生きる意味を徹底して考える(2)
◆前回までのあらすじ
前回は、生きる意味がないとしても、結局「考えること」自体からは逃れられないと書いた。
今回の記事では、「生きる意味がある」という前提で整理を進めていこう。
◆三つの生き方
本田健さんという方の、「30代にしておきたい17のこと」という本において、人生の意味には、三つあるとされている。
一つは、役割ベースの生き方。
二つは、モチベーションベースの生き方。
三つは、インスピレーションベースの生き方。
それぞれについて、以下、僕が勝手に解説しよう(「お前の勝手な解釈など知らぬ!」という方は、哀しいけれどブラウザをそっと閉じて上の本を読んでみてください)。
◆役割ベースの生き方
まずは一つ目、役割ベースの生き方について。
親として、学生として、部下として、夫として、ボランティア団体の一員として……。
役割ベースの生き方とは、何かに所属し、そこから与えられる「使命」に対して必死になる生き方のことである。
生きる意味がないとする主張の多くは、この役割ベースの生き方を目指させるものにあるように思う。「今を生きよ」とか「目の前のことに集中するのだ」といった意見を見かけたり、実際に言われたことがある人もいるのではないだろうか。
いきなりだけれども、僕はこの次元の生き方を否定する。
いやもちろん、「生きる意味とは……」などと考えたこともない人は、ぜひ一生考えることもなくそのまま生き切っていただきたい。
ただ、一度でも、自分の存在意義に、少しでも疑問を抱いたことがある人なら……実存的問いを立てたことがある人ならば、この役割ベースの生き方は非常に脆く儚いものであると知っておいてもよい。
もちろん、それが脆く儚く潰えてしまわないように、さらなる役割を求めて、必死に生きていくありかたも、それまた人間として美しいだろう。困難を乗り越えたら、さらに次なる高い壁を乗り越えていく。それをずっとずっと、死ぬまで続けていく……と。
これについて、「やりがい搾取」とか、人の善意を食い物にしようとする魑魅魍魎も存在することは触れておく。
もう一つ、ぱったり、ぽっきり、「挫折」という問題が生じる可能性にも触れておく。これは何も若い人に限ったことではない。中高年鬱とか、熟年離婚とか、定年退職後に急激に老けてしまうとか、問題が発生する可能性は、そこら中に転がっているのである。
しかしそれよりも、この役割ベースの生き方の問題は、その「役割」なるものが、外部から与えられていることである。
これらが、役割ベースの生き方の危険性だ。
学生時代は、勉強なり、部活なり、恋愛なり、友人関係なり、大変だったかもしれない。しかしそれでも、単位をとって進級するだとか、入試を突破するだとか、就職活動するだとか、一応目安となる「役割」は与えられていた。
さぁいざ「大人」になったら? 会社が仕事という役割を与えてくれる? 愚かしい考えだ。与えられた事をこなすことは仕事ではない、作業だ。仕事とは、利益(物・サービス)を生み出す仕組みを作り上げることである。
マニュアル人間なんていらない、という言葉も聞いたことがあるだろう。主体的に動ける人材が必要だと。
主婦(主夫)になれば、良き夫、良き妻になるという役割が与えられる? 否。何につけても従順であるだけの関係は長続きしないとされている。マグロなセックスは飽きるとか……ちょっと違うか。
まぁ、例証が中途半端だから、上の内容は批判満載だろうが、僕個人がそもそも役割ベースの生き方にあまり興味がないため、適当で構わないと思っている。
ちなみに、役割ベースの生き方を全否定してきているようであるが、別に絶対ダメだといってるわけじゃない。――とか書くと言い訳がましいが、そうならざるをえない場面だって、たくさんあると思うのだ。
例えば、昔……それは、昭和とかそれだけじゃなくて、封建時代とか神権政治時代とか、歴史的にみたら、往々にしてそういった役割ベースの生き方ばっかりの時代だったわけである。
士農工商なんて小学生並みの例を挙げるのは恥ずかしいが、それぞれ身分があった時代は、「自分らしい生き方」なんて考えられる土台が、そもそもなかったのである。
自由と平和の時代と言われる現代日本においてだって、身体的理由や経済的理由などで、制約を受けてしまう場合も考えられる。
そう考えると、19世紀の実存主義の興りというのは、とても大事なことだったといえる。
(脱線するが、それは西洋からしてのことであり、古代インド・紀元前5世紀ぐらいではそもそも、ゴウタマ・シッダールタさんが、「人生ってそもそも苦しみじゃない?」とか言い出してはいた。もう少し敢えて脱線すると、上に書いた「自由」というのが、むしろそれが一つの生きがいや生きる意味といったものを見失いがちになる理由の一つのようにも思っている)
