悩む2日目

 この日の朝は、今まで味わったことのない不安感とともに目が覚めたのをよく覚えている。二日目ながらも、残る日はそう多くはない。無駄にできる時間はほぼもうない。窓を見ると向こうはまだ薄暗い空が広がっていた。


 二度寝するわけにもいかず、私は朝のコーヒーを淹れた。しばらくゆっくりと新聞を読んでいると、そろりそろりと雨井が二階から降りてきた。


「雨井、お前何時もそんなに早いのか?」


「うわぁあああ媛遥さん!?」


 雨井はいつもオーバーリアクションなのだが、

この時の雨井の慌てぶりは忘れられない。


 のけぞった瞬間後ろにいた一葉の尻尾を踏み、

吠える一葉に驚きバランスを崩し、

浮けばよいのにそのまま転倒し、

後頭部をラックにぶつけ、

その勢いでラックを破壊しその上に乗っていた物でまた頭部を強打し、

床に倒れ一葉に一撃を食らっていた。


こいつは本当に悪魔なのだろうかと本当に常々思う。


「いてて、どうしてこんな時間に?」


「なに、起きてしまったから起きているだけだ。

 しばらくそのまま転がってろ、コーヒーを淹れてくる」


 放心状態の雨井をしり目に、私はもう一杯コーヒーを淹れた。雨井は食べ物に関して別段好き嫌いというものが無く、コーヒー派でも紅茶派でもないためその時の気分次第で与えるものが変わる。何を淹れても、何を与えても基本「美味しい」と答えるので、こちらとしては楽で助かる。


「いやぁ、でもこんな時間にあなたが起きているなんて、初めてじゃないですか?

 よっぽど焦っているように見える」


「まぁな。焦るなと言う方が無茶であろう。

 ところで雨井、なぜ私が居ないと思っていながら

 あんなにこっそりと入ってきたのだ?」


「いや、あの、起こしちゃいけないかなと」


「ほう、ではあの中庭に集まっている見たことのない猫と犬は関係ないと?」


 雨井の話によると、その猫と犬は元々ここら一帯のボスだった漱石がここに住んだ影響で、明け方の会議の手伝いをしているのだそうだ。決して飼っている訳ではないと言い張っていたが、きれいに並べられた器とフードがその嘘を明らかにしていた。


「まぁまぁ許してやってくれ媛遥」


ふと、後ろから聞いたことのない男の声が聞こえた。


「その男は我々畜生の会合を手伝ってくれているのだ。

 お蔭で各々平和に暮らせている。

 食い物はこいつが勝手にくれるので甘えているが、

 なんせ会合の場所は人間に見つかり次第捕まえられるからな、

 その点はこいつのおかげで助かっているのだ」


「そうか、お前がそういうならば、仕方がないとするか」


「すまんな、媛遥。お前さん、猫が喋っても驚かないのかね」


「悪魔と同居してるんだ。今更猫が喋ろうが驚かんよ。

 それに、猫はそうそう人とは話さんのだろう?貴重な経験じゃないか」


 そういうと漱石は一声鳴き、総会に戻っていった。雨井は引き続き申し訳なさそうにしていたが、漱石に免じて許してやった。


 大学へ出勤すると研究室から焦げ臭いにおいがしていた。まさか火事かと思った私は勢いよくドアを開け、中の様子を確認した。そこには溶接マスク片手にプリンに向かって火炎放射器を放っている二人の姿が見えた。


「……おはよう」


「あ、教授。おはようございます!」


「うぃっす媛遥!焼きプリンもう少しで出来るから待ってな!」


 彼らが作ろうとしている物とは裏腹に、出来ている物はただの元素記号Cになりつつある。焼く前に砂糖を上からまぶすことを勧めると、二人とも「しまった」と言わんばかりに手で顔を抑え、トボトボとグラニュー糖をまぶし、ようやく作りたかったであろう焼きプリンが完成した。


 最後まで火炎放射器で作ろうとしていたが、大学内にバーナーがなく、仕方なかったそうだ。


一体何が「仕方なく」なのだろうか。


 加えて、なぜ冱露木が私のいない研究室に当たり前のように居り、なぜ彼らが朝から焼きプリンを作ろうとしているのかは面倒なので聞かなかった。


「なー、媛遥ー。夏だぜぇ?」


「だからどうした」


「海行こうぜ海!

 去年も一昨年も行ってねぇじゃねぇかー」


「え、じゃあその前は行ってたんですか?」


「あぁ。私はただ魚釣りに行きたかっただけなのだが、

 こいつは水着姿の女にしか興味がなくてな。

 最終的に私はこいつを放って帰ったな」


「だってお前よぉ。

 夏と言えば、青いビキニ、白いワンピ、輝くオイルだろ?

