光陰矢のごとし

 朝食も早々に、私はハンガーに掛けてあった服に着替えた。大きいテーマパークだったこともあり、集合時間は早く、それに合わせての起床だったため、瞼の距離はまだ近い。


 その日の私はどこかおかしかったのだろう。普段よりもまじまじと鏡を見つめ、普段よりも余計に気にしていた。楽しみである気持よりも、焦る気持ちの方が何倍も強かった。


漱石の気持ちを小銭入れにしまい、

遠くの雨井のあくびを聞きながら私は家を出た。




 集合場所はテーマパークの最寄駅。出口が5つもあるが、中央出口ではなく東第2出口で待ち合わせた。朝見た天気予報では今日から一週間、雨が降る予定はないとのことだった。時間の計算を間違えてしまったのか、集まる時間の10分前に着くつもりが、1時間前に着いてしまった。


 30分ほど、近くのカフェで時間を潰していたところ、時雨君から20分ほど遅れてしまうとの珍しい連絡があった。耳を澄まさずとも聞こえてくる蝉の声に、私も昔はああだったのかと思いを馳せる。




 よく、蝉の声を聴くと余計に気温が暑く感じると聞くが、最近はその意味が分からんでもなくなってきた。セミで鳴くのはオスのみであり、その目的も交尾のため。これをすべて人間に変えたらと思うと、暑苦しいと感じるのも無理はないと思える。


 こちらとしては本能的行為なので、どうか許してやってほしいと人間にはよく思ったものだ。


 外を見ると、街行く人は親子やカップルばかりで、きっと皆そこへ向かうのだろうと思うと、やはり今日はまずかったのではないかと思えてしまった。落ち着くはずのカフェだが、落ち着きと不安が入り混じる奇妙な時間が過ぎていた。


 考えを止めることもかねて、少し早めにまた集合場所へ戻った。


 すると、改札の向こうから焦って出て来る女の子の姿が見えた。


 彼女もまた遅刻 した一人なのかと思っていると、その女の子は私の隣へ来た。その時、携帯電話の音が鳴った。隣の女性はこちらを向き、私もその時ようやく気が付いた。



時雨君だった。



「時雨君か」


「教授ですか!? どうしたんですかその格好!?」


「君の方こそ、普段と全然違うから分からなかったよ」


「教授こそ、普段着と違い過ぎて、本気で分からなかったです!」


 互いが互いに互いの姿に驚いていた。それだけそれぞれ相手の普段の姿に慣れ過ぎてしまっていたのだろう。特に私の服は不本意な物なので、余計に分かりにくかったにちがいない。


 しばし互いに固まった後、彼女が話を切り出した。


「開園まであと30分ですし、この人の量ですから急ぎましょうか」


「いや、その必要はない。

 チケットはもうすでに手元にある。君さえよければ急がずに行こう」


 映画会社が作ったこのパークの入口への道には、様々なキャラクターや生き物の絵が描かれており、街並みもそれに合わせてコミカルな見た目になっていた。


 知っている映画もあったが、隣ではしゃぎながら説明してくれる彼女に口出しはしなかった。


 チケットの列はとても長く、入場を待つ列でさえその半分ほどはあった。パークは早めに開園をしたものの、列はなかなか進まない。しかし、並んでる間も彼女はパーク内のアトラクションやレストランの話をしてくれていた。




 40分ほどかかってようやくパーク内に入ると、時雨君は私の手を取り、全力で走り始めた。


「さぁ教授行きますよ!」


 有無を言わせず彼女の足は最高速度に達する。走ってる間他のアトラクションの様子を見ると、簡単なものでも1時間待ちが普通だった。彼女の乗ろうとしているアトラクションには、『待ち時間150分』の表示。


 これではただ疲れてしまうだけではないかと心配していた時、彼女が私の上着を二回引っ張った。


「教授、これ」


手には入場券とよく似たチケットが握られていた。


「教授にお誘いを受けた日の夜にネットで偶然購入することが出来たんです。

 びっくりしてもらおうかなーと思ってたんですけど、これでお相子ですね」


 彼女がはにかみながらくれたのは、待ち時間を短縮できるチケットだった


「ありがとう、時雨君」


 そう言うと彼女はもう一度笑い、再び私の手を引いた。




 こういう娯楽施設に来ることは初めてではなかったが、アトラクションに乗るのは初めてのことだった。それまでの私にとっては娯楽施設はやはり人間観察の場所で、見ていたのも大半が親子だったため、よく係員に声をかけられたものだ。


 そして彼女と最初に乗ったのは、ジェットコースターだった。チケットを使い三〇分ほど談笑していると順番が来て、我々は一番後ろの席。


「こういうのは一番前の方が良いのではないのか」


「分かってないなぁ教授は」


 ゆっくりと動き始めたコースターは、順調にその高度を上げてゆく。動画ではよく見ていたが実際どれほど速いのか知らなかった私は、隣の時雨君に聞こうと話しかける。


「時雨君、これはいったいどれほど……」


「口閉じておかないと舌噛んじゃいますよ!」


 そう言うや否やジェットコースターは一気に加速した。


 あまりに急だったので思わず叫んでしまったのは今思い出しても恥ずかしい。両手を高々と上げて楽しむ時雨君の隣で、私は死ぬ思いでセーフティバーを握りしめていた。よくこのスピードで声が出せるものだ。私が出そうとしても声は喉に帰ってくる。