とはいえ結局、大人になったら、自ら役割を選択していく必要は増える。「自分で考えて行動しろ」と言われることも増えていく。自分で考えて行動した結果、「なんでそんな勝手なことをしたんだ!」と叱られることもあるが、まぁそんな理不尽を考えたところで仕方がない。いろいろ考えて書いてきてはいるものの、明日、突然の天災や人災によって命が尽きてしまうことだってあるのだ。そういう可能性、リスクは、いくら考えても絶対になくならないから、かっこに入れて端に置いておくべきだ(ただ、今後もう少しちゃんと書けたらいいけれども、僕らの人生が有限のものであるという認識、実感というものをしっかりもった方がいいとは思っている)。
閑話休題。
ここまでをまとめると、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・結局、考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方だけでは不十分だ
ということである。
◆モチベーションベースの生き方
生きる意味があるとしたときに、意味のある人生にするための三つの生き方、その二つ目、モチベーションベース。日本語にすれば、動機に基づいた生き方ってことである。
ただこれ、大仰な名前がついているけれども、実のところは本来的・生得的に、みんなモチベーションベースの生き方をしているとは思う。
問題は、忙しさにかまけて、周りが見えなくなっている場合である。そんなときは、巻き戻って「役割ベース」の生き方になっている場合があるのだ。その点は気を付ける必要がある。
さて、モチベーションベース(タイプするのが大変だから、以後「動機ベース」と統一する)――動機とは何か。僕的解釈をすれば、「欲望」である。
せっかちに、先回りして書いてしまうと、この後の話の流れとして、「欲望はまた苦しみの源泉である」ということに触れようとは思うのだけれども、まずは、「欲望をもつことが重要だ」という主張をする。
欲望と聞くと、たびたび、よくないものだという認識が生じる。煩悩という言葉に置き換えてもよいかもしれない。
お金が欲しい。
美味しいものを食べたい。
女(男)が欲しい。
車が欲しい。
家が欲しい。
称賛が欲しい。
名誉が欲しい。
楽をしたい。
煩悩まみれの人間なんて、かっこ悪いと思われがちだ。
でもそんなことはない。欲望こそが、人の行動の源泉である。
企業の営利活動とは何だろうか。人の欲望を満たすものである。また、「面倒なことを解消する」ことである。
CSRとかいって、環境とか社会活動に貢献することも重要視されたりもするのだろうが、結局、第一優先は、資本主義社会・競争社会において、その企業が生き残ることである。生き残って利益を生むことができるから、その利益を社会貢献に使えるのである。そしてその行為が、投資家や消費者に対しての付加価値になるのである、だから社会貢献するのである。
いやいや、人の「倫理観」を根こそぎ否定するのではない。
しかしだ、これは僕が勝手に思っているだけなのだが、人は根源的に利己的な存在であると思っている。この「利己的」というのは、「他人のために為すこと」も含めて考えている。他人のために為すために、自分が存在して、その他人が喜ぶ姿を見て「利己的に」喜ぶのである。――といった解釈を書いたり言ったりすると、まずもって友人や恋人はできないから注意するように(誰に言っている)。
書いておかねばならないのは、別にそのことが、悪いことでも、偽善だとして断罪しようというのでもない。それはそれで素敵なことだ。自分の食欲を満たすのではなく、他者にパンを与えるという行為。それが己の倫理観に従ったものであるというのは、人間という存在の崇高さを物語っているではあるまいか。
というわけで、すべての人間の行為は、欲望からなっていると言ってよい。悪いことをしてしまうのもまた欲望のせいだとしても、良いことをなしたいと思うのも、それはまた欲望であるのだ。
んでもって、その欲望に従って生きるということ、「自分がやりたい!」と思うことと、現実とを一致させていくということ。それが動機ベースの生き方である。
◆動機ベースの生き方の欠点
確かに、この動機ベースの生き方には、役割ベースの生き方の焦燥感、強制感に比べたら、人間礼賛・個人賛美の美しさがある。
ところが、この動機ベースの生き方も万能ではない。
一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。いつぞやに書いた気がするが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
「楽しくゲームするために生きるんだ!」
という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い学校に入っても、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。限りなく続く欲求を満たし続ける作業……それと同時に襲い掛かってくる面倒くさい事態。
確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。
しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?
