第2話 転校生


【視点:リン】




 六月下旬にもなると、朝の涼しい時間帯であってもそれなりに体を動かせば自然と多少の汗をかく。

 今日は特に朝から太陽がわたしを溶かそうとでもしているみたいにギラギラと照っており、十数分歩いただけでわたしは既にうっすらと額に汗を滲ませていた。

 おかげでわたしとローズ、またはこの三田さんだ市に住む子供たちの大半が通うバートン小学校の校舎内に入り、漸く鬱陶しい日差しから逃れられたときにはホゥと思わず息を吐いた。

 教室は既にわたしより先に登校していた生徒たちの話し声で賑わっており、時折「転校生」やら「バンパイア」やら気になる単語ワードが耳を掠める。かと言って大して仲良くもない同級生クラスメイトたちとの会話に興じる気にもならなかったから、わたしは机の上にランドセルを置いて中身を机の中にしまいながら聞き耳を立てるだけに済ましておいた。


「ねぇ、聞いた?この前言ってた転校生、今日来るらしいよ」

「あー、それ知ってるーわたしたちのクラスに来るのよね?」

「えっ、そうなの!?初耳―!」

「珍しいよねー、こんな田舎に転校生がくるなんて」

「お母さんが言っていたけど、最近、アメリカからシングルマザーの一家が引っ越してきたって。そこの子かな?ラナちゃんの家の近くらしいよ」

「ほんと!?じゃあ結構お金持ちなんだね。いーなー」


 ふーん。アメリカから、ねぇ。随分と遠くから来たもんだな。


 わたしはわたしの座席のすぐ近くで三人一塊さんにんひとかたまりになってきゃいきゃいとガールズトークを展開している彼女たちの会話を右から左へと聞き流しながら背後のロッカーに自分のランドセルを突っ込んだ。

 まだ朝のHRにまで時間があったから暇つぶしに持参していた読書本を取り出し、栞を挟んだページを開いて読み始めた。すると、今度は一つ席を挟んだ向かい側に数人数で群がっている男子たちの話し声が聞こえて来た。


「なぁ、昨日のテレビ見たか?隣町でバンパイアが出たんだってよ。しかも一匹とかそういうレベルじゃなくて集団で出たんだってさ」

「あっ、僕も聞いた!お父さんとお母さんが『もしかしたらWCDが動くかもしれない』って言ってた」

「WCD?何だそれ?」

「えっ、お前知らねぇの?ブラックリストに載ってる犯罪者とかバンパイアとかと戦う組織だよ」

「それ警察とか軍隊とかの仕事じゃないの?」

「違うよ。まぁ、似たようなもんだし、しょっちゅう一緒に動いてるらしいけどな。親父曰く、警察と軍隊は国家のものだけど、WCDは完全にWCDの総帥の命令にだけ従う独立した組織なんだって。だからWCDの決定には国もなかなか逆らえないんだと。強さとかも軍隊とは格が違うってさ。なんでも、異能者とかわんさかいるらしいぜ?」

「へぇ……。すっげ―!何かカッコいいな、それ!」

「だろ?俺もいつか、WCDに入ってやるんだー!」


 いや、無理だろ。


 わたしは内心で密かに己の将来の勇姿に胸を躍らせている坊主頭の少年に対してツッコミを入れた。


 名前は確か、ツヨシ ナガハラとか言ったっけ?あ、珍しく覚えてたわ。まぁ、身体能力ではこの一年二組でもトップクラスだからな。体育でしょっちゅう張り合ってるし、そりゃ覚えるか。でも精神面メンタル弱いんだよなぁ、こいつ。すぐにビビるし。どうせWCDに入ったところで訓練段階で怖気づいて尻尾巻いて逃げるに決まってる。わたしらの何十倍もデカいドラゴンの捕獲とか、一日で死体の山作りまくった殺し屋とか相手にしてるようなとこだ。心臓が持たねぇよ。


 WCD。

 何の略かは知らないけど、先程、ナガハラやわたしが言っていたように一般人や国の警察や軍隊じゃどうこうできるようなレベルじゃないくらいヤバい犯罪者やつらを取り締まったり、バンパイアなどの危険度の高い動植物の捕獲や新生種の研究、またはそれらに対する適切な対応の仕方を人々に教えたり、摩訶不思議な現象の解明や未知の土地を探求したりして現在地球の地理がどうなっているのか探ったりする、いわゆる世界を股にかける何でも屋みたいなもん。

