失恋童話
海野しぃる
人魚姫の夢
良く晴れた昼下がり。
俺は自宅の窓辺を眺めながら教会の鐘の音を聞いていた。
また今日も主は良き男と良き女を引き合わせたようだ。
天に
「……くだらん、こんな思索にはそれこそ意味も価値も無いというのにな」
心底惚れた女性が結婚すると聞いたのは、まだ俺が最初のヒット作を飛ばす少し前のことだ。
俺だって今でこそ多少売れているが所詮は三文小説家。
それがパトロンである政治家の娘と結ばれるなど世間的にも許されることはなかった。
それに……その、なんだ。俺は醜い。自他ともに認める醜男だ。
ルイーゼ、君のような素晴らしい人にはその身分に似合うもっと良い男が居る。
君は少し頭の中がロマンティックに過ぎる所こそ有るが、心根は優しくまた見目麗しき
俺が様々な思いを込め、窓の外に向けてため息を吐き出すと同時に、安下宿の俺の部屋のドアが勢い良く開け放たれた。
「よう、元気にしているか兄弟? 俺が折角遠くから遊びに来てやっているのに引きこもっているってのはどういう了見だ? 朋あり遠方より来る、また楽しからずやって言うじゃねえかよ」
無礼にも物思いに耽る俺の下宿に押し入ってきたこの浅黒い肌の客人は、馴れ馴れしく俺の肩を叩くと作業机に腰掛けた。
こいつの名はアレクサンドル・デュマ。俺みたいなぽっと出と違って長年キャリアを積み重ねている大作家様だ。しかも女にモテて、家族まで居る。下品ではあるが、人間として真っ当で、創作にも真摯な態度を見せるところが実に好ましい。
まあ絶対にこいつの前では言わないだろうが。
「観光は終わったのか?」
「ああ、息子とあの女は何やらまだまだショッピングを楽しんでいるが俺はこの通り自由の身さ」
「細君相手にあの女呼ばわりか?」
「籍入れてねえし」
「なぬ?」
いつもながら本当にとんでもない奴だ。
俺の驚いた顔など見えてないようにアレクサンドルは一人で喋り続ける。
「昨日からプラプラ遊び歩いていたんだが小遣いも尽きてな。ところでデンマークの女は良いなあハンス? 気取ったところが無くて……何処とは言わんがこう……大らかで!」
だらしない笑みを浮かべて指をワキワキ動かすアレクサンドル。
全く下品な男だ。こんな男に天才的な
「そうか、異性なんてもの、俺にはまったく分からんがな!」
「恋愛作家様とは思えない台詞だな! 勿体無い! 良い店紹介してやるぜ?」
「……馬鹿め」
天才で、しかも俺の本の愛読者だ。
だから多少の無礼は笑って許そう。それにこいつの下品な口ぶりだって其処まで嫌いではない。
「一つ良いことを教えてやろう。俺は女などもう懲り懲りだ! 二度と恋なんてするものか! ああ自分の愚かさと厚顔無恥な振る舞いを思い出すだけで……俺は……!」
「ふられたのか!? まあ仕方ないわな。だけど今の台詞、まるで恋愛物の主人公みたいじゃないかハンス・クリスチャン・アンデルセン! 先ほど恋愛作家様とは思えないなんて言ったがありゃ撤回だ! やっぱりお前は最高に恋愛作家に向いている」
「全く嬉しくない褒め言葉だ! 礼は言わんぞ俺はあくまで童話作家だ! 勘違いするな!」
そう、申し遅れていたがこの俺ことハンス・クリスチャン・アンデルセンは小説家として名前が売れている。
代表作は「即興詩人」、ジャンルは恋愛、しかもとびきりの悲劇だ。
まあ世の人間とは自分より不幸な人間のために涙を流して善良ぶりたがるものだ。
そういう連中の為に一本ぶつけてやったら思わぬ大ヒット、こうして新進気鋭の恋愛作家に成り下がってしまった訳だ!
