指輪と花嫁

謌名波(浜床奈実)

第1話 指輪と花嫁

 ぼくが彼女に出会ったのは、6月の梅雨入りの時期だった。


 それは湿度も高くなりはじめ、さあ夏に入ろうかとしているちょうどそんな頃。

 代わり映えのない日々、当たり障りのない会話。そんなことの繰り返しで過ぎていく毎日をただ平凡に生きていた、そんな時期。

 自分の住むアパートの1室と、自分がアルバイトをしているバイト先の行き来を繰り返す中で、いつも目にしている工場があった。

 今はもう稼働していないのか、外観から見ても外装に錆が出てきていたり、蔦が絡まり始めているような、いうなれば廃工場という雰囲気のそんな場所。

 なんてことのない日常にある、なんてことのない代わり映えのない風景の1つ。

 そんなふうにずっと思っていたのだけれど、なんだかその場所が妙に目に入って来て、何故かそこに近づく度に、横を通る度に、目で追ってしまっている自分に気が付くのにそう時間はかからなかった。


 あるバイト帰りの1日だった。

 それなりの高校を出て、それなりの大学を出て、大学院まで出たものの、上手く就職することができず、いわゆるフリーター生活をしているぼくだったのだが、さすがに5月中旬からの23連勤は人生でも初の体験で、ちょっと自分でも疲れていたのかもしれない。バイト先を出るまでは、妙にハイなテンションで疲れなど微塵も感じていなかったのだけれど、その場所を後にし自分の部屋へと帰るちょうど中間地点の辺りから立つのも覚束ない程の疲労感が急激に押し寄せてきた。

 倒れ込みそうになった自分の視界に、その廃工場が目に止まった。

 普段なら絶対そこに入ろうとすら思わなかったはずなのに、そのときは何故か吸い寄せられるようにそこに入り込んでいく自分がいた。

 

 どれくらいの時間が経っていたのだろう。

 少し埃っぽい空気の中、自分のくしゃみの音で眼を覚ました。

 ここはどこだろう。

 廃工場の中へ吸い寄せられるように入っていってしまったのは覚えている。

 暗がりの視界の中、微かな月明かりが、頭上から漏れてきているが、充分な光とは言えない。と、するならばここはあの廃工場の地下室だろうか。

 スマートホンを取り出し、光を付けようとするのだが、普段自分の入れているポケットの定位置に見当たらない。ならばカバンの中に入れているのかと中を探ろうとして思い出す。

 そういえば、バイト先の制服を入れるロッカーにカバン自体を置いてきてしまった。


 もうダメだな、と思ったそんなときぼくは彼女に出会った。

 微かに漏れる月明かりに照らされた彼女はあおくうつくしかった。

 こんな場所で、こんなに綺麗な……。

 言葉にできないとはこのことをいうのだろう。

 ぼくは、その日彼女に出会った。


 彼女はそこから動けず、言葉も喋れず、疲れていたようなので、何かしてあげたい思いに駆られたぼくは、それから毎日彼女に会いに行くことにした。

 

 彼女は水を求めていた。

 ぼくは毎日彼女に水を渡しにいった。

 少し疲れ気味だった彼女も水を飲む度に少しづつ元気になっていくようだった。

 

 元気になっても彼女は中々動くことができず、話すことも難しそうだった。

 ぼくは彼女のことを彼女と呼び続けるのにも失礼な気がしたので、月明かりに照らされたときの色に因んで「あおい」さんと呼ぶことにした。

 

 ぼくはシルバーアクセサリーが趣味で、たまにアクセサリーや指輪などを自作したりしている。

 今日は、あおいさんへ水と一緒に自分の作った指輪を渡すことにした。

 残念ながら宝石はつけられなかったけれど、ぼくの月給や生活費から考えてギリギリ捻出できる限界の額の指輪をプレゼントした。

 「あおいさん、ぼくの花嫁さんになってください」


 アルバイト先で今日の分の仕事も終わり、これから帰ろうとしていたとき、アルバイト先の後輩たちがこんな雑談をしているのが耳に入って来た。


 「うちのオヤジ、不動産屋に勤めてるみたいなんだけど、最近大きい開発するらしいんだってさ」

 「へぇ~、どんな開発?」

 「この辺って田舎ってこともあって、使われなくなった民家や病院とか、工場、学校、公園とかいっぱいあるでしょ」

 「あるね~」

 「それが結構密集してる場所があるからその辺一体をまとめて更地にして、新しく大きな施設作るんだってさ。集合住宅かおっきな系列のデパートにするらしいよ」

 「ふ~ん」

 「あ、あと何か最近自分の担当してる場所に無断侵入する人がいた形跡があるらしいって話してたな」

 「え、ウケるんだけど」

 「で、これはその近所に住んでるうちの後輩の中3の子がいってたんだけど、夜中になると毎日居ないはずの人影がそこから出てきてうわ言のように独り言を言ってるんだって「今日も綺麗だったよ、また明日も来るからね」って。」

 「え~、それマジなの?ありえなくない?もしほんとだったら、気持ちわるくね?」

 「なんか、あまりにも酷いようなら柵建てたり張り紙したり、警備会社雇わないといけないかな~、って嘆いてたなー」

 「ふ~ん、大変そうだねぇ~」


 またいつもと代わり映えのないどうでもいい話をしているな、というのを横目にぼくは、タイムカードを記入し、挨拶もそこそこに、いつものように水を持ってあおいさんに会いにいくことにした。

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