 細かいとこはまだよく理解できないけれど、何か、二百年くらい前に突如起こった天変地異、「終焉の日ターミネーションズ・デイ」をきっかけに発足したらしい。

 目的は単純。

「みんなで力を合わせてこの危機を乗り越えましょう!」ってな感じ。後、バンパイアとかデビルフリッズとか厄介なのは除外して、それ以外の安全そうかつ友好的な生命体との共存共栄を目指した世界を作ろうとしている。ご立派なこった。最近までは新生種はおろか、異能者ですら化け物扱いされて差別されていたっていうのに。

 で、そのWCDはだんだん時が経つにつれて終焉の日ターミネーションズ・デイの混乱からある程度の平和を取り戻し、やがて人々に希望を与えた第一人者として称えられ、その実力と信憑性から確固たる地位を着々と築き上げていった。今では世界中のあらゆる物事に影響を及ぼしているほどにまで成長を遂げている。


 わたしが知っているのはこのくらい。

 にしても、こんな見事になんもない田舎の隣町によくWCDが来る気になったな。

 バンパイア出没の話があったその街も田舎レベルはここと五十歩百歩といったところで大して変わりないぞ?

 流石は世界を股にかけるWCD様。こんな辺鄙な田舎に目をかける余裕があるくらい優秀な人材が揃ってんだろうな。そうかよっぽどそのバンパイアの集団がやばいか。後者はごめん被りたい。


 あ、やっとチャイムが鳴った。

 それと同時にみんな、大人しく会話を中断して各々おのおのの席につき、先生の入室を待つ。

 ……ん?何でわたしの隣にもう一個机が並べられてんだ?うわぁ、嫌な予感―。

 少々、というかかなり遅ればせながらその事に気が付いたわたしが昨日までは無かったはずの、隣に設置された机に無味乾燥な視線を送っていると、ドタバタと言いながらダイブするかのように教室に飛び込んで来たローズと、そのすぐ後に担任のデーン先生がつかつかと踵の高い靴を鳴らしながら入ってきた。


「ローズさん、もうすぐ余裕を持って登校しなさいといつも言っているでしょう?」

「す……すみません……」


 ぜぇーはぁーぜぇーはぁーと息を切らしながら呼吸の合間になんとか謝罪の言葉を呟くと、ローズは朝っぱらから疲弊しきった様子で自分の席に崩れるようにしてストンと座った。


「皆さん、おはようございます」

「「「おはよーございまーす!」」」


 いつものようにおばさんとは全く違うトーンの高い、やけにのんびりとしていてかつ明朗快活な先生の挨拶に、面倒臭がって返事をしないわたしを除く、教室にいる子供たちのほとんどが条件反射のように間延びした黄色い声で元気良く叫び返す。

 当のわたしはと言うと、どうせ一人くらい返さなくても分からないだろうし、席も一番後ろなので気付かれないだろうから、先生から見えないように読書本を机の下に隠した状態で読書に没頭していた。その間に、先生は生徒たちのキラキラと期待に満ちた無邪気な視線を浴びながら淡々と朝のHRをこなしていく。

 みんな、よっぽど転校生とやらが気になるみたいだ。だけどデーン先生はその期待をあっさりと裏切り、「最近、隣町にバンパイアが出たから気を付けるように」とか「グラウンドに水筒の置き忘れがあったから、心当たりのある者は取りに来るように」とかそんなことにはさして誰も興味のない話題しか話さない。それでも従順かつ純真な生徒たちはそれを邪魔するとこなく、大人しくしている。とは言うものの、先生がいつ転校生について話を切り出すのかを今か今かと待ち構えていたために全く耳に入っていない様子だが。


「―――――と言うことで、今日の五、六時間目はバンパイア、ウェアウルフ、ガーゴイルについての特別授業を行うことに決定しました。皆さん、これは万が一が起こらないようにするため、皆さんが危ない目に遭わないようにするための授業です。ちゃんと先生の話を聞くようにしましょう。では最後に一つ、皆さんにお話があります」


 そこで、今の今まで視線だけで先生に早く噂の転校生を紹介するように猛烈なアピールを仕掛けていたみんなの期待数値が一気に高まった。先生もそれを察しているのか、微笑みとも苦笑ともつかぬ笑みをフッと薄い唇に浮かべる。


「エバンネさん、入ってらっしゃい」


 先生のその合図から数秒後、かなり躊躇した手つきで、ガララ……と教室の扉がぎこちなく、ゆっくりと開かれていった。




 * * * * * *




【視点:カリナ】




 教室に入った途端、いくつもの視線の矢がカリナに突き刺さった。


 いやもう「だろうなー」とは思ってたよ?


