黒き翼のクルセイド -dawn of Jormungand-
みづき
第一幕「聖戦」
悪路に引かれた細い線を追って、一人の男がひた歩きしていた。
容赦なく照りつける日差しを睨み、汗を拭う。頼みの綱だった水は、数刻前に飲み干してしまった。
食料もとっくに底を突き、出発時にはあれだけ重かった背負い袋が虚しげに靡く。それでも、足は止めない。止めたら、たぶん、倒れるだろう。
歩き、歩き、時おり太陽を隠す雲に感謝し、歩き――。
「……あれか」
ふと視線を前方に向ければ、まだ遠くはあるが、探し求めた街を見つけた。歓喜に力が緩み、思わず膝が折れそうになるのを堪える。
急ぐ気持ちから早歩きになり、段々と人の気配を感じ始め、開け放たれた巨大な門を潜り。
「つい……た……」
「え? きゃっ」
眼前にいた誰かを巻き込み、盛大に地面へと倒れ込んだ。
何事かと騒ぎ始める周囲の喧騒を感じながら、意識は下へと沈み、沈み――。
「……ん」
瞼が開く。
目に入ったのは、木造の天井だった。自分は今、屋内にいるらしい。
ゆっくりと視線を左右へ巡らせると、一人の少女がいた。少女は背筋を伸ばして椅子に座り、分厚い本のページを捲っている。
「あの」
「あ、起きた?」
声をかけると、少女はいささか大きい音を立てて本を閉じ、こちらへと向き直った。
「体調はどう? どこか痛い部位とか」
「……特にはないかな。もしかして、君が看てくれたの?」
「私は運んだだけよ。ここ、小さいけど治療所なの。後で先生にお礼を言っておくことね」
「それは、どうもありがとう。君がいなかったら、僕は死んでいたかもしれない。……運んだ?」
言いながら、浮かんだ疑問が頭を突く。白皙に包まれた少女の腕は、細くしなやかだ。とても筋肉質には見えないし、力持ちにも見えない。
対して、僕は男だ。多少なりとも鍛えていて、筋肉分の重量もある。それを運ぶのは、なかなか難しいはずだが。
「なに? 女が男を運んじゃいけないとでも言いたげね」
「いや、そんなことは思ってないけど……どうやって運んだのかなと」
「普通によ。覆い被さったアンタをどかして、周りの視線が痛いから仕方なく持ち上げて」
「驚いた、ずいぶんと力持ちなんだね」
「……ま、色々あるのよ。女には」
目線を逸らした少女に、それ以上の追求を避ける。何か特別な特訓をしているなら聞きたかったのだが、こちらは助けて貰った身だ。質問攻めは不躾だろう。それに、いつまでも寝ている訳にはいかない。
上半身を持ち上げ、腕を回転させてみる。肩周りの関節からゴキリといった音が響くが、特に異常は無さそうだ。ついでに軽く腰を捻り、ベッドから降りて自分の足で立つ。
――問題無し。百パーセントの力を出せる。
「大丈夫そうね」
「うん、色々とありがとう。……えっと」
「エレナよ。エレナ・バレク・ナイン」
「エレナか、良い名前だね。僕はヨル、よろしく」
僕が手を差し出すと、エレナは眉をひそめた。握手のつもりだったのだが、と考えたところで、自分の過ちに気付く。
「……ごめん、左手を出すのが癖なんだ」
突き出した左手を引っ込めて、今度は右手を差し出す。左手での握手は軽蔑の意が含まれていると師匠に聞いたことがあるが、すっかり忘れていた。
「左利きなの?」
「まあ、そうだね。基本的に、何かやるときは全部左手かな」
「そ。まぁ、こうして出会ったのも何かの縁ね。よろしく」
差し出された手を握り、女の子の手って柔らかいな、などと考えていた。
僕を看てくれた先生にお礼を言い、手持ちの僅かなお金で治療費を払い外へ出た。
予想外の出費で無一文寸前だが、水くらいは買えるだろうか。というか、買えないと困る。
「どこか行く予定でもあるの? 街の中なら案内出来るけど」
目的地を探してうろうろしていると、エレナが助け船を出してくれた。