「怒るなよ、お前の作品をデンマークの、いいやヨーロッパのマダムと若い女性達が楽しみにしているんだ。きっとまだ見ぬお前のことをあの即興詩人のアントニオと重ねあわせて熱くも淡い恋心を抱いている女の子だって居るだろうに!」
恋心、か。
くだらん。実にくだらん。そんなもの砕け飛び散った欠片としてバラバラになってしまえば良い。
くだらん。本当にくだらん。現実の前に淡く儚く崩れ落ちる恋心なぞ、何の価値が有るのだろうか。
「だからどうした……俺は惚れた女一人も自分の手で幸せにできん男だ……」
「こいつは相当重傷だな! 分かったよ! 店と言わずに良い娘を紹介してやろうじゃないか! 異国の娘だが気立てが良くて頭も良い。何よりお前の作品のファンだ。頭の良い女は嫌か? 俺は嫌だ。なにせ浮気がバレるからな。でもお前はそういうのに興味が無いし――」
ああ――――煩い。
俺の作品が好きという時点でそいつの頭はお花畑か、あるいは人の苦しみに愉悦を覚える破綻者だ。俺は聞こえの良い夢ばかり語って、美しいものだけ描いて、それが現実には無いと突きつけることしか出来ない惨めな人間だというのに。
「――ま、要するにだ。結婚は良いぞ! お前も相手を探してみろ! 生活が安定すれば作品も整うってものさ。俺は……」
「分かった。お前が勧める店に行こうじゃないか」
「おっと、じゃあ丁度良い。俺のオキニを……」
「誰も貴様好みの店とは行ってない! 酒だ! 酒を呑むぞ! 肝臓を病むまで飲んでやる! だが奢れ! 何せ俺はまだ一発屋の貧乏作家なんだからな!」
アレクサンドル、お前のように生まれの悩みにも負けず、数多い訴訟や周囲からの妬み嫉みにも負けず、何時迄も何処迄も輝き続けるお前のような男が今の俺には眩しすぎるんだ。
「ははははは! 良いぜ兄弟! 今夜はぶっつぶれるんじゃねえぞ! 俺は酔いつぶれた野郎をつまみ食いする趣味はねえからな! じゃあちょっとかみさんから小遣いもらってくるとするか! ついてこーい!」
まったく馬鹿げてる。困った男だ。だがこの男と一緒に居ると、不思議と失恋の痛手を忘れられた。
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前後不覚になるまで酔った。似合わぬ歌を歌って、下宿まで戻ろうとして……その後どうしたんだ俺は?
とりあえず瞼を開けて体を起こし、辺りを見回す。
「む?」
目を覚ますと、俺は王侯貴族の寝室と思しき場所のベッドで眠り込んでいた。
こいつは一体何処の貴族様の屋敷に招かれていたんだ?
「王よ、おめざめになったのですね!」
俺は近くに居た身なりの良い男に声をかける。
「おい、貴様。ここは何処だ?」
「何をおっしゃっているのですか王様? ここは貴方様の作りし海底都市ル・リエー。今の今まで寝ていらしたのでしょう?」
「王? 海底?」
俺は自分の腕を見る。ウロコが生えていた。
首に触れる。豊かな髭のせいで気づかなかったがエラが生えていた。
「鏡! 鏡を持って来い!」
男の持ってきた鏡を覗くと……ああ! ああなんということだ!
俺の身体は人魚へと変化していたのだ!
「ああ……」
「王様!」
「少し黙っていろこのトンチキ! 貴様のような……うわぁ!?」
「どうしたのですか!? 私の顔に何か?」
「お、おまえ! さっきまで人間の面だっただろうが! なんだその魚みたいな面は! いや魚だ! 魚そのものだ! ええい醜い!」
俺は今悪夢の中に居る。
それだけはハッキリと分かる。
慌てて窓へと走り、外の風景を眺める。
斜め上にねじ曲がる縮尺の狂った街並み。
異形の住民達。
いずれも俺の知るデンマークの街並みとは程遠い。
「あああああああああ! なんなんだこの俺の美学とかけ離れた頭のおかしい街は!」
困った。
実に困った。
こんな愉快な悪夢は初めて見る。
一体俺はどうすれば良いのだ! このままじゃ腹が捩れて笑い死にしそうだぞ!