 すると、時雨君が器用に私の肩をたたき、

「教授! ほら! ほら!」 と指をさした。


 彼女の指さす方を見ると大学とその町が遥か遠くに見えた。




 とても懐かしい光景だった。あの時はこれほど高くは飛べなかったが、私が見ていた景色と、それはとてもよく似ていた。




 そう思うのも束の間、再び私は地獄に叩き落とされる。


「はぁ、楽しかったぁ。

 さっ、教授、次行きますよ!」


 クタクタになっている私を知ってか知らずか、

彼女はまた私の手を引いて進み始めた。


 ちなみにその後に乗った急流すべりで私が失神したのは、

私と時雨君の間だけの内緒だ。




 その後も様々なものに入った。クールーズ型のものでは私がクマのロボを本物だと思い怯え、キャラクターの案内形式で進む室内アトラクションではことごとく時雨君がそのキャラクターを見失っていた。


「あれ? どこ行きました?」


「そこにいるではないか」


「え、うそ? いないじゃないですか!」


「さっきから『こっちこっち』だと言ってくれているではないか」


「指示代名詞は情報ではありません!」


 ホラーハウスでは非現実的なものには怯えない私が勝り、射的場では有料だったものの、互いに負けるのが悔しく、五回も勝負をしてしまった。




 昼食の後、パレードがあったが、

やはり大人にとってはそれほど魅力的とも言えなかった。


「パレードが終わるまでまだ時間があるな」


「そうですね、今ならチケットを使わなくても空いてるかも」


「……どこがいい」


「クルクル回るやつで!」


「よし、行こう」


 私はコーヒーカップだと思っていたが、彼女の意図していたものはクルクルと回るジェットコースターだった。屋外ならまだしも屋内アトラクションだったため、非常に酔った。例え元セミだとは言えども、あれほど回転されてはどんな種族でも目を回すことだろう。人間とは不思議な乗り物を作るものだ。




 もう一つのアトラクションへ向かう最中、インド人らしき女性が一人スタッフと話していたが、このご時世まさかヒンディー語を話せる学生スタッフなどいるものかと憐れみ、助けに入ってやった。しかし、よく聞いてみると彼女の話す言葉がヒンディー語ではなかったため、猶更どうしようかと迷う。


 その時、頼もしい助手は助け舟を出してくれた。


「あ、この人は息子さんを捜しているようです。

 私がアナウンスしますので、良ければ放送室まで案内していただけませんか?」


 そういうとスタッフは無線でやり取りした後、我々を放送室まで案内した。時雨君はまず日本語でアナウンスし、次に母親の言語でもアナウンスしていた。


 あとから聞いた話だが、その後無事に男の子が母親の元へ帰ってきたらしい。


「流石、無限母語話者だな」


「私もあの言葉久しぶりに聞いたので、びっくりしちゃいました」


「彼女はインド人のように見えたのだが、ヒンディー語ではなかったな」


「いえ、それも少し話してたんですけど、多分旦那さんがそっちの出身で、

 彼女はシッキムというレプチャ語を話す地域の出身だったと思います」


「しかし子供はどちらの言語を話すのかわからないだろう?」


「母親がレプチャ語を使っているということは、

 子供も通じるから使ってるのかなと思って」


「なるほどな」


 相変わらず彼女の才能には驚かされることばかりだ。彼女の才能はその無限の言語力だけではなく、初対面の相手でも笑顔にできる話術にもある。




 昔一緒に少数民族の集落へ行った際に私が英語で話しかけるとあからさまに嫌な顔をされてしまったが、彼女が話すと私にもその部族は仲良くしてくれるようになったのだ。


 それは単に私が非常識にも英語で話しかけたからやもしれないが、その民族の笑顔には、それだけが理由ではないように思えた。




 しばらく遊んだ後、園内の軽食店に入った。私はコーヒーとワッフルを頼み、彼女はコーヒーとラズベリーケーキを頼んだ。待ってる間は、時雨君と他愛もない話をしていたが、この時は大学の話は一切しなかったのを覚えている。


 ただただアトラクションの感想を互いに言い合っていた。時雨君が話し、私が相槌や返事をする。傍から見れば面白味もない会話かもしれないが、私にとっては一番楽しい午後三時半だった。


「教授って、不思議ですよね」


「なにがだ?」


「楽しそうじゃないのに、楽しそう」


「また難しいことを言うな、君は」


 彼女についてもう一つ、今不思議に感じたことがある。それは時間だ。一人で人間観察をしていた時、楽しい時間が長く感じた。道行く人の表情を見たり、施設に流れる音楽を聴いたりと、非常に穏やかな時間を過ごしていた。しかし、時雨君と一緒に居るときはその時間がどこか短く感じた。


 三十分が五分のように思え、人の顔や音楽は聞かず、目の前の顔と声を聴いていた。当時の私は、正に“病んでいた”のかもしれない。思えば彼女は私の手をずっと引っ張っていたが、その手を意識することを忘れてしまうほど、彼女と過ごす時間は自然だった。


「さぁ、教授、チケットまだあと半分ありますよ!