「いいの?」
「ええ。知ってる顔が迷子になるのも、何となく気分が悪いし」
「それじゃあ、お言葉に甘えて。
「闘技場? ……あー、アンタあれね、聖戦を観戦しに来た口ね」
「えっと、僕は観戦じゃなくて」
「いいからいいから、ついてきなさい。闘技場は東よ」
言うが早く、エレナは僕の手を掴むと歩き出した。街は人で溢れ返っていたが、右へ左へと軽やかに躱し、誰にも触れる事なく進んでいく。
引っ張られる僕はたまに肩がぶつかったりして謝罪の言葉を投げるハメになる。すみません。
そうして歩くこと数分。
「あれが闘技場よ」
「……おぉ」
思わず感嘆の声を漏らす。そこに現前するは巨躯、視界に捉えきれないほどの巨大な質量。言うに名高いコロッセオであった。
円形に建てられたそれは、無骨な石造りながらも美しい造形である。等間隔に張られた窓は大きく、入場した人が外を見下ろす姿が見てとれた。
幾つかある入場門はアーチ型で、人の出入りが激しい。入場証を確認する係であろう者も、一つのアーチにつき数人体勢で忙しく働いている。
「これ、全部聖戦を見に来た人なんだ」
「そうね、今年はちょっと人が多めかしら。ヨル、入場証は持ってる?」
「えっと……入場証は無いかな」
「なら買わないとね。お金の残りは?」
僕はポケットに手を突っ込み、小さい布袋を取り出した。硬く締められた紐を解いて、中を覗く。とても悲しくなった。
「二十ペタしかなかった」
「……それ、水が買えるかすら怪しいわよ」
「そ、そんな」
ショックで一歩後退る。数日前に滞在してた街なら、飲み水は大きいものが五ペタで買えたのに。
そういえば、師匠が「物価の違いに気をつけろ」とか言っていた気がする。物の値段にそこまで差は無いと思っていたけれど、ここにきて現実の非常さを痛感してならない。
次の街で到着だからと、少し豪勢な食事をしたのがいけなかったのだろうか。ああもう、僕のバカ。なんで贅沢なんてしたんだろう。いやでも、美味しそうだったんだ。肉が。
「どうしようエレナ、入場証っていくらするの?」
「二百ペタよ。……ああもう、男がそんな泣きそうな顔しないでよ。ここは私の貸しで出してあげる」
「本当に!?」
「た、だ、し、貸しだからね。アンタ、見たところ遠い街から旅して来たんでしょう。どうにかして働いて、私がこの街にいる間に返しなさいよね」
「うん、わかった。必ず返す」
「よろしい。じゃ、行きましょうか」
エレナに何度も感謝しつつ、入場証売り場へと向かう。女の子が四百ペタもの大金を取り出す姿は、なんだか背徳的で目を背けてしまった。
入場証を握りしめ、再びコロッセオと向き合う。中を見て回るのが楽しみでならないが、エレナ曰く混み始める前に席へ行った方がいいとのことだ。
そういえば、何か忘れてるような気がするけど……まあいいや。
早歩きでコロッセオの内部を楽しんだ後、泣く泣く二十ペタ払って水を買い、一文無しの気分を味わいながら客席へと着いた。
場内は既に異様な熱気に包まれていて、今から聖戦が始まるのだと実感させられる。
そわそわしていると、中央に一人の男性が姿を現した。喧騒が一斉に止み、寂静が場を支配する。
長い顎髭を逞しく生やした男性は、ローブのような服装であった。その背中に刻まれた紋章は、あまりにも有名だ。
「王政管理局の紋章、ってことは」
「ヨルは初見かしら。あの人は王政管理局の軍事部門長官、ハークス・マーケンシーよ」
ハークス・マーケンシー。彼はかつて王国を戦火から救った英雄だ。剣術と魔術、その両方を極めたハークスに勝る戦士は今尚いないと言われている。
第一線を退いた後は王政管理局へと入り、王国の軍事指揮を任されている。この聖戦も王国主催のため、彼の挨拶から始まるのだろう。