そして、いま僕が立っているのが、ここでもある。
なんだか、いろいろ、実感がわかない。意欲がわかない。
今、この瞬間に生じる欲求を満たすことが、果たしてなんの意味があるのか。
何故僕は生きているのだろう。
70億人も人がいる中の、矮小な存在。
仕事で頼りにされていたとしても、僕が突然いなくなったとしても、一時的な混乱はあっても、しばらくしたら立ち直り何事もなかったように続いていく(いやむしろ、組織とは属人化してはならないので、そうあるべきなのであるが)。
生きる意味はあるのだ、という仮の設定でここまで整理してきたが、本当にそんなものはあるのか? ――無限遡及。
しかし、ぐるぐるといつまでも同じ場所で思考しているというのもつまらない。どうせダメなら、徹底的に暗い思考・感情まで堕ちてしまいたい。
さぁどうするか。そこで颯爽と登場するのが、「インスピレーションベースの生き方」である。
――次回に続く。
◆蛇足
上の小見出し「◆動機ベースの生き方の欠点」の、「楽しくゲームするために生きるんだ!」のくだりの補足、というか蛇足を以下。
――新しいとか面白いゲームしてるときは、「なんで生きているんだろう」なんて暗い気分も、ある程度紛れるのである。オンラインゲームとか、シミュレーションゲーム(シムシティシリーズとか、三国志シリーズとか)は、それはもう時間が膨大に必要なので、気を紛らわすにはとても有効なのである。
しかし、ゲームはやっぱり、小説書いたり作曲するのとは違って、消費だと思う。もちろん、物語のインスピレーションを得る意味でインプットとして有効な面はあるけれども、アクションやシミュレーションゲームはそれ自体が意味になっていて、……いやそれはそれでストーリーはあるのだろうが、その大半が「作業」であるため、消費の側面が強いと思うのだ。
……ま、それはそれで、ありだろうとは思っている。僕は、10歳のときに「こんなに苦しいのに何で生きてるんだろう」と思い始めて、中学時代もずいぶん人生つまんねーなーと思っており、そんな中、楽しいゲームとかはあったから、「もういっそ楽しくゲームを送ることを人生の第一目標にしよう。そのためにちゃんと勉強もして高校にもいってお金を稼げるようになろう」とも思ったものだった。その目標のため、逆にゲームの一切を段ボールに詰め封印したり。そういう、他人から見たらつまらないようなものだったり、ちっちゃい目標だったりしても、それを目指し満たすことだけを考えて生きるのだって悪くないと思う。
が。しかし、それはそれで、「俺はこうやって生きてやるんだ」と、ちゃんと自分自身で決めたいのだ。そのためには、やはり、30代にもなって恥ずかしいとは思うけれども、自己についてさらに考えなければならないのだ……。
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