 これ食べたら行きましょ!」


「元気だなぁ君は」


 彼女は残っていたケーキを口に放り込み、コーヒーで飲み込んだ。私はもう既に食べ終わっていたので、残っていたコーヒーを口へ運び、彼女よりも先に伝票を出口まで持っていった。最近は奢られることにも慣れたはずの彼女は、今回は少し不服の表情が見えた。




 チケットが残り一枚となった頃には、辺りは暗くなっていた。


 家で待っている雨井や、八足に何かお土産を買おうと思った私は、彼女にショッピングを提案した。彼女は上機嫌に首を何度も縦に振り、今度は私が彼女の手を引いた。ショッピングといっても各テーマに沿った店がいくつもあったので、中央の一番大きい店に入った。


 おそらく時間的に子供が「疲れた」と愚図りだすのだろう、店内には私と同じ思惑の人で混雑していた。ある者はわけもわからずマスクを買い、ある者はきっとこれから使いもしないカチューシャを買っていた。


「教授、はいこれ!

 うわぁ! 似合わないけど面白い!」


 彼女もその中の一人になったようだ。買い物は女の子とする方が色々為になる。どういう人には何を選ぶだとか、食べ物と残るものはどちらが受けがよいかなど、普段は考えもせず適当に買う私には新鮮な意見を聞くことが出来た。


 しかしそれでもやはりカチューシャはいらなかったのではと思った。


 私の土産は雨井と八足と靑羽さんと円花さんの4人分を買う予定だったが、時雨君が買ったのは自分と友人用の物ばかりだった。なぜ家族への土産を購入しないのか尋ねると、微笑みながら


「いつか家族を連れてきたいと思って。

 ほら、お土産貰っちゃうと行った気分になるじゃないですか。

 そういうのってもったいない気がするから、

 私一緒に来たい人のお土産は買わないんです」


と言ってレジに向かった。


 時雨君が会計を済ませている間、4人への土産を選んでいた。雨井には適当なキーホルダーでも買っておけばいいのだが、八足は適当に選んだものだと五月蠅そうだと考えた私は、少し悩んでペアストラップを買ってやることにした。私もレジへ向かうと、袋を下げた時雨君がやってきて、私の隣へ来た。


「おぉ、教授がお土産を買ってる。レアシーンですね」


「まぁな。

 普段は海外、それも民族を訪れるばかりで、土産という土産もなかったな。

 あ、しかし、買ってないわけではないな。

 呪術に使うマスクや、魔除けの首輪などを土産にしたこともあったな」


「それはお土産には数えません」


 そんな話をしていると店員が私に満面の笑みで尋ねてきた。


「そちらのカチューシャも購入されますか?」


「え? ……あっ!」


「はい! この人買う気満々です!」


「かしこまりました!

 ではそちらも合わせましてお会計3240円です!」


 断る間もなく、私も不思議の国の住人になってしまった。




 買い物から出ると夜のパレードが開始の合図をしていた。見てみると沢山の電飾を付けた乗り物が目の前を過ぎ去っていた。それは見たことがない光景で、その美しさに私は少し感動していた。


 隣で見ていた時雨君の目は、そのライトの光が反射して一際輝いているように見えた。その時、その瞳が私の方へ向き、口を開いた。


「教授! ジェットコースター!」


「それは朝乗ったではないか」


「いいから、いいから! ほら!」


 時雨君はまた私の手を引っ張ったが、今度は私もその速さに追い付けていた。残っていたチケットを使い、再び朝乗ったコースターに乗った。この時の座席は一番前だった。ゆっくり上がってゆく期待に朝のような不安と恐怖が募ってゆくと、時雨君が私を呼び、外を指差した。


 そこには朝広がっていた光景が、眩い電飾で加工されていた。眼下には先ほどのパレードが川のように流れ、遠くには星のような光がいくつも瞬いていた。私の不安と恐怖は高揚感へと姿を変え、下るときは時雨君と一緒に叫ぶことが出来た。その記憶は今でも美しく、楽しかった。




 本来の閉演時間を少し過ぎて、我々はパークを後にした。互いに最寄りの駅が一緒だったので、電車の中で話をしていると、ほとんど同じタイミングで腹が鳴ってしまった。


「ついでだ、何か食べに行こう。なにがいい?」


「う~ん、お昼奢ってもらっちゃったんで、教授に合わせます」


「そうか……となると、私が行く場所は一つしかないのだが、いいか?」


「文句なしです!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る