 今度の日曜にでも行こうぜなぁ!」


その言葉を聞いた瞬間時雨君と目が合った。


どう上手くごまかしたものかと考えていると、時雨君が口を開いた。


「ごめんなさい、私その日友達と旅行なんです。

 教授も確か民俗学の講話があるんですよね?」


「あぁ、そうだ。冱露木、我々はお前ほど暇ではない。

 円花さんと二人で行ってこい。円花さんも喜ぶだろう」


「なに?二人とも気を使ってくれてんの?

 じゃあお言葉に甘えて行ってこようかなぁ!」


 冱露木の分かりやすい単純な性格に感謝しつつ、ほっと胸をなでおろすと、「よくやった」と時雨君に目配せをした。時雨君は親指を立てて答えた。


「いやぁさ、まぁ円花さんはもうすでに人数に入れてるんだけどさ、

 『誘ってあげたらどう?』っていわれてさぁ!

 最初は最近出来たあそこに行こうとも思ってたんだけど、

 やっぱこの時期海に行かなきゃ残り半年頑張れないでしょ!

 お土産買ってくるからな!楽しみにしてろよぉ~?」


 そういうと冱露木はルンルンとプリンを食べずに研究室を出て行った。あまりにタイムリーな提案を持ちかけられ一瞬慌ててしまったが、落ち着いて考えると、冱露木は誘いを適当に断っても5分ほど拗ねるかそのくらいのことしかしない男だった。最近は円花さんという素敵な奥様が出来たおかげで、断っても別の選択肢があるのか2分ほどしか凹まなくなっていた。


「ふぅ、教授、今の一つ貸にしておきますね」


「あぁ。それにしても時雨君、随分冱露木の扱いに手馴れてきたな」


「まぁ、教授程とはいきませんが、

 私ももうあの人に会って3年ですしね。

 嫌でも慣れちゃいますって」


 そう言うと時雨君は少しやんちゃな笑顔を浮かべた。その顔を見ることはもう慣れてはいたが、それでもやはり「あぁ時雨君だなぁ」と思わずにはいられない。そして、私もそのような笑顔が出来ないものかとたまに思うことがある。


 人間になってからというものの、笑ったことがないわけではない。しかし、その笑いは単なる笑いであり、彼女のような表情豊かな笑いではないのだ。


「あいかわらず、君の対応力には驚かされるよ。それに比べて私は……」


最近こうなることが増えた。自分と全く違う彼女と自分を比べてしまい、そこからダメになってしまう考えが頭を巡る。自分の悪い点、出来ないことばかりが思い浮かび、そしてそれらがみな私を責めるのだ。


「教授、まーたそれですか?どうしたんですか、最近」


「いや、なんでもない。すまないな、緑茶でも淹れようか」


 私は自分の弱さを隠そうと、彼女に緑茶を淹れた。せめて場を濁そうと、私が出した咄嗟の行動だった。驚くかもしれないが、彼女に緑茶を淹れたのは、その日が初めてだった。以前書いたように、私と彼女の趣味が合うのは茶ではなくコーヒーだ。普段出すのはもっぱらコーヒーだったのだが、よほど私は焦っていたのだろう。その様子に時雨君がどう思ったかはわからないが、彼女は私が淹れた玉露をゆっくり飲んでいた。


「よかったのか、海、行かなくて」


「え?」


「いや、遊園地より海の方がよかったのではないかと思ってしまってな。

 すまない、忘れてくれ」


「私、実は海苦手なんですよ。苦手っていうか、海に入るのがちょっと……」


「見ることは大丈夫なのか?」


「うーん、見るだけっていうのも……

 なので、私海に行くよりも水族館とか動物園や博物館に行く方が好きなんですよ。

 特に水族館!」


「そうか、そういえばそうだったな」


 言われてみれば、八足と居た頃やその前から杉下君と博物館などで偶然出くわすことは多かった。特に水族館での彼女の目の輝きはひときわであった。自宅でも魚を飼っているらしく、水族館では普通の人と話が合わなくて困るらしい。


 一般的に水族館といえば展示されている魚を見て大きいだとか、きれいだとか言うだろうし、私も最初はそうだった。しかし彼女は、どうしてその魚はそのような進化をしたのか、どうしてそのような体の構造がその環境に適しているのかといったことや、水槽を見て、酸素はどこから供給しているのか、どんな濾過装置を使っていて、どういったモニュメントの配置をしているのかを重点的に見るそうだ。


 彼女にいろいろ説明してもらったおかげで、私もそう言った展示物を見るときは彼女のような目線で見るようになった。


 よく、「同じ水族館に何度も行くのは飽きないのか?」と聞かれるが、一ヶ所しか行っていないというわけではなく、一ヶ所を起点として様々な場所へ交互に行っているのだ。これも時雨君の影響なのだが、良く行く場所とは別の場所へ行き、また帰ってくることで見えていなかった部分やもう一度見たい部分という物ができるのだ。


