転章

1

 背中を木の幹に激しく打ちつけて気絶した金太郎に、水妖鬼がすぐにとどめを刺さなかったのは、突如現れた雲水姿のせいだ。

 水妖鬼が槍と化した右腕を金太郎の心臓めがけて突き刺そうとしたまさにその瞬間、その男は水妖鬼の背後に音もなく出現したのである。

「――俺に気配を悟らせずに忍び寄るとは、貴様、何者だ?」

 首をありえない角度で捻じ曲げ、背後をふり返る。

 驚愕を隠しきれずに問いかける水妖鬼に、男は、さてと肩をすくめると、

「ま、それはともかく。今、あなたに彼を殺させるわけにはいかないのでね、邪魔をしに来ました」

 それはともかくって、何だそれは。

 まぁ、どうでもいいさ。こいつを殺した後で、ゆっくりと相手をしてやるさ。

「残念だが、ちょいと遅かったようだ。もう、あいつは虫の息だぜ」

 と金太郎の方へ顎をしゃくると、水妖鬼はカンにさわる笑い声をあげた。

 だが、男はその笑い声が気にもならないようだ。

 恐怖も感じていないのか、平然としていた。

「それはどうでしょう。ほら、聞こえませんか、あの音が」

 何っと金太郎の方へ顔を向けた水妖鬼の耳に、確かに聞こえた音がある。

 ああ、その音は。

 力強く打ち始めた心臓の鼓動。

 大きく、深く呼吸を始める。

 ぶ厚い胸が力強く上下し始めた。

 そして両の眼を見開き、彼は甦った。

 水妖鬼に吹き飛ばされたとき、奇蹟のように離さなかった戦斧を、今再びその手が握りしめる。

「ああ……」

 茫然となる水妖鬼。

 妖魔の目の前で、金太郎の全身がまばゆい光を帯びて輝き始めたのである。

 それは、まさに神の光。

 ゆっくりと、神の戦士として今こそ覚醒した金太郎が立ち上がる。

 それを見つめる雲水に、満足げな笑みが浮かぶ。

 勝ったな――

 その笑みはそう語っていた。

 瞬間、金太郎が疾った。

 まさに疾風。

 黄金の輝きが昇竜のごとく伸び上がった瞬間、

「ぎゃああああ!?」

 水妖鬼の口から凄まじい絶叫が迸った。

 右腕が肩口から落ちた。その腕が、まるで烏賊や蛸の足のように地上でもがく。

 しかも、再生しない!

 足柄山で戦ったときのように、すぐに地中に吸い込まれ、水妖鬼の身体に同化することがない!

「ひいいいぃぃぃぃぃ」

 水妖鬼が宙に舞った。まるで、折しも降り始めた雨の中を泳ぐかのように、宙を舞い、結界を抜けて外へ――。

 妖魔の姿は、一瞬で闇の奥へと消えていった。

「奴は何処へ――?」

 まるで、そこにいるのが当然のように、金太郎が男に訊く。

「訊かなくても、わかる筈です。今のあなたなら」

 その言葉に、金太郎は満足そうに頷く。

「ああ。そうだ」

 言葉通り、金太郎には見えていた。結界を越えて、水妖鬼が逃げゆく様が。そして、その向かう所が。

 大江山――

「急いだ方がいい。奴は、力を回復させるために、また人間を喰らうでしょう。奴を止められるのは、あなただけです」

「――!?」

 その言葉に、金太郎はハッとなる。

 わかっていたのだ、彼は。

 俺が眼を閉じ、耳をふさいでいることを。

 そのことを教えるために、彼は俺に近づいたのだ。

「ありがとう。おかげで眼が覚めたよ」

 金太郎の言葉に、男は薄い笑みを浮かべる。

「また、会おう、友よ――」

 言い残し、金太郎は黄金の光の矢と化した。

「ええ、きっと」

 男はそう答え、瀟々と降り始めた雨の中、金太郎の飛んだ方向を見つめていた。

 

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