第2話「靴とサラリーマン」
「靴とサラリーマン」
セミの声がこだます夏の夕暮れ時。ビルの隙間から夕焼けが長く伸びたとあるオフィス街に、白い長髪に黒いTシャツを着た男が、路上で靴磨きの仕事をしていました。
男は客である、腕まくりをしたワイシャツ姿のサラリーマンの履いた靴を、初めにブラシで軽く擦り表面の汚れ落とすと、次に汚れ落としをハンカチほどの大きさの布に付け、靴の古いワックスを取り除いていきます。
そしていよいよ、靴磨き一番の大仕事。クリームを塗ろうとしたその時でした。
突然、男の心の中に、
「ああ臭い、臭いなあ」
どこからともなく声が聞こえてきたのです。
「お客さん。俺に対して何かしゃべりましたか」
「いいえ、何も言っていないですけど」
「そうですか。じゃあ、俺の空耳ですね」
男はそう言い、何事もなかったかのようにサラリーマンの靴にクリームを塗り始めると、サラリーマンの靴に向かって心の中から、
「何が臭いんだ?」
心の中から、靴へ話しかけてみると、
「どうして靴(おれ)の声が聞こえるのだ、シャーシュボーイ。いや、この場合はシャーシュマン」
驚いたかのような声で、男の心の中に言葉を返してきたのでした。
男は、そんな靴の返答に対して、
「俺の名前はシャーシュボーイでもマンでもねえ。ガタロだ」
自らの名前を「ガタロ」と名乗ったのです。
「ほうほう、あんたの名前はガタロというのか。ちなみにシャーシュボーイというのは戦後間もない頃に靴磨きで小遣い稼いでいた子供の名称で、名前じゃないぞ」
「それはそれは。時代錯誤なうんちくをありがとう」
ガタロはどうでもいいような、心の声でお礼を返すと、
「それよりも今の俺はなあ、あんたに磨かれていてかなーり気分がいいいからさ。お礼にもっといいこと教えてやるぜ」
「別に靴の話なんて聞きたかないな。俺は仕事のために客であるサラリーマンの靴(おまえ)を磨いているわけだから、お礼なんていらねーよ」
ガタロは靴全体にクリームを塗ると、靴の表面は夕焼けに反射してか、綺麗な光沢を映し出しました。
「まあまあ、そういうなって。ほんと、かなりいい話なんだからさ。聞くだけ聞いてよ」
「じゃあ,勝手に言っていろ。俺は仕事に集中する」
心の中でぶっきらぼうに言った後、ガタロはさきほどクリームを塗る時に使った布とは別の新しい布を作業箱から取り出すと、その布にワックスを少量塗り、靴を磨き始めます。
「ガタロ。この靴の持ち主はな、毎日毎日営業でいろんなところ回って毎日汗だぐだから、それで臭いんだよ」
「靴よ、それのどこがいい話なんだ? 」
「それはだな——。おっと、ワックス塗り終わったようだなガタロ。次の鏡面磨きは念入りに頼むぜ。それをしている間に教えるからよ」
「はいはい」
ガタロは靴全体にワックスを塗り終えると、さきほどまで使っていた布にさらにワックスを付けて、靴のつま先のみを磨き始めます。
そしてつま先を一度磨いたかと思うと、今度は手にスポイトを持ち一滴だけ水を靴のつま先に垂らし、その個所をまた別の布でさらに磨き、つま先の水気が完全になくなると、またしてもワックスの付いた布で磨く。
ガタロがこの「鏡面磨き」、と呼ばれる作業をしている最中に、靴は自慢げに例のお礼話しを語り始めました。
「俺が初めて今の持ち主であるこいつの足になった時、いつもより足が軽いと言ってな。それから毎日営業で走り回っても、俺のおかげでこいつの足は疲れ知らず。それが功を奏してか人一倍営業に励んだ結果、社内ではトップの成績を収めることに成功。さらには当時付き合っていた彼女と結婚し、今では2児の父親と人生いいことばかりなんだな。足の臭いも、営業で走り回っていた時の臭いが未だに染みついているからなのだよ」
ガタロは、靴の自慢話を聞かされながらも鏡面磨きを終えると、靴のつま先の光沢はさらなる輝きを増し、まるで新品同様の靴に生まれ変わりました。
そして一通り靴磨きの作業を終えると、今度はサラリーマンの方から、ガタロに話しかけてきます。
「おっ、ずいぶんと綺麗になるもんだねえ、靴磨き職人に頼むと」
「いえいえ、俺はアルバイトでやっている身ですから。本物の職人には敵いませんよ」
「そんなことないさ、これは十年以上も履いた靴なんだよ。それがこんなにピカピカに」
サラリーマンは嬉しそうな顔で靴を見つめていると、ガタロはサラリーマンに向かって、
「お客さんは、この靴に相当愛されていますね」
「そうか、むしろ俺の方がこの靴を愛しているよ」
「なんでこの靴を愛しているとはっきり言えるのですか」
靴にも聞こえるほどの大きな声で質問すると、サラリーマンは、
「実はこの靴、オーダーメイドなのだけどね。この靴はすごいんだよ。履いてから一度も豆ができたことなくて。俺、入社したての頃は結構営業で毎日いろんなところ走っていたけど、これ以前の靴は靴擦れがひどくてしょうがなかったから、余計にね。この靴はさっきも話した通りもうかれこれ十年以上の付き合いだけど、いつ履いても最高の相棒だよ……」
先ほど以上の満面な笑顔で答えましたが、その笑顔もすぐに消えて、
「だけど十年以上も履いていたら、靴底も中の皮も減ってしまい、いつ外に穴が開いてもおかしくない状況だから、そろそろ引退かと思ってね。だから最後に感謝の意も込めて、俺が昔毎日営業で走っていた思い出の路上で靴磨きをやっていた君に、この靴を磨いてほしいと思いお願いしたのだよ」
「そうですか。まぁ確かに、言われてみると靴を磨いていても外の革がだいぶ薄くなっていたのは、磨いていても分かりましたから。お客さんの言う通り、この靴はもう寿命ですね」
「やはりそうか」
ガタロの言葉に客は悲しげな表情で下を向き靴を見つめると、サラリーマンに対してガタロはもう一度大きな声で質問します。
「次も同じ靴を買いますか」
「もちろんだとも。俺とこの靴は一心同体さ」
客は顔をあげると、再び笑顔でそう答えたのでした。
その言葉を聞いた靴は、ガタロの心の中に、
「コイツ、足は臭いくせにそれ以上に臭いセリフを。俺を作ってくれた人達にも、そして俺の次に履く息子(くつ)にも、聞かせ——いや、嗅がせてやりたいな」
笑い声混じりつぶやくと、まもなくしてサラリーマンはガタロに靴磨き代の料金である六百円を払うと、妻と子の待つ自宅へ帰るためガタロの元から去って行きます。
そしてお金を受け取ったガタロはビルの隙間から映える夕焼けを背景に、帰路へ向かうサラリーマンの背中を、いつまでも、いつまでも見つめていました。
「靴とサラリーマン」 終
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