失望と絶望の違い
そして、記念すべき第一話目、とっても緊張する。きっと、最初は書いていて筆のノリが悪いだろうから、遠慮なく流し読みしていって頂きたい。
◇大衆居酒屋にて
仕事を終え、一人、静かに呑みたいと思った。こじんまりした、はっきり言えば小汚い居酒屋に足を運び、カウンターに座る。
が、隣の人がタバコ吸いまくりで迷惑きわまりない。煙がこちらにモクモクと流れてくる。気になって、ゆっくりできない。料理はおいしい店なのに残念。
……というのは、喫煙可な場所なので仕方がない。そもそも、大衆居酒屋で静かに呑む、というのが矛盾している。それでも、もうちっと、隣に気を使って欲しいもんだがな、と思う。
本当は、こういう場所では、ウォークマンとか使わないのがツウ、なんだろうな。見知らぬ隣の人と打ち解ける、みたいな。そういう触れ合いも含めて、大衆居酒屋、なんだろう。
けれども今日は、女性店員さんの注文を取る猛々しい声とか、お客さんのワッハハ楽しそうな声が、残念ながら煩くて、気が障って、カナル型イヤホンを耳に差す。
まぁ、耳に差し込んでも、やっぱり結構な音量で周りの音は聞こえるから、大衆居酒屋の雰囲気も味わえるし、逆にちょうどいいぐらいだと思う。
――とか、不満を言いつつ、やっぱり、料理は旨いから、追加注文してしまう。
◇比較思考の罠
ホッピーセットを頼み、グラスに注ぎながら、ふと顔を挙げると、これまた小汚いテレビが置いてあって、広島の若者たちが、被爆者の語る会に今、多く参加しているという。
そこでインタビューされていた人たちがいて、意外にも、「何で自分は生きてるんだ」、「自分なんて生きている価値がないんじゃないか」とか思っている人が多いらしい。
やっぱり、みんな、大変な思いをしながら生きてるんだよなぁ、よし、僕も頑張るか!
と、素直に感じられていた時期が、僕にもきっとあったと思う。
自分の人生における辛い出来事を認めて、カミングアウトして、それをやる気に転化して、成功をおさめる、という構図。
これに、もう飽きてしまった、というか、自分に信じさせることが、どうにもできなくなってきたらしい、と思うのだ。
これを僕は、「相対化の魔物」と呼んでいる。
この相対化の魔物にとりつかれると、恐ろしいことになる。これ言い換えれば、単なる、とてつもない怠け病、となるのだが、どのみち(魔物から逃げても、戦っても)苦しむことになる。
◇
確かに、戦争末期、食料もない、着るものもない、更には広島に居たというだけで、婚約者がいたのにピカドンに侵されているからという理由で、婚約者の親に婚約破棄された、とか、ひどい話だ。戦争よくない、ダメ絶対。
しかし、逆に、戦争時やその後の混乱期と、今この時代とを同質にみろ、感じろというのも、難しいのではないか。
もっといえば、上の悲劇的な被爆者よりも、親から虐待をうけて、再婚相手の男にレイプされつつ、「お前なんて生まれてこなければよかったのに」と言われ続けて育った人と、どっちが辛く、可哀想と思うのか?