「――皆様、ようこそおいでくださった」
低く、地に響く荘厳な声が場内を駆ける。口を開く者はおらず、誰もが一様にハークスの声に聞き入っていた。
「我が国の伝統である聖戦も、これで三十回を迎えた。今年も、各都市での予選を勝ち上がった猛者達がコロッセオへと集まっている。
ある者は賞金を。ある者は栄光を。ある者はただ己を量るためだけに。十人十色の思想を持ち、しかしぶつかるのは剥き出しの闘志。
伝説が生まれる瞬間を、是非とも目に焼き付けて欲しい。――聖戦の開幕を、ここに宣言するッ!」
ハークスが手をかざすと同時、歓声。
席を立ち、沸き上がる観衆。誰が持ち込んだのか、太鼓の音が何度も轟く。
それは、まるで盛大な祭りであった。国王の息子が産まれた時と同じか、それ以上の高揚。様々な感情が一つに混ぜ合わさり、弾け飛んでいる。
『では、第一回戦を行う。ハネス・インブラッド、前へ』
興奮冷めやらぬ中、場内にハークスの声が響いた。魔術による音の拡張だ。否応なく観客の声が飛び交う聖戦では、こうでもしないと指示が届かないらしい。
そして、選手の名前が呼ばれた瞬間。
「あ」
僕は、小さい声をあげた。
「なに、どうしたのヨル」
「行かなきゃ」
「え? 行くって、どこに」
立ち上がり、感謝の意を込めてエレナの手を掴んだ。
背負い袋から革の鞘に包まれた短刀を取り出し、逆手に構える。準備万端。
「ここまでありがとう、エレナ。コロッセオに興奮しすぎて忘れてたけど、思い出した。僕は――」
少し名残惜しみながらエレナの手を離し、最後に振り返って。
『ヨル・セイグリッド。前へ』
「都市アーレブ代表選手、ヨル・セイグリッド。君のためにも、良い試合を見せられるよう頑張るよ」
地を蹴って、その場から跳んだ。
瞬間、真下に捉えるのは競技領域。高々とそびえる石造りのフェンスを一跳びで越え、受け身で衝撃を逃がしながら僕は戦いの舞台へと降り立った。
何事かと静まりかえった会場は、瞬息の間に先ほど以上の盛況を見せる。一応は歓迎されているようだ。
「おい、貴様」
背中の砂を払っていると、後方から声が飛んだ。振り返ってみれば、一目で業物とわかる長剣を携えた男が僕を睨んでいる。
男は綺麗な歩き方で僕に近付き、服と鎧が触れ合いそうな位置まで迫った。僕の方が身長が低いため、必然的に見下ろされる形になる。
「遊びのつもりか?」
「と、言うと」
「何故客席から出てきた。選手用の入り口は別にあったはずだ」
「いや、まぁ、色々あって」
男は舌打ちすると一歩後退り、右手に掴む長剣を僕の目の前に突き付けた。
鼻先で止められた切っ先は、後少し押し込めば僕の顔を突き抜くだろう。
「聖戦を穢すな、ガキ風情が。ここは戦士が戦う場だ」
言い捨てると、男は振り返り元いた位置へと戻っていった。
そういえば僕はどこにいれば、と見回していると、ハークスの声が響く。
『ヨル・セイグリッド。貴殿の待機場所は反対側だ。速やかに位置へ着くように』
「なんと」
小走りで反対側の門へと急ぐ。しっかりしろー、と観客からヤジが飛んだ。恥ずかしい。
待機場所へ着くと、大会運営側の人間であろう騎士にジロリと睨まれた。次からはちゃんと門から出ようと心に誓う。
『……両者とも、よろしいかな。では、第一試合を始める』
その声に、対戦相手の男――ハネス・インブラッドが長剣を構える。僕も逆手に握った短剣を鞘から抜き、戦闘態勢を取った。
彼我の距離はおそらく五十歩程度。二人が同時に走れば数秒もかからないであろうそれは、魔術であれば既に射程圏内だ。
僕とハネスの視線が絡み合い、そして――。
『試合、開始ッ!!」
二人同時に、地を蹴った。
