CAAサスカチュワン』のスタッフが助けに来ることになる。


「これで、わたしたち助かるのね! 近くの町ってどこなの?」


「『メープルクリーク』ってとこ」


「で、いつレッカーが来るの?」


 紗央梨はその返答に戸惑った。息を少し貯めて、美紀を見つめながら


「イン・ツー・アワーズって言っていた……」


 と答えた。


「ツーアウト?」


「ううん、二時間後くらい……」


 美紀の希望に満ちた笑顔が、絶望へと変わった。

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