 でも頭の中じゃ理解できていても、体は先ほどまでとは比べ物にならないくらいにガチガチに強張ってしまい、まるで某映画にでも出てきそうな人型ロボットのようにかくかくとした動きしか出来なかった。


 あぁ、もうやだ。帰りたい。


 だけどカリナはこのまま踵を返して逃げ出したい気持ちを、どうにか堪えて先生の元へと歩いていく。

 緊張のあまり、足に血が通わなくなってしまっているみたいに感じられて、まるでクッションの上を歩かされているかのように足元が覚束ない。

 今朝、家を出るときには既にこんな感じだったもんで、おかげさまで玄関の段差に躓いて盛大に転んでしまうというドジを踏んでしまった。


 うぁー、余計なこと思い出しちゃった。


 あの時はママしか見ていなかったのが幸いだ。「大丈夫?」と問いかけながらも、ママのカリナと同じ茶色の瞳に、隠しきれていない呆れが映っていたのはショックだったけど……。

 とにかく、ここではそんな失敗は許されない。こんな大勢の目の前でいきなりそんな大失態何か起こしたら、凹むどころか、もう一生立ち直れる気がしないし、笑いの種になるのは目に見えている。ゆっくりでもいいから、ここは慎重に慎重に……。


 ……ん?なんか忍び笑いが聞こえてくるような……。あ、さっき教室に入っていった子だ。


 その時になってようやく、カリナは教室にいるほとんどの人間が苦笑を堪えているような微妙な表情を浮かべていることに気が付いた。先生ですら、何か、微笑ましいものを見ているかのような笑みを浮かべている。しかもカリナの方を見て。

 なんだろう、と内心で首を傾げるけど、結局は分からずじまいだった。というか、考える暇も余裕もなかった。その次の瞬間、カリナが最も恐れていた事態が起こってしまったから……。




 ズゴッ!!




「ギャッ!?」


 きょ、教壇の段差、踏み外した~!


 急速に迫りくる地面に、慌てて手をつき、かろうじて顔面強打だけは避ける。


「「「「あっはっはっはっはっはっ!!!」」」」


 ドッと教室に沸き立つ爆笑の嵐。

 カリナは弁慶の泣き所を打った痛みと言い知れぬ羞恥の情に駆られ、本気で泣いてしまいそうになった。泣かなかった自分をほめてやりたいくらいだ。

 カリナは唇を懸命に噛み締めてその場をどうにかやり過ごし、「大丈夫?」と今朝のままと同じような瞳をカリナに向けてくる先生に向かって、弱弱しいほほえみで「大丈夫だ」と頷いた。


 あぁもうどうしよう、泣きそう……。やっちまった感が半端じゃない。気を付けてたのに。気を付けてたのにぃー!何で最後の最後でこうなるの!?


「……ではエバンネさん、みんなに自己紹介してあげて」

「カ、カリナ・エバンネです」


 カリナは思わず俯きそうになるのを必死で堪えて、震える唇で必死になって用意していた言葉を紡ぎ出す。

 まだ教室にはくすくすと先程の余韻が残っている上に、真正面からみんなの視線を受け止めているから、本当に居た堪れない。

 カリナは背中の後ろで組んでいる両手を真っ白になってしまうほど強く握りしめ、青ざめ切った唇に、必死の思いで半月型を浮かべる。

 多少……いや、かなり噛み噛みになってしまったけど、何とか自己紹介のテンプレであるカリナの好きな食べ物、嫌いな食べ物、趣味、苦手なことを告げ、最後にぺこりと腰を90度に折り曲げた。ちなみに、カリナの好きな食べ物はハンバーグで、嫌いな食べ物はピーマン、趣味は読書で、苦手なことは運動全般である。




 ……パチ、パチ、パチ、パチ




 一瞬の沈黙の後、小石を金槌で割るかのような軽い響きを持つ、誰かの手を叩く音が教室内に寂しく木霊したかと思うと、つられて割れんばかりのみんなの拍手がカリナに降り注いだ。

 何か照れくさいし、まだこの場の空気になれなくて居心地が悪いけれど、みんなに受け入れてもらえたようで素直に嬉しい。


(よ、よかった……。取りあえず、いじめられる心配はなさそう…かな?)