左手に短剣を持った僕は姿勢を低くし、鎧無しの身軽さを活かしてひたすらに突き進む。トップスピードの重みを乗せた斬撃には自信があり、相手がデカブツだろうと油断していれば押し切れる。とにかく早く斬り合いに持ち込み、相手を壁際まで追い込む作戦だ。
対するハネスは、速さこそ無いものの堅実な位置取りを選択していた。彼から見て右斜めへと進路を取り、僕を誘っている。短剣の僕にパワーがあるのは初撃だけであり、立ち止まって攻撃を受ければ必ず身体が流れる。故にあの位置で斬り合いになった場合、右利きのハネスは袈裟斬りを僕に受けさせるだけで立ち位置を反転させることが出来るのだ。
するとどうだろう、必死に詰めた距離が仇となって、僕が壁際へ追い込まれることになる。それを防ぐ為には、迫る斬撃を全て受け流すという高等技術が必要だ。剣術の達人ならば出来るのだろうが、少なくとも僕には無理だ。
むやみに突っ込んで不利になるくらいなら、間合いを取って睨み合うのも手としては間違っていない。だけどそれは、僕らしくない。
一度突き抜けると決めたなら、最後まで突き通す。
「まだ遅い……!」
加速。今よりもっと、もっともっと速く。一歩を二歩へ、二歩を四歩へ。限界などとっくに超え、しかし更なる命令を筋肉に下す。限界だ、もう無理だと喚く脳内を気合いでねじ伏せ、僕の身体なら黙って動けと鞭を打つ。
速くなるにつれ、僕から見える世界は全ての速度が落ちていた。コマ送りのように流れる映像は、視覚から得られる情報を脳が処理しきれていないのだろう。ハネスはこちらを見ているが、僕がこの
速くなる。音が遅れて聞こえてくる。速くなる。ハネスがやっと異常に気付く。まだ速くなる。地を蹴り上げ、短剣を振り上げる!
「吹き飛べ――」
渾身の力を込めた一撃は、神速を以てしてその火力を幾倍にも増幅させる。狙いは鎧の胸当て部分。刃は数ミリのずれさえ無く正確に軌道をなぞり、僕が狙った位置へと吸い込まれたかのように見えた。
だが。
「このッ!」
刃が届こうかという寸前、ハネスが電撃的な反応を見せる。長剣を己の眼前へと引っ張り、刀尖で防御したのだ。
金属同士が強烈に衝突し、甲高い爆鳴が鼓膜に刺さる。衝撃で周囲の砂が叩き上げられ、ハネスの身体も僅かに浮いた。
刹那、近距離で二人の視線がぶつかり合う。僕は毅然と、ハネスは何故だと問うように。
未だ密着している両者の刃に、防がれて尚死なない神速の勢いを乗せて。
「君の負けだ、ハネス・インブラッド」
「貴様は、一体――」
左腕を、全力で振り切った。
僕の渾身を一箇所に受けたハネスは、射出された砲丸のように吹き飛ぶ。受け身を取ろうにも、身体が浮いていてはどうしようもない。
勢いそのままフェンスに直撃し、砕け散った石壁が派手な音を立てて崩れた。巻き上がった砂埃の奥に、大の字でめり込むシルエットが見える。
彼は動く気配を見せず、数秒が過ぎ。
『……ハネス・インブラッド、戦闘続行不可能。よって勝者は、ヨル・セイグリッド!』
ハークスの声が響いた瞬間、静寂に包まれていた会場に再び歓声の火が点った。
試合時間、実に十五秒。何が起きたかすら視認出来ない展開に、観客の興奮は最高潮へと達する。
――ヨル! ヨル! ヨル!
誰が始めたのか、名前の大合唱が鳴り渡った。どう反応したら良いのか迷い、とりあえず短剣を握った左手を掲げてみる。
それが勝者のアピールと捉えられたのか、観衆のボルテージがもう一段階上がった。放たれる声はぶつかり合い、地鳴りのようにコロッセオを揺らす。
僕は今、場の空気を完璧に支配しているようだった。応援されるのは嬉しいが、慣れてないから少し気恥ずかしい。
そそくさと入場門に戻り、何となく一礼してから引っ込む。名前の合唱は、しばらく鳴り止みそうになかった。
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