僕は、こうしたその人にまつわるエピソードを、比較することは本当に無価値と思う。間違いない、両方大変で、よく頑張った、素晴らしい、すごい。
これが、比較思考の無意味性である。
下をみてもきりがない。だから上を向いて歩こう……ではないが、結局のところ、他者は他者である。
ここで、やっぱり書いておくべきは、僕は別に、他者への共感ができないサイコパスではないということだ。むしろ、共感しすぎるぐらいである。その感受性で良かったことも悪かったこともあるが、今更言っても、ここまでの文章で、またしても覆せない印象を与えているだろう。
だから、自分の気持ちの吐露など、絶対にすべきではない、いやなに、100%の理解が不可能であるならば、大した問題ではない、危険な誤解が生じる部分は伏せて、共感性、安全性の高い部分で生きていけばよいのだ。
◇偽りの自分
「どうせ他者とは理解しあえないんだ」
という感情が出てくる時点で、どこか、思考エラーなのかもしれない。
そうは言いつつも、こうやって文章を書いて、投稿して、という行為が示しているのは、やっぱりどこか、他者の承認を求めているんじゃあないか、と思う。
いつまでも終わらない、トートロジー、無限遡及。
しかしだ、もうそうであれば、もうどこまでも書き続けてやる、って、そんな自暴自棄的なのも発生する。
これは、アルコールのせいもあるかもしれない。――あ、ホッピーの「外」ください、シロで。
ホッピー自体、飲み始めたのは、ここ1~2年前ぐらいな気がする。最初、「外」とか、「中」とか、なんのこっちゃ、と思っていたが、
外=ホッピー自体
中=焼酎
のことである。ホッピー1本につき、中を3杯とか頼む人もいれば、1対1で頼む人もいる。いろんな飲み方ができるのが良いところだと思う。ちなみに、シロとクロは、ホッピーの種類で、シロの方がさっぱりしていて、クロはちょっとコクがある感じ。何だかちょっと恥ずかしいぐらいの、何となくの感覚だ。しかし、食べ物とか飲み物の味を、文章で表現するってのは、結構難しいと思う。グルメ雑誌の記者さんとか、食べログとかのレビュワーさん、料理をちゃんと描写する小説書く人とかも、すごいなぁって思う。
脱線した。閑話休題。
◇生きがい
ああ、それにしても。生きる意味、生きがい、って、なんだろう。
思考がこっちに向かってくると、もう、ほんと、周りの、生きている人たち全て、みんなすげーっと思う。
よく生きてるな、いやほんと、それだけですごいよ、欲求があるということだけでもすごい。別に生きる意味とか、生きがいとか、そんなの必要ないんだ。
……といいつつも、こういった生きがいの無さを、仕事帰りのアルコールとか、ゲームとか、宝くじとか、車とか、女とか、そういうもので満足してはダメなんだって語りかけてくる奴がいる。俺だ。
そして僕自身、その思考とか感覚を捨てちゃったら、俺が僕じゃなくなる気がする。
人の気持ちは変わる。
しかし、その人格の統一性は、記憶によって成り立つ。ゆえに、記憶がなくなれば、それは一己の死といえる。
そして、ここからが重要だが、その記憶の連続性がなければ、それもまた死、であるのだ。
◇失望と絶望の違い
とか言っても、どうせ、誰も理解できないのだ、と、僕は今思っている。そして、なんて傲慢な思考なのだと、必死に抑えようとしている僕もいる。この孤独性を手放したら、なんと楽になるのかと思いながら、先ほど書いた記憶と人格の概念により、単純に放棄するわけもいかない。
このことは、先程の、被爆者の語る会に参加しようと思った若者たちでさえも、僕の言うことに、きっと、共感はしたとしても、認められないし、そもそも必要としないだろうとすら思せるのである。
その、彼らと自分との差異、「何かが違う」と、孤独感を深めさせる理由、それは何のなのか、今回は、そこに絞って考えたいと思う。
(って、ここまでが前書きみたいなものだったのか!)