 さっきは笑われてしまったけれど、あれはドジを踏んだカリナもカリナだったし、みんなの放つ雰囲気オーラのほとんどはのんびりとした穏やかなものを感じさせるものだった。ので、そんな感想を抱きつつも、なんやかんやで何とかいじめっ子がいた場合、その標的ターゲットにならないように、穏便?に自己紹介をすます、というミッションはギリギリクリアー出来たようだった。

 安堵のあまり、カリナはこっそりと息を吐いた。


「じゃあエバンネさん、あそこの空いている席に座ってね」

「はい」


 いくぶんか柔らかくなった表情で先生の指示に頷くと、次いでカリナは示された方向に目をやり、そして―――――


 ―――――足の裏から根っこでも生えたかのように、その場で固まってしまった。


 あぁ、今のカリナの状況を「一難去ってまた一難」っていうんだろうなー……。

 などと頭の隅っこで他人事のようにそう思いながら、自己紹介に至る直前時並みに、いや、もしかしたらもっとひどいかもしれない。と思えるくらい、顔からスゥと血の気が失せていった。


 えーと…なんか怒ってる?それとも素?


 そう問いかけたくなりそうな仏頂面でカリナを見やるその少女は、クラスの中でも一際浮いた存在だった。

 老人のそれとは全く違う、艶のあるまじりっけの無い綺麗なストレートの白髪を一つにまとめ上げ、やや伸びすぎた前髪に隠されながらも、その目鼻立ちの整ったクールな印象を受ける顔立ちは、まるで造形美のようだ。あと数年もたてば100%モデル並みの美人さんに成長すること間違いなしだろう。だけど、みんなと同じように二つあるそのきりっと吊り上がっラ黒曜石のように澄んだ黒の瞳は、まるでこの世界のすべてに無関心とでも言いたげに虚ろで、真一文字に引き結ばれた淡いピンク色の唇は、笑うことすら知らないかのような冷たい印象をカリナに与えた。


 怖い。


 人見知りのカリナからすれば、失礼なのは分かっていても、その気持ちを誤魔化すことは出来なかった。

 カリナはまさに蛇に睨まれた蛙になったような心地で、指定されたカリナの席の隣に座っている少女を見つめた。というか、目が離せなかった。少女の方もカリナをその閻魔顔に浮かび上がる、研ぎ澄まされた刃の湯に鋭い瞳で、獲物に狙いを定めるかのごとくジト目で見つめてくる。視線だけで人を殺せそうだ。


 ゲンじさんたち、ごめんなさい。今までおじさんたちのことデカいし人相も凄く凶悪だったから怖くて思いっきり避けまくってました。でもおじさんたち優しかったよね。うん、カリナが間違ってました。ごめんなさい。


 昔、ゲンおじさんたちのことを怖いからと言って避けていたカリナに対して、パパが「人は見た目だけじゃないんだよ」と説いていたことを思い出し、今になってその言葉の意味をようやく身に染みて理解する。

 思わず遥か向こうの大陸にいる、パパの仕事仲間の人たちのことを次々に思い出し、現実逃避をしながら、カリナはゴクリと喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。


(い、いや。でも雰囲気がちょっとあれなだけでまだ分かんないじゃん?)


「……カリナさん?」


 返事をしたままそれっきりその場を微動だにしようとしないカリナの名を、疑問符付きで呼ぶ先生の声に我に返ったカリナは、内心の緊張を押し隠し、新しい自分の席に近づいた。

 心臓の鼓動がやけにうるさい。

 相変わらず教室中のほとんどの視線がカリナに集中している中、初めのうちは無表情かつ不機嫌そうに、だんだんと歩み寄ってくるカリナをみんなと同じように見つめていたその人だったけど、次第に興味が失せたのか、不意に手元にある小説に視線を落とした。