「何やら騒がしいですね、どうしたのですかお父様?」
「おお、これはアリエル様!」
「ん? なんだ! 今度は……」
俺は声の方を見て思わず息を呑む。
俺の寝室に人魚の少女が入ってきたのだ。
ただの人魚ならばもはや驚くまい。
だが彼女はルイーゼにそっくりだったのだ。
ルイーゼ、俺がまだ無名だった頃からの愛読者。
太陽に良く似た暖かな瞳。栗色の柔らかな髮。淡い肌の色に赤い唇。紡ぐ言葉は滑らかで優しく、百合の花畑のような甘い香りがする女性。何より俺の一番のファンだった。
そうだ――あの「即興詩人」だって家庭に入った彼女が読んでくれることを祈ってご婦人向けに書いたのだ! 書いたのに!
「可哀想なお父様、きっと随分と眠ってらしたからまだ夢うつつなのよ。もう少し休めばきっと元に戻るわ」
「む、あ、ああいや……」
アリエルという名前の利発そうな少女はそう言って微笑む。
ああ、もしも俺に相応の地位が有ったならばルイーゼとの間にこんな愛らしい娘が生まれていたかもしれない。
俺は……俺は何故靴職人の息子なぞに生まれたのだ!
この夢の中のように、偉く生まれたかった! 金持ちに生まれたかった! そうしたならば――――そうしたならば彼女を悲しませずに済んだ筈なのに!
「どうしたのお父様?」
アリエルの声で俺は思惟の世界から戻ってくる。彼女は心配そうに俺の表情を伺っていた。ああなんと愛らしくて、愛らしくて、ああそれ以外になんと表現すれば良いのだろうか。
「ああ……すまないな、アリエル。寝ぼけているようだ」
「あらあらお父様ったら、そんなことでは困りますわ。私、今年で十五になったのよ?」
「十五に?」
「十五歳になったら他のお姉さまと同じように地上を見に行っても良いのでしょう?」
「…………ええと」
近くの冒涜的なまでに醜い魚顔の男をちらりと見る。
頷いているところからすると恐らく事実なのだろう。
「やめておけ、ろくなところじゃない。パンドラの箱の中身と同じだよ。開けてみなければ分からないが、開けた時にはもう遅い」
「でも知りもしなければ良いものとも悪いものとも言えないわ! そうでしょうお父様!」
「成る程、蛇はそう言ってアダムとイブに知恵の実を勧めたのかもしれんな」
「酷いわお父様!」
ああっ……やってしまった。
つい口が滑るのが俺の悪い癖だ。
しかもなまじ正確に表現をしようとするものだから相手の心を深く傷つけてしまう。
勿論普段ならば罪悪感など感じないし、ルイーゼはそんなところさえ面白いと言ってくれたがこの娘は別だ。
年頃の若者らしく勝手に怒り、ひとしきり喚いた後、俺の元から去っていく。
手に取るように分かる。それが普通の心理というものだ。
「待てアリエル、少し落ち着け。今のは俺が言い過ぎた」
「なんでお姉様は良くて私ばっかり駄目なの?」
「そうだな。お前の言う通り許可は出す。お前も地上を見に行くが良い。だが危ないことはしてくれるなよ」
俺ともあろうものが、その時は珍しく子供の機嫌取りなどしてしまった。
あいつが見たら俺を笑うに違いあるまい。だがこれは夢だ。気にすることも無い筈だ。
「勿論よ、お父様!」
それにルイーゼと良く似た美少女が娘になるなど、この先の俺の人生には絶対にあり得ないことだ。
それどころか人の親になる経験も間違いなく無理だろう。
故に、この夢の中の娘を甘やかしてやりたいという気持ちが湧き上がるのを敢えて止めようと思えなかった。
遠ざかる娘の背中を見つめていると、俺の意識はゆっくりとこの忌まわしい人魚の王の肉体を離れていった。
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