生きる意味を徹底して考える(1)

◆導入・定義


 生きる意味を徹底して考えたいと思う。

 文章は、読む人の対象をはっきりさせる必要がある。導入が重要だ。

 まず、生きる意味とは、大きく3つに分けられる。


1.宇宙規模の生きる意味


2.人類規模の生きる意味


3.個人としての生きる意味



 生きる意味、生きがいといったキーワードで調べると、「生きる意味がある」だとか「ない」だとか、様々な主張を読むことができる。

 しかし、それらを読むときには、その書き手が、上の三つの、どのレベルで書いているのかを把握する必要がある。そうしなければ、分かったような気にはなるが――基本、読めば、それなりに納得感は与えてくれるものが多いのだ――、結局、それをどう自分に生かしていいのかが分からなくなる。


 僕のこれまでの記事は、基本的に「3.個人としての生きる意味」である。これは言い換えれば、「実存の問題」である。

 そのため、今回の記事としては、「生きる意味」の定義を「3.」に限定した上で書いていく。


◆実存問題


 はじめに、自分の現在の立場を明らかにする。さもないと、この記事の終着点、「結局何がいいたいの? どっちなの?」が分からなくなる。かといって、ここで書く立場が、永劫不変完璧なものであるという根拠も自信もない。むしろ、それを確固たるものにしたいというのが、日々書いてきている理由の一つでもあるのだ。


 さて、僕は、生きる意味があるとか、ないとか、その問題の立て方自体に、意味がと思っている。

 逆に、数ある生きる意味に関する主張において、「ある」立場でも、「ない」立場でも共通していることが見受けられるのだ。


 それは、「結局は、自分で考えて見つけましょうね」ということである。

 ――と書くと、「ない」立場の人たちの主張の中で、「暇があると余計なことを考えるようになるから、暇をつくらないようにして、そんな問題を考えることからさっさと逃げる」ことを推奨する人たちはどうなのだ? と思われるだろう(考えることを否定しているという意味で、「自分で考えましょう」とは言っていないのではないか?)。


「生きる意味なんて考えるのは無駄だとして、ただ忙しさに身を置くべき」


 ――この意見、否定はしない。むしろ、僕もこうあるべきではないかと、内心思っている。

 しかし、それを納得したとしても、次に立ち向かうべきは、「どう生きるべきか」という問題となる。そうしたとき、まわりまわって結局、「考えること」自体からは逃れられなくなる、というのが僕の主張である。


 人間は、考える生き物である。

 ホワイトカラーだろうがブルーカラーだろうが、主婦だろうが主夫だろうが、考えることからは逃れられない。

 それは、資本主義社会になってしまったからかもしれない。民主主義になってしまったからかもしれない。ただ、狩猟採集生活をしていたころの人類だって、太陽の沈む方向から方角を捉えたかもしれないし、よく木の実が生い茂る土地を覚えたかもしれないし、猛獣と戦う・逃げるための方法を考えたかもしれない。疑いえないことは、人類が考える生き物だったから、現代社会のように発展してきたのである。


 もちろん、上の「生きる意味は考えるべきではない」という考えの人たちは、別にすべての人間の思考自体を否定しているわけではないだろう。


 だが、僕が基本的に、「生きる意味を考えても仕方がないから暇を作らず忙しく毎日を生きようぜ!」という主張に共感も実践する気もなれない理由はここにある。結局、「生きる意味」を考えることを否定したとしても、「考えること」自体からは逃れられないのである。


 僕の立場をまとめよう。

・生きる意味があるだとかないだとか、それ自体は問題ではない

・問題は、どちらにせよ、考えることからは逃れられないことである



 補足というか蛇足かもしれないが、僕は、10代前半ぐらいのときから「生きる意味」を考え始め、20代前半ぐらいのときから、その、「毎日を積極的に肯定して今が大切だとして忙しく目の前のことに打ち込んでいく」ということを実践していった。

 30代となった今。結果として、結局「虚無」との戦いは終わっていない。


◆日々を忙しく生きることとは


 しかし、その「生きる意味など考えてはいけない」という主張には、強烈に惹きつけられるものがある。ある友人がいっていたが、「その考え方はとても役に立つ」のである。だから僕も、決して悪いものではないと思っている。


 ただ、僕はその先、もう一歩を考えたい。

 その役に立つ考え方が示すのは、「リア充」になることである。または、「自分の欲望を満たし続ける」ことである。もしくは、「自分の感性や感覚を追求する」ことである。


 僕が問題にしているのは、その「あるべき理想の姿」である。

 ここでいう理想とは、人類社会における理想像などではなく、あくまで、実存として(個人として)のものだ。

 それを求める場合、構築する場合、結局「考える」ことからは逃れられず、そして何より、その「理想」求め構築するためには、立ち戻って、己の「生きる意味」というものと、向き合わなければならないと思うのである。


 それは、坐禅や瞑想のように、「思考」を手放すための方法を取る場合においても避けられない。

 坐禅とは、道元禅師いわく、「修証一如しゅしょういちにょ」――即ち、悟りにいたる手段ではなく、それ自体が悟りなのであるのだが、そこに至る生活を決断するというところに、「考える」ことが必要であるのだ(もっとも、それは最後の「考える」になるかもしれないが)。



 この考え方、この感じ方に至っている理由は、僕は「幸せ」という言葉の定義を、「理想と現実の乖離」として捉えているからである(この辺りは前も書いたと思う)。

 この幸せ追求のモデルが誤りであるのだとすれば、その「理想の姿」を求めること自体を改めなければいけないかもしれない。ただ、ここはかなり強固な部分であるため、変更するのは難しい気がしている(自分の中で)。

(いやそもそも、「幸せ」を追求すること自体が正しいのかどうか、ということは結論に至れていないが)


◆生きる意味があるとしたとき


 生きる意味がないとしても、結局考えることからは逃れられず、幸せだとか、充実した生き方を目指すときに再度生きる意味を考える必要が発生するということを書いてきた。

 これについては、なおも納得いかない人も多いだろう。「今が幸せなら、何故わざわざ生きる意味など再び考える必要が発生するのか」と。それはその通りである。――が、これも一般論で言われるところであるが、「幸せばかりの人生など存在しない」ということだ。人生山ありゃ谷もある。楽ありゃ苦もあるさ、と。その人生の波が、正常点(鬱状態。正常でいられないほど苦しい状態。人によって異なる)より高い位置で上下運動する分には問題ないだろう。しかし、その波が突如として、正常点を下回るような状態に陥った時……それでも「生きる」ということを選択することができるかどうか。


 次回、逆に「生きる意味はある」とする考え方について整理していく。

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