ヒトとしての暮らし
蝉から人間になった男が、自分の人間としての住処にたどり着いたら、まず最初に何をすると考えるだろうか?掃除?いやいや、この家は今さっき出来たばかりだ。埃どころか、雨井いわく、雑菌一つもないそうだ。では部屋の把握か?いや、部屋は悪魔から渡された家の間取り図をここに来るまでに読んでおいたので、いちいち調べる必要はない。ではいったい何か? 答えは極めて単純。食事だ。
人として生きる上での不都合は悪魔のご厚意で基本的に解決するが、生き物としてのベースである生命活動については、これは自分でするほかにはどうしようもない。しかしいったい何を食べようか?私は人間が何を口にするのかわからぬまま、キッチンの冷蔵庫を開けた。そこには今まで見たこともない、もう一つの世界が広がっていた。……といっても、今となっては単に私がキャベツやトマト、ベーコンや卵を見たことがなかっただけの話なのだが。私はその中からキュウリを取り出し、カリッと一口噛んでみた。
「なんだこれ……微妙にまずい」
これが私の初めての人間としての食に関する感想であり、後に大後悔の元となる偉大な一口となった。
その他、刺身は生臭く、納豆に至っては果たして食べ物なのかどうかも疑っていた。総じて、私の人間の食に対する感想は……
「苦労してるんだな、人間も……」
この後しばらく木を削り樹液を舐めようとしたことがあるのは、ここだけの秘密だ。ちなみに、食事に関して『大好物』と言えるものが現れたのは、ここより少し後の話になる。
次に私がとった行動は、もちろん排泄だ。汚いと思うかもしれないが、これも立派な生物の生理活動なのである。しかし、蝉の排泄は基本あの尿のみであり、固形物を出すなどという考えは無論なく、当然はじめでアレを出したときは、ショックのあまり自分の体を小一時間疑った。
「迷子のお呼び出しを申し上げろ! 迷子のお呼び出しを申し上げろ!」
「はいはいはいはいはいはい、なんですか」
「おい、あれは……なんだ!」
「……はい?」
「だから! あの! 茶色い何かはなんだ!」
「それ私に聞きますか」
「出ないようにしろ! びっくりするから!」
「死んじゃいますよ」
さて、食事、トイレ、ここまでくればもう次に何が来るかは想像がつくであろう。そう、私が次にしたのは、睡眠だ。ちょうど私が人間になったのは夜のことだったのだが、蝉であった頃よりも、人間の睡魔の方が断然すさまじいものがあった。トイレを済ませた私は、寝室へと向かった。そこでも私がショックを受けたことがあった。今となっては誠に馬鹿馬鹿しいことなのだが、木がなかったのだ。当時の私にとって寝る場所=木であったため、どうやって寝ればいいのかわからなかったのだ。部屋には広めのベランダ、テレビと、少し広めのベッドがあったのだが、ベッドの存在意義がわからなかった私は、どこで寝ればよいのだと絶望していた。
「おい、雨井……」
「なんですか」
「私にどこで眠れというのだ」
「いや、ベッドがあるじゃないですか」
「木で寝たい」
「無理ですって」
「木でなければ私は眠れない」
「死んじゃいますよ」
「あの真っ平らな布きれでどうやって眠れというのだ!」
「……私が困るので一応サービスしときますね、『常識』」
そこからしばらく、私は人間としてそこそこの生活を送れるようになった。朝はベーコンエッグとトーストを食べ、睡眠はベッドで、低反発枕の気持ちよさにはまり、トイレに関しては洗浄機能を使いこなせるまでに至った。
さて、そこからがまた難関であった。いよいよ私は、人として生きていくための知識を得ることに着手した。書斎にある膨大な数の本から、理解できるものを選び出し、分からない単語や補完情報をネットで調べるという日々が続いた。
日本の大学入試の挑戦権は年齢制限があるとのことで、私はいち早く入学するため大学受験の勉強も同時進行に行った。屋敷の書斎は変わった性能があり、私が完璧に理解した本は次々蔵書棚なる所へと機械で送られ、新しく必要とする情報が載っている本が本棚ごと追加されるのだ。
たまに雨井の悪戯で官能小説や官能漫画が混ざることもあるが、その本で雨井をはたくという一連の流れができた頃、悪戯の回数は減っていった。
私は焦って勉強した。大学受験まで、雨井の悪戯が落ち着いてからもうあと3か月しかなかった。
実は、後に理由は分かるのだが、亜心大学には世に言う『赤本』というものが無く、傾向と対策を練ることができないのだ。
そこで私は、亜心大学以外の赤本を全てやれば、何か大学の傾向と対策が練れるのではないかと考えた。おかげで書斎は目が痛くなるほどの赤で染まったこともあったが、何とか亜心大学の試験一ヶ月前には全ての大学の赤本を終えることができた。
しかし、傾向と対策は掴めずにいた。
大学によって求める人間が違っていたからだ。ある大学では一般常識を重んじ、その枠の中でいかに発想を広げられるかを問い、ある大学では常識にとらわれない自由な発想のもと、いかにクリエイティブな物を、いかに人を驚かせるようなものを提示できるかを問うていた。全てやったものの、結果は過去の問題を見てみぬ限り、その大学が何を求めているのかは分からない、というものになってしまった。
「あいつの勧めの亜心大学……いったいどんな人間を求めているのだ」
私は悩みに悩んだ。ふと、やつの言葉を思い出す。
「その大学に入れば、天才への道間違いなしです!」
大学に入れば天才になれるということは、別にその大学は天才が欲しい訳ではないのではないか? ならば、いったい何を求めているのか? 私はためしにその大学の資料を見てみた。
「毎年の入学者数は約五百人程か。
まぁ、天才ばかりが集まる大学だ、そりゃ入学者数も少ないだろう。
いや、待てよ、よく見るとこの大学、かなり変な土地に建っているな。
環境保全が謳われる世の中とはいえ、こんな田舎の町のこんな周りが樹に囲まれている大学、
そうそうないだろう。
あぁ、そうか、そういうことか。
天才ばかりが集まる学校、しかし変な立地の学校。CMもない。
分かったぞ、この学校が求めている答えが」
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