 教室に入ってからというものの、あまりの緊張のせいで数十分にも感じられたけど、実際はほんの数分の出来事だった。

 漸く、ずっと背負いっぱなしだったランドセルを自分のロッカーの中にしまい、席に着く頃にはどっしりと全身に重い土嚢でも取り付けられてしまったような倦怠感が体中を覆っていた。

 これから授業が始まるというのに、今朝から何でこんなに疲れなきゃいけないんだろうか?あぁ、もう帰りたい。

 未だにチクチクと針のように全身に突き刺さる視線もそろそろ鬱陶しい。


「――――――ではこれで朝のHRを終わります、皆さん、エバンネさんはまだこのバートン小学校に来たばかりで知らないことがたくさんあるから、皆さんが率先して教えてあげるようにしてくださいね」

「「「は―――い!」」」


 長かったHRがやっと終わり、チャイムが鳴るとほぼ同時に先生が出て行くと、早速みんながわらわらと花に群がる蜂のようにカリナの机の周りに寄ってきた。まぁ、これも予想通りだったけど、その中に隣の少女は含まれてはいない。私的には怖いから寧ろそうしてくれた方がホッとするけど。

 全く持ってカリナに興味なし、いや、周囲のことに興味が無いって感じで、HRの間も机の下に隠して読んでいた本に夢中になっている。


「ねぇねぇ!アメリカってどんなとこなの?」

「あたしミーナっていうの、よろしくね、カリナちゃん」

「家どこ?どの辺に住んでんの?」

「お父さんいないって本当?何でお父さんいないの?」

「なあっ!アメリカから来たんだよな?WCDの本部って見たことあんの?」


 みんな我先にとばかりに質問の雨を浴びせかけてはカリナをあたふたさせる。中には全くデリカシーの無いものもあって、返答に困ってしまう時もあった。


 ちょっとはこっちの身にもなってよっ!


 なんて初対面早々そんな本音をぶちまけることなんてできるはずもなく、カリナは答えられそうなものから順々に答えていくことしか出来なかった。

 漸く一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴って、未だに止む気配を見せない子供の無邪気な好奇心から一時解放された時には思わず疲れがありありと滲んだ溜め息を小さく漏らしてしまった。だって本当にクタクタなんだもん。


「……おい」

「ふえっ!?」


 び、びっくりした―……。


 今の今まで隣がキャアキャアうるさかったというのに我関せずといった態度を貫き、彫刻のようにページをめくるとき以外は一㎜たりとも動かなかった少女に、いきなり「おい」だなんて中性的な美声で、しかもその末恐ろしくて近寄りがたい雰囲気に見合った口調で話しかけてこられるもんだから当然、カリナの貧弱な心臓はキュウッと縮み上がった。

 びくびくしながら隣に視線を向けると、少女は相変わらず手元の本に視線を落としたまま「保健室、後で行った方が良いと思う」と言って一区切りつけると、今度はカリナの方をその均整は取れているが、人形のように冷え冷えとした鋭利な瞳で見て「教室出て右に曲がったらすぐにあるから」と一方的に告げた。


「は、はぁ……」


 そんなことを言われるとも思っていなかったカリナは、かなり間の抜けた声で返事を返し、何故そんなことを言われたのかと首を傾げた。


(あ、そうだ、足……)


 そうだった。さっき転んだ時に思いっきり脛打っちゃったんだ。


 そう思い至ったカリナはチラリと患部を見てみると、案の定、ぷっくりと痛々しく腫れあがっていた。

 今の今まで内面のことでいっぱいいっぱいだったから全く気が付かなかったけど、今になってようやく痛みを訴え出してくる。


 うん、結構痛いな。確かに行った方が良さそうだ。


「……ありがとう……。そうするね」

「……うん」


 あの時の無様さを思い出すと途端に顔がみるみるうちに紅葉のように紅潮していくのが分かった。

 気恥ずかしくて思っていたよりも小さな声でしか出来なかったけれど、なんとか感謝を少女に伝えると、一瞬間をおいて素っ気無い返事が返ってきた。

 それにしても意外だな。まさか彼女からそんなこと言われるなんて思わなかった。


(……案外優しかったりする?)


 やっぱり、ゲンおじさんたちみたいな見た目が怖いってだけのタイプ?


 この時になってようやく、カリナは肩に圧し掛かっていた不安という名の重石がほんの少し減った気がした。

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