◇
少し考え、もしかすると、いくら自己の価値を見失い、生きることが嫌になった人であっても、「絶望」を、しているわけではない可能性がある、と思った。
このあたりは、19世紀のキルケゴールさんがすごいところだ。
(また脱線だけれど、キルケゴールさんは、1813年~1855年であり、42歳で亡くなった。「GOGO死に」、と覚えている。なんて不謹慎なんだ……)
つまり、恋人にふられたとか、仕事で失敗したとか、それらはもちろん人格否定がつきまとい、間違いなく辛いことだが、それだけでは、まだ絶望ではない。
理想の恋人と相思相愛になる、とか、出世して皆に認められる、とか。
実現可能性がいかに小さく思われようとも、その幸せ的事象が存在しているうちは、望みに到達すること失った、だけである。
対して、その、自分がありたいと思う理想、目的、到達点、それらが無くなった状態、それは、望みが絶滅した、ということなのである。
という言葉の説明は、「失望」と「絶望」とを、キルケゴールの著作『死に至る病』の解説において、使い分けて説明していた本があったから、僕も倣って表現しただけで、別にどっちの言葉がどっちだ、とか覚える必要はない。
望みが完全に失われた、と解釈すれば、失望が僕の表現したかった絶望と同じ意味にもとれる。
ので、ここの違いは即ち、「未だ自分がありたい姿を想像(創造)できるかの違い」と、記憶すればよい。
ので、失望の場合は、いわゆるスピリチュアル的な、セルフイメージをもって、なりたい姿を引き寄せる的な、そういった生き方が効果を発する。ポジティブ思考とか、引き寄せの法則とか、そのあたりのエッセンス、機会があればもう少し詳細に書いてもいいかもしれない。
まず、社会から疎外された人たちのうち、大半はこの方法が有効である。
◇
しかし、面倒くさい人間は、そこからも零れ落ちる。
お金も、ルックスも、時間も、いっさいの諸条件を廃して、本当に自分のやりたいことを考える。まずやってみるといい、そして、やってみて、ああ、確かに、そのとき想像した自分になれた、よかった、幸せだ、と。
普通はそこでハッピーエンドだ。ところが、「……で、それがどうした?」と、気づいてしまったとき、そこから、本当の絶望が始まる。
◇自分の絶望度は分からない
そうはいっても、スピリチュアル的には、「それはまだ、自分の本当のきもちを引き出せていないのです。宇宙のオーラを感じ、私たちとセッションして、本当の自分に出会いましょう」と、言われるだけだ。
いや、よいのだ、その自己を、集団や組織にコミット(参画)できるなら、そうした方がよい。
しかし、困った人たちは、それがどうしてもできない。もしくは、何回かはできて、それによって救われたり上手くいったりしつつも、「やっぱり、何か違う」ことに気づいてしまったのだ。
これを私は、「呪い」と表現している。
呪い、いい言葉ではない。でもそうなのだ、全然よいことではないのだ。
ここまでで、その呪いを理解できた人も、そこで、「じゃあどうしたらいいんだ」と、やっぱり、答えを求めるようになる。
で、まぁ、何もないけど、例えば素晴らしい人格者が、答えを与えたとしよう。しかし、その後の展開は、すでに書いてきた無限遡及に吸収されてしまうほど、脆いものになっているのである。
この、相対化の魔物と呪いは、成功し、救われて、幸せになる度に、強度を増していく。
ここまで読んでくださった方で、「今、大変なものを見てしまった、どうしよう、呪われてしまった!」と倦怠感や吐き気を催している方もいらっしゃるかもしれない。大変申し訳ないことをしてしまった。謝罪をする(ああ、やっぱり、「である」調だと全然謝ってる感じがしない……)。
しかし、ここまで読めた人は、安心して欲しい。むしろ逆に、強固な自己を保持した、大人で魅力的な人だ。是非お友達になりたい。
一方で、そうでなくても共感した人は、遅かれ早かれ、この構造に気づく。
安心して欲しい、もう呪いにかかっている。
この呪いは、かかる人とかからない人がいる。むしろ、かかる素質がある人は、何れかかる。
そして、僕は30代だが、これ、もっと遅くにかかってたらもっと大変だったな、と思うわけで、こうして書いている。それが何故大変なのかは、また今後、書いていくことになると思う。
だからこれは、啓蒙活動である、かっこわらい。
◇
最後に、反転して、意識高い系なこと書いておけば、この絶望の状態でなお、正しく、素晴らしく生きるにはどうしたらよいのか。それを、今後も真剣に考え、綴っていこう、と思う。
キルケゴールさんは、倫理的な生き方、神への信仰によって救いを得た。
ではさて、21世紀に生きるわたしは、それら先人の作品をもとに、どのような解を、方針を、目的をみつけ、生きていくのか。
人生は限られている。
まずは、思考ができることに感謝を。
<了>
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