 夕方、毎週のようにこの時間になると明日をどうするかの話になる。私は土曜の講義を設けておらず、本来土曜日は休み。しかし、そうなるとただでさえ日曜日は大抵暇なのに、もう1日暇な日ができる。


 一週間の講義内容をまとめて報告書を作成する作業を土曜に回して月曜に提出するという手もがあるが、大抵はもうすでに時雨君が各講義内容をまとめており、私はそれをまた報告書用にまとめ、名前と判を押して終わってしまうので、やろうと思えば金曜のこの時間からでも終わってしまうのだ。


「さて、今日もこの時間が来たわけだが……どうしようか」


「う~ん、書類も三時間あれば終わっちゃいますもんねー。どうしましょっか」


そこへ、腹の立つ顔がドアを豪快に開けてやってきた。


「ごっきげん麗しゅう!」


「あ、理事長」


「明日は土曜日ですねぇ、どうするんですか~明日は~?」


「お前には関係ないだろう」


「岩崎君、理事長ですよ私!」


「すまん、忘れていました。

 しかし理事長、毎週思うのですが、

 土曜に用事がないのなら出勤してもよいことにしていただくことは

 できないのですか?」


「それはできません。

 この学校は基本的に各教授へのお給料が高めにセッティングされてはいますが、

 週六日勤務は法律上違法になっています。

 きっちり週2日、休んでいただかなければこの学校の存続にもかかわります」


「なるほど、ならばしかたあるまい」


「ただ、岩崎君、私一つずっと気になっていることがあるのですが……」


「なんでしょうか」


「週末なら、どこかショッピングモールなどにはいかないのですか?」


 そういえば、ここに努めてから何年も経つが土日は基本的に家に引きこもりっきりだったのだ。博物館巡りをするという手もあるのだが、全ての休日をそれらに充てていることにも限界がある。つまり、私には休日の時間の使い方がほとんどないのだ。


せめてここへ来る義務でもあれば暇つぶしになるものの……。


「あ、そうだ!岩崎君、買い物に行ってきなさい!」


「今からか?」


「いえいえそうではなく、君は服をそれほど持ってないでしょ。

 もう何年も君を見てきたけど、君は服のバリエーションが少なすぎます。

 まぁ、物持ちが良いと言えば響きは良いのですが、

 色んな服を着こなしてこそ、真の紳士といえるのですよ?」


「そうだぞ媛遥!俺も付き合ってやるから行こうぜ!」


しれっと冱露木が混ざっていた。


「あ、私も明日やりたいことがあるんだった!」


「ほら、皆さん明日は大学へ来ないようですし、行ってきなさい」


 こうして私の明日は第三者達によって決められてしまった。雨井は私の焦りを知ってか知らずか、おそらく知っててこの提案をしたのだろう。


「そうと決まればこの仕事終わらせちゃいましょう!」


「おっしゃあ!俺もなんかテンションあがってきた!

 なんか手伝うことないか?!」


「私もよければお手伝いを……」


「お前は数学科だし理事長あなたは理事長でしょう!」


 ハチャメチャな二人を押しやって結局四時間もかかって乗っていた仕事を終わらせた。時雨君は珍しいことにその日の夜は私の食事の誘いを断った。少し驚いたものの、その時の私は特に気には留めなかった。


 しかし、私のその心理は自宅に帰ってから後悔することになった。今日一日、そして明日一日をも私は彼女に何のアクションもできないことになってしまう。話の勢いで様々なことが決まってしまったが、思い返すだけで焦燥に駆られていた。そんな私に雨井は紅茶を差し出し、ゆっくりと話し始めた。


「いいですか、媛遥さん。

 急がば回れ、『しいて』はことを仕損じる」


「『せいて』だ」


「そうとも言いますね。

 確かに貴方に残されたのは今日を終えて残り五日、

 明日はお買い物なので、四日ですね。


 さらに、あなたが彼女に会う時間を考えれば、

 あなたに残されているのは実質三日もないでしょう。


 でもね、今のあなただと、恐らく一年あっても

 彼女の心を掴んだとは思えないことでしょう。

 

 大切なのはね媛遥さん、あなたが彼女とどう過ごしたいかですよ」



 テレビでよく聞くその言葉も、悪魔が言うと少しは説得力があった。といっても、その悪魔も雨井となるとそこまで大きなものではなかったが。冱露木から明日の時間と場所を告げられるも、おそらくきっと守らないだろうと私は少し時間をずらして計画を立てていた。


 ふと、男二人組で服を買いに行くのもどうかと思った私は、時間と場所を告げて八足を誘ってみた。幸い、八足の会社は土日が休日なようで、メールにはハートマークが一つだけあった。来てくれるという意味だと理解するのに少し時間がかかったが、八足に申し訳なさを感じつつ、感謝のメールを送った。


帰ってきたメールにはスペードのマークが